追憶のプリズム
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追憶のプリズム

第一章 虹色の依頼人

水島湊の営む古道具屋『時のかけら』は、埃と郷愁の匂いがした。窓から差し込む午後の光が、無数の塵を金色にきらめかせ、忘れられた品々のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせる。湊はカウンターの奥で、持ち主のいなくなった懐中時計のゼンマイを、息を詰めて巻いていた。カチ、カチ、と蘇る微かな鼓動。それが、彼の日常のすべてだった。

あの日、最愛の妻、遥を事故で亡くして以来、湊の世界から色彩は抜け落ちた。彼は自らの手で、胸の奥から一つの感情を取り出した。それは、人の一生に一度だけ許される行為。取り出された感情は、物理的な「結晶」となる。彼が取り出したのは、鉛のように重く、光を一切通さない鈍色の結晶。『後悔』だった。それを川に投げ捨ててから十年、彼の心は凪いだ水面のように静かだったが、それは同時に、何も映さない虚ろな水面でもあった。

ドアベルが、澄んだ音を立てた。入ってきたのは、まだ二十歳を少し過ぎたばかりだろうか、快活そうな瞳をした若い女性だった。彼女は小さな桐の箱を、震える手でカウンターに置いた。

「あの、こちらで……壊れた『結晶』を直していただけると聞いて」

湊は眉をひそめた。表向きは古道具屋だが、彼は裏で『結晶師』として、持ち主の感情が具現化した結晶を修復する仕事を請け負っていた。公にはできない、知る人ぞ知る稼業だ。

「物によります」湊は短く答えた。

女性は、おずおずと箱の蓋を開ける。中に敷かれた真綿の上には、粉々に砕けた結晶の欠片が横たわっていた。しかし、湊は息を呑んだ。それは、彼がこれまで見たどんな結晶とも違っていた。ほとんどの結晶は単色だ。喜びは黄金色、悲しみは瑠璃色、怒りは深紅色。だが、その欠片は、まるでプリズムのように、角度を変えるたびに無数の色彩を放っていた。虹色の光が、店内の埃っぽい空気を静かに浄化していくようだった。

「祖母の……『喜び』の結晶なんです。亡くなる前に、私に託してくれて。一番大切な宝物だからって。それを、私の不注意で……」

女性――沙耶と名乗った――の声は、涙で潤んでいた。

湊は、指先で一番大きな欠片にそっと触れた。触れた瞬間、脳裏に温かい光が弾けた。知らないはずの赤ん坊の笑い声、陽だまりの中の縁側、誰かの優しい手の温もり。断片的だが、間違いなく幸福な記憶の奔流だった。これほどまでに複雑で、深く、豊かな『喜び』の結晶は見たことがない。

「……やってみましょう」

なぜか、断ることができなかった。その虹色の輝きが、湊の虚ろな心に、十年ぶりに小さな波紋を広げたからだった。

第二章 記憶のさざなみ

修復作業は、湊にとって瞑想に似ていた。彼は工房の薄暗がりの中、拡大鏡を覗き込み、ピンセットで微細な欠片を拾い上げる。特殊な樹脂を使い、パズルのように組み合わせていく。結晶は、単なる物質ではない。それは記憶の集合体だ。欠片同士が正しい位置を見つけると、カチリと微かな音を立て、淡い光を放って結合する。

作業を進めるたび、湊は持ち主の記憶の断片を追体験した。それは、沙耶の祖母が生きた、穏やかで愛に満ちた時間の記録だった。夫と肩を並べて見た夕焼け。初めて孫である沙耶を抱きしめた時の、腕に感じる確かな重みと温もり。庭に咲いた紫陽花の色。そのどれもが、きらきらしい『喜び』として結晶に刻み込まれている。

湊は、自分が捨てた『後悔』の結晶を思い出していた。あの鈍色の塊は、触れるたびに肌を刺すような冷たさと、自責の念だけを伝えてきた。遥を守れなかった無力感。彼女の最後の言葉を聞き逃した絶望。それら全てを、彼は川底に沈めたはずだった。

週に一度、沙耶が進捗を確かめに店を訪れた。彼女は祖母の思い出を、楽しそうに湊に語った。

「おばあちゃん、いつも笑っている人でした。でも、時々、遠くを見るような、何かを探しているような目をすることがあって……。この結晶を私にくれた時もそうでした。『これをあなたに託すわ。私の、始まりの光だから』って」

始まりの光。その言葉が、湊の心のどこかに引っかかった。

虹色の結晶に触れる時間が増えるにつれ、湊の中に奇妙な変化が起きていた。朝、飲むコーヒーの香りを、深く味わえるようになった。店の窓から見える街路樹の緑が、鮮やかに目に映るようになった。忘れていた感覚が、少しずつ蘇ってくる。それは、他人の幸福な記憶に触れることで、自分の凍てついた心がゆっくりと溶かされていくような、不思議な感覚だった。

彼は、遥と過ごした日々を思い出していた。彼女もまた、よく笑う人だった。陽だまりのような笑顔が、彼の世界のすべてだった。だが、その記憶は常に『後悔』のフィルター越しに見ていたため、温かいはずの思い出も、どこか色褪せて見えていた。

「もう少しで、完成です」

湊がそう告げると、沙耶は心の底から安堵したような笑みを浮かべた。その笑顔が、なぜか遥の笑顔と重なって見え、湊はドクリと心臓が鳴るのを感じた。

第三章 置き去りの真実

修復は最終段階に入っていた。残るは、中心核となる一番大きな欠片をはめ込むだけだ。湊は慎重にそれを台座に置き、最後の接着を試みた。その時、拡大鏡越しに見えたものに、彼は指を止めた。

核の、本当に中心。そこに、肉眼ではほとんど見えない、微細な傷跡があった。それは、三日月のような形をした、彼の『癖』だった。若い頃、まだ未熟な結晶師だった彼が、修復を施した結晶に、密かに残していた署名代わりの印。キャリアを積むにつれ、そんな未熟な真似はしなくなった。これは、彼が最初に請け負った、ただ一度きりの仕事の痕跡のはずだ。

――なぜ、これがここに?

湊の全身から血の気が引いていく。混乱する頭で、彼は震える指を核に押し当てた。その瞬間、これまでとは比較にならないほど鮮明で、強烈な記憶の奔流が、彼の意識を飲み込んだ。

それは、二十年以上前の、雨の日の病院の廊下だった。

若い湊が、医師から非情な宣告を受けていた。交通事故に遭った恋人、遥は一命をとりとめたが、脳に損傷を負い、最近の記憶、特に湊と出会ってからの記憶を全て失ってしまった、と。

絶望に打ちひしがれる湊。彼は、許されないと知りながら、最後の手段に打って出た。まだ意識の戻らない遥の枕元で、彼女の胸に手を当て、一つの感情を取り出したのだ。それは、遥の中にあった、湊への『愛情』の記憶そのものだった。それは淡い桜色の、温かい光を放つ結晶だった。しかし、事故の衝撃で、その結晶には既に大きなヒビが入っていた。

彼はそれを持ち帰り、持てる技術のすべてを注ぎ込んで修復した。だが、彼の技術は未熟で、完全には直せなかった。ヒビの痕跡は残り、愛情の記憶は、『湊』という対象を失った、漠然とした『喜び』の記憶へと変質してしまった。彼は、その不完全な結晶に、三日月の傷を残した。そして、それを遥の手に戻したのだ。

「君がこれから幸せになるためのお守りだ」

そう言って。

記憶を失った遥は、湊を誰だか認識できないまま、退院後に故郷へ帰り、やがて別の男性と結婚したと風の便りに聞いた。

目の前の、虹色の結晶。その核にあるのは、自分が遥から取り出し、不完全に修復した『愛情』の記憶だったのだ。沙耶の祖母は、湊が生涯をかけて愛した女性、水島遥、その人だった。遥は、湊を忘れたまま、その『始まりの光』を核として、新しい人生を歩み、夫を愛し、子を育て、孫の誕生を喜んだ。その一つ一つの『喜び』が、核である桜色の結晶の周りに層をなし、長い年月をかけて、この比類なき虹色の結晶を創り上げていたのだ。

湊は、その場に崩れ落ちた。自分が捨てた『後悔』は、遥の記憶を奪ってしまった罪悪感だった。彼女の幸せを願いながらも、心のどこかで、自分を忘れた彼女を許せずにいた。だが、違った。彼女は、幸せだったのだ。自分が与えた不完全な光を始まりとして、見事に、豊かに、人生を輝かせていた。

第四章 愛という名のプリズム

工房に一人、湊は呆然と座り続けていた。夜が明けて、朝の光が窓から差し込み、虹色の結晶を照らし出す。その光は、まるで遥の微笑みのように優しかった。

涙が、頬を伝った。十年ぶりに流す、温かい涙だった。

後悔ではなかった。彼の胸にあったのは、遥の幸せを奪ってしまったという思い込みと、独りよがりな悲劇だけだった。しかし、この結晶が、そのすべてを覆した。彼女は何も失ってはいなかった。むしろ、彼が与えた小さな光から、宇宙のような広がりを持つ幸福を紡ぎ出していた。

湊は、静かに立ち上がった。彼はもう一度、作業台に向かう。そして、今度こそ、持てる技術のすべて、そして遥への想いのすべてを込めて、最後の修復に取り掛かった。核に残っていた、若き日の未熟な三日月の傷を、彼は丁寧に、丁寧に消していく。それは、過去の自分との決別であり、遥の完璧な人生に対する、彼なりの祝福だった。

数日後、完成した結晶を前に、沙耶は言葉を失っていた。それは、以前よりもさらに深く、澄んだ輝きを放っていた。まるで、結晶そのものが呼吸をしているかのように、穏やかな光が明滅している。

「……ありがとうございます。おばあちゃんが、ここにいるみたいです」

沙耶は涙ぐみながら、深く頭を下げた。

湊は、静かに首を振った。

「お祖母さんは、とても幸せな人だったんですね。この結晶が、そう教えてくれました」

その言葉に、嘘はなかった。

沙耶が帰った後、店内には再び静寂が戻った。湊は、窓の外に広がる夕焼けを眺めていた。空は、オレンジと紫のグラデーションに染まっている。それは、彼が遥と共に見た、最後の夕焼けの色に似ていた。

彼の心を満たしていた鉛色の虚無は、いつの間にか消え去っていた。その代わりに、そこには静かで、温かい光が灯っていた。それは、愛した人の幸せを遠くから見守るような、切なくも満たされた感情だった。

愛は、失われるものではない。形を変え、記憶を変え、人の手を渡って、受け継がれていく。遥が遺した虹色の結晶は、湊自身の『後悔』をも、長い年月をかけて美しい光へと変えてくれたのだ。

彼は、カウンターの上の古びた懐中時計を手に取った。カチ、カチ、と規則正しく時を刻む音。それはもはや、止まった時間の象徴ではなかった。これから始まる、新しい時間のための、優しい序曲のように聞こえていた。


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