君が奏でる周波数

君が奏でる周波数

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第一章 完璧な不協和音

僕、音無奏(おとなし かなで)の耳は、少しばかり人と違っている。人が「声」と呼ぶものを、僕は「周波数」の集合体として聞いてしまう。会話はオーケストラの演奏に似ていて、ほとんどの人の声は、チューニングの狂った楽器のようだ。喜びで上ずる声は高周波が耳障りに響き、隠し事のある声は基音が不安定に揺らめく。嘘をつく瞬間の、ほんの数ヘルツの不自然な下降は、爪で黒板を引っ掻く音よりも不快だった。

だから、僕は人が苦手だった。教室のざわめきは、僕にとって不協和音の洪水だ。建前と本音が入り乱れ、それぞれの周波数がぶつかり合って汚いノイズを生む。ヘッドフォンで外界の音を遮断し、ただ窓の外を流れる雲を眺めるのが、高校二年生の僕の日常だった。友人なんて、いるはずもなかった。誰もが僕の前では、どこか調子の外れた音を奏でるからだ。

「えー、今日からこのクラスに新しい仲間が増えます。水瀬さん、入って」

担任のくたびれた声(基音120Hz、疲労で倍音が弱い)に続いて、彼女は教室に入ってきた。

その瞬間、僕の世界の音が、ぴたりと止んだ。

水瀬響(みなせ ひびき)。黒板に書かれたその名前よりも、彼女が発した第一声が、僕のすべてを奪った。

「水瀬響です。よろしくお願いします」

それは、声ではなかった。音楽だった。

基音となるA4(ラ)の音、440ヘルツ。それが寸分の狂いもなく、完璧に響いた。奇跡的なのは、その上に乗る倍音の構成だ。澄み渡る秋の空のようにどこまでもクリアで、それでいてシルクのように滑らかな響き。感情の揺らぎによる微細なノイズが、一切ない。まるで、宇宙の法則そのものが人の形をとって、声を発したかのようだった。

僕は生まれて初めて、他人の声に「美しい」と感じた。不協和音の洪水の中に突如現れた、完全な調和。僕は思わずヘッドフォンを外し、食い入るように彼女を見つめていた。クラスメイトたちの好奇と歓迎の入り混じった周波数が渦巻く中、彼女の声だけが、絶対的な静寂として僕の耳に届いていた。

第二章 440ヘルツの聖域

水瀬響は、すぐにクラスの人気者になった。誰に対しても分け隔てなく、その完璧な声で微笑みかける。彼女の周りにはいつも人の輪ができていたが、不思議なことに、その輪の中心で鳴り響く彼女の声は、決して濁らなかった。周囲の不協和音に影響されることなく、常に凛とした440ヘルツを保ち続けている。

僕は、そんな彼女を遠くから眺めているだけだった。僕にとって彼女の声は、汚してはならない聖域のようなものだったからだ。しかし、運命というのは、時に残酷な偶然を仕組む。

放課後の音楽室。僕は誰もいないその場所で、調律されたピアノの前に座るのが好きだった。鍵盤を一つ叩けば、純粋な音が空間を満たす。そこに嘘や偽りはない。いつものようにドビュッシーの『月の光』を弾いていると、不意に背後でドアが開く音がした。

「……すごく、綺麗」

振り返ると、そこに水瀬さんがいた。夕陽が差し込む音楽室で、彼女のシルエットがほのかに光っている。そして、彼女が発したその声は、やはり完璧だった。ピアノの純粋な響きと共鳴し、音楽室全体が神聖なホールになったかのような錯覚に陥る。

「ご、ごめん。邪魔するつもりは……」

「ううん、大丈夫」

僕は慌てて立ち上がったが、彼女はそれを手で制した。

「音無くん、だったよね。いつもヘッドフォンしてるから、音楽好きなんだなって思ってた」

彼女の声は、僕の鼓膜を優しく撫でる。この声を聞いていられるなら、何時間でも会話ができそうだ。僕の能力のことは、もちろん言えない。ただ、頷くのが精一杯だった。

「良かったら、もっと聞かせてくれないかな。君のピアノ」

その日から、放課後の音楽室は僕と彼女の秘密の場所になった。僕はピアノを弾き、彼女はそれを窓辺の椅子に座って静かに聴いている。彼女はあまり自分のことを話さなかったが、僕の拙い演奏を、いつも「宝物みたいに、優しい音だね」と言ってくれた。その言葉の周波数は、いつだって寸分の狂いもない。僕は、生まれて初めて人を信じられるかもしれない、と思っていた。彼女の奏でる音は、僕にとって唯一の真実だった。

ある日、僕は思い切って聞いてみた。

「水瀬さんは、どうしてそんなに……声が、綺麗なの?」

我ながら、馬鹿な質問だと思った。彼女は少し驚いたように目を丸くして、それから、ふっと寂しそうに笑った。その表情と、完璧に安定した声との間に、僕は初めて微かな違和感を覚えた。

「そうかな。自分では、よく分からないけど」

その声も、やはり440ヘルツ。揺らぎはない。だが、彼女の瞳の奥には、僕の耳では捉えきれない、もっと深い何かが沈んでいるように見えた。

第三章 サイレンスの告白

文化祭が近づき、クラスは浮き足立っていた。僕たちのクラスは演劇をやることになり、ヒロイン役には満場一致で水瀬さんが選ばれた。彼女のセリフは、まるでプロの俳優のように明瞭で、誰もが聞き惚れた。僕もまた、その他大勢と同じように、彼女の声の魔法にかかっていた。ただ、僕だけがその魔法の正体を知っているつもりでいた。それは「嘘のない魂」が奏でる音なのだと。

文化祭を三日後に控えた日、事件は起きた。体育館でのリハーサル中、ステージ上でセリフを言っていた水瀬さんが、ふらりと体勢を崩し、そのまま倒れ込んだのだ。

完璧な周波数が、途切れた。

僕は、思考が停止するのを感じた。誰よりも早く、僕はステージに駆け上がっていた。ぐったりとした彼女を抱きかかえると、いつも聞こえていたはずの、あの安らぎの音がどこにもない。そこにあるのは、ただ、怖いほどの静寂だけだった。

病院の白い廊下は、消毒液の匂いと、様々な人間の不安の周波数で満ちていた。駆けつけた彼女の母親は、僕の顔を見るなり深く頭を下げた。

「あの子と、仲良くしてくれてありがとう」

彼女の母親の声は、ひどく揺れていた。悲しみと、後悔と、そして諦めが混じり合った、複雑な不協和音。

「響は、過労だそうです。少し休めば……」

僕がそう言うと、彼女の母親は力なく首を振った。そして、僕の価値観を、世界を、根底から破壊する事実を告げた。

「あの子は……本当は、声が出せないんです」

耳が、聞こえなくなったかと思った。周りのすべての音が遠のいていく。

「……え?」

「響は、小さい頃の病気で声帯を摘出しました。今あの子が話しているのは、人工声帯のおかげなんです。首に埋め込んだ装置が、呼気に合わせて音を……」

母親は、言葉を詰まらせながら説明を続けた。

その人工声帯は最新のモデルだが、まだ開発途上で、人間の複雑な感情によって生じる声の微細な揺らぎまでは再現できないのだという。だから、どんな時でも、プログラムされた「理想的な発声」……つまり、常に安定した周波数の声を出すことしかできないのだ、と。

僕が「真実の音」だと思っていたものは、感情が抜け落ちた、ただの機械の音だった。

僕が「完璧な調和」だと信じていたものは、心が欠落した、無機質な信号だった。

彼女が時折見せた寂しげな表情。その裏で、彼女の声は完璧なままだった。それは、彼女が強いからではなかった。悲しみを声に乗せることすら、できなかったからだ。

洪水のような不協和音の中で、唯一の聖域だと思っていた場所は、実は最も空虚なサイレンスだった。

頭を殴られたような衝撃。僕の世界が、ガラガラと音を立てて崩れていった。

第四章 君が奏でる周波数

僕は、水瀬さんを避けるようになった。彼女に会うのが怖かった。僕の耳は、僕の能力は、一体何を聞いていたのだろう。一番大切なこと、一番聞くべきだった心の叫びを、僕は完全に聞き逃していた。完璧な周波数に安心し、その裏側にある彼女の孤独や痛みに、全く気づいていなかったのだ。自分の愚かさに、吐き気がした。

数日後、学校を休んだ僕の元に、クラスメイトから一通のメッセージが届いた。「水瀬さんが、音無くんに会いたがってる」。添付されていたのは、彼女の病室の番号だった。

僕は迷った。でも、ここで逃げたら、僕は一生、本当の音を聞くことから逃げ続けることになる。

僕はヘッドフォンを机に置き、病院へ向かった。

病室のドアをノックすると、「どうぞ」という、あの完璧な声が聞こえた。ベッドの上で体を起こした彼女は、少し痩せたように見えた。

「ごめんなさい。騙すつもりじゃ、なかったの」

彼女の声は、相変わらず美しかった。でも、今の僕には、その完璧さが痛いほど悲しく聞こえた。

彼女の傍らには、小さなホワイトボードがあった。彼女はそれに、何かを書き始めた。

『私の声、変でしょ。どんな気持ちの時も、ずっと同じ音。君のピアノみたいに、本当の気持ちを乗せられたらいいのに』

その文字を見た瞬間、僕の胸を締め付けていた何かが、ふっと溶けていくのを感じた。

そうだ。僕は彼女の声だけを聞いていた。彼女の言葉の意味を、その向こう側にある心を、見ようともしていなかった。

「変じゃないよ」

僕は、ゆっくりと口を開いた。

「君の声は、綺麗だ。僕は、君の声が好きだ。……でも、これからは、君の声だけじゃなくて、君の心を聞きたい。君が嬉しい時は一緒に笑いたいし、悲しい時は、声にならなくても、僕が隣にいたい」

僕の能力に頼るのをやめよう。周波数なんて、どうでもいい。一人の人間として、目の前の彼女と向き合おう。

僕の言葉を聞いて、彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。でも、嗚咽は聞こえない。声にならない叫びが、その表情だけで僕に伝わってきた。完璧な声は、彼女が背負ってきた途方もない孤独の証だったのだ。

僕は彼女のそばに寄り、そっとその手を取った。温かかった。

彼女は涙を拭うと、もう一度ホワイトボードにペンを走らせた。そこには、震える文字で、たった一言、こう書かれていた。

『ありがとう』

その瞬間、僕には聞こえた気がした。

どんなに美しい周波数よりも、どんなに完璧な調和よりも、ずっとずっと尊い、彼女の本当の心の声が。

窓から差し込む午後の光が、僕たち二人を優しく包んでいた。僕たちの間にはもう、不協和音も、完璧な周波数も存在しない。ただ、静かで、温かい、新しいメロディが生まれようとしていた。

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