第一章 借り物の栄光
僕、水島湊(みなしまみなと)の世界は、インクの匂いで満たされていた。
僕が通う私立翠葉(すいよう)学園には、「記憶閲覧室」と呼ばれる特別な図書館がある。生徒たちは、自らの体験を特殊な装置で抽出し、「記憶本」として書架に預けることができる。その本を開けば、誰もが本の持ち主の記憶を、五感の全てで追体験できるのだ。
それは魔法であり、同時に麻薬だった。
僕は、その麻薬の常習者だった。平凡で、特技もなく、クラスでも目立たない存在。そんな僕にとって、記憶閲覧室は唯一の逃げ場所だった。放課後のチャイムが鳴ると、僕は決まって閲覧室の奥にある、革張りのソファを目指す。今日の獲物は、サッカー部エース・橘蓮の最新刊。『歓喜のヘディングシュート(全国大会予選決勝ロスタイム編)』。
本を開く。途端に、インクの香りが鼻腔をくすぐり、世界が反転した。
全身を叩きつける雨、ぬかるんだピッチの感触、千切れんばかりに叫ぶチームメイトの声。僕の心臓は橘蓮の心臓と同期し、激しく脈打つ。目の前に、ふわりと上がったクロスボール。これだ。僕は泥を蹴って跳躍する。スローモーションになる世界。ボールが額に当たる衝撃、そして、ゴールネットが揺れる音。地鳴りのような歓声が、僕の鼓膜を、魂を震わせた。
「……はぁっ、はぁっ」
気づけば、僕は閲覧室のソファの上で浅い息を繰り返していた。全身にうっすらと汗が滲み、まだ心臓が痛いほど高鳴っている。窓の外はすっかり茜色に染まっていた。あの興奮、あの達成感。それは紛れもなく本物だったが、僕のものではなかった。本のインクが乾いてしまえば、僕に残るのは、またあの空っぽの自分だけだ。虚しさが押し寄せる前に、僕はそっと本を閉じ、返却カウンターへと向かった。
翌日、学園は静かなパニックに陥っていた。
「おい、見たか? 記憶閲覧室の『幸福』カテゴリの本が、全部白紙になってるんだ!」
教室で交わされる会話に、僕は耳を疑った。まさか。僕は鞄も置かずに閲覧室へと走った。ガラス張りのモダンな空間は、いつもよりずっと多くの生徒でごった返している。皆、不安そうな顔で書架を覗き込んでいる。
僕も『幸福』や『達成』の棚に駆け寄った。橘蓮の『歓喜のヘディングシュート』、吹奏楽部部長の『金賞受賞の瞬き』、学年トップの秀才が記した『満点の答案用紙』。あらゆる栄光と喜びが詰まっていたはずの本が、どれもこれも、まるで新品のノートのように真っ白なページを晒していた。インクの匂いだけが、かつてそこに物語があったことを証明するように、虚しく漂っている。
誰かの悲鳴が上がった。誰かが泣き崩れた。僕もまた、その場に立ち尽くすしかなかった。僕の逃げ場所が、僕を支えていた借り物の栄光が、一夜にして全て消え失せてしまったのだ。空っぽの僕を埋めてくれるものが、もうどこにもない。その事実が、鉛のように重く僕の肩にのしかかった。
第二章 白紙の書架
「幸福記憶蒸発事件」と名付けられたその異常事態は、学園の機能を静かに麻痺させていった。生徒たちの顔からは活気が消え、廊下はどんよりとした空気に満ちていた。これまで他人の成功体験を追体験することでモチベーションを保っていた運動部は精彩を欠き、難解な問題を天才の記憶を借りて乗り越えていた生徒たちは、授業についていけなくなった。
僕も例外ではなかった。借り物の自信を失った僕は、ますます人との会話を避け、教室の隅で息を潜めるようになった。空っぽの自分と向き合うのが、怖かったのだ。
そんな僕に、思いがけない役目が回ってきた。記憶閲覧室の司書教諭が病気で倒れ、図書委員だった僕が、臨時で閲覧室の管理を手伝うことになったのだ。もっとも、白紙化事件のせいで閲覧室を訪れる生徒は激減していたが。
がらんとした閲覧室で、僕は書架の整理をしていた。そこに、静かな足音が近づいてくる。振り返ると、同じクラスの月島栞(つきしましおり)が立っていた。彼女は僕と同じ図書委員だが、記憶閲覧室には滅多に姿を見せず、いつも旧図書館で古い紙の本ばかり読んでいる、少し変わった少女だった。
「水島くん。……大変だね」
「ああ……まあね」
彼女は白紙になった書架を見つめ、悲しそうに眉を寄せた。
「みんな、自分の物語を失くしちゃったみたい」
「自分のじゃない。他人の物語だろ」
僕は棘のある言い方をしてしまった。彼女は驚いたように僕を見たが、すぐにふわりと微笑んだ。
「そうかな。でも、読んでいる間は、確かにその人の心の一部になっていたはずだよ。喜びも、きっと本物だった」
彼女の言葉は、僕が目を背けていた事実を優しく突きつけてきた。そうだ。あの興奮は、僕の心臓が感じたものだ。ならば、あの虚しさは何なのだ。
「月島さんは、自分の記憶を預けたことある?」
興味本位で尋ねると、彼女は首を横に振った。
「ないわ。私の記憶なんて、誰も読みたがらないもの。平凡で、退屈で、特別なことなんて何もないから」
その言葉は、まるで僕自身のことを言われているようで、胸にちくりと刺さった。
「それに」と彼女は続けた。「私は、誰かの記憶を覗くのが少し怖いの。その人の一番大切なものを、土足で踏み荒らしてしまうような気がして」
彼女はそう言うと、一冊の本を手に取った。それは『悲しみ』のカテゴリに分類された、誰の記憶かもわからない古い本だった。
「幸福な記憶が消えたなら、残された記憶を読んでみようと思って。きっと、ここにも誰かの大切な物語が眠っているはずだから」
そう言って微笑む彼女の横顔を、僕はなぜか直視できなかった。灰色の世界の中で、彼女だけが確かな色を持っているように見えた。
第三章 最後のインク
事件の調査は難航していた。学園が誇る管理AIにもハッキングの痕跡はなく、外部からの侵入も考えられない。犯人は内部の人間、それも記憶抽出システムに精通した人物である可能性が高い、と噂された。
僕の心の中に、ある疑念が芽生え始めていた。月島栞だ。彼女はシステムに詳しい図書委員でありながら、頑なに自分の記憶を預けようとしない。他人の記憶を覗くことを「怖い」と言った彼女なら、「幸福な記憶」だけを消し去るという、奇妙な犯行に及んでも不思議ではない。
僕は彼女を問いただすべきか悩んだ。だが、証拠は何もない。そんな時だった。閲覧室の閉館後、一人で後片付けをしていると、管理AIから緊急アラートが鳴った。
『未登録の記憶本の生成を検知。隔離セクターにて実行中』
隔離セクター。それは、破損したり、持ち主が閲覧を拒否したりした記憶本を一時的に保管する場所だ。僕は息を飲み、セクターの扉を開けた。そこにいたのは、月島さんではなかった。
腰まで伸びる黒髪を揺らし、操作パネルに向かっていたのは、元ピアノ科の天才、響野奏(ひびきのかなで)だった。彼女の周りには、無数の記憶本が山積みになっている。そのどれもが、まばゆいばかりの光を放っていた。消えたはずの、幸福の記憶たちだ。
「響野……さん?」
僕の声に、彼女はゆっくりと振り返った。その瞳は、凍てつく湖のように冷たく、深い絶望の色をたたえていた。
「ああ、見つかっちゃった。まあ、いいわ。もうすぐ終わるから」
「何をしてるんだ! みんなの記憶を……!」
「返してほしい?」彼女は嘲るように笑った。「何のために? また、あなたたちみたいな空っぽの人間が、安物の感動を得るために消費するため? ごめんだけど、お断りよ」
彼女は立ち上がると、僕に向かって一枚の記憶カードを突きつけた。それは彼女自身の記憶だった。
「読んでみなさい。これが、あなたたちが求める物語の、本当の姿よ」
僕は恐る恐る、そのカードを携帯端末で読み込んだ。
―――視界に広がるのは、大きなコンサートホール。一身に浴びるスポットライト。しかし、聞こえてくるのは拍手ではない。ひそひそとした嘲笑と、失望のため息。指が、震えて動かない。目の前の鍵盤が、まるで僕を拒絶する生き物のように見える。簡単なはずのパッセージで、僕は致命的なミスを犯した。頭が真っ白になり、音が、ただのノイズの塊になっていく。観客席にいる両親の、憐れむような視線が突き刺さる。永遠に続くかのような、地獄の時間。
「……っ!」
僕は端末を取り落とした。あまりの絶望に、吐き気がこみ上げる。
「これが、私の最後のコンクールの記憶」と響野さんが静かに言った。「この記憶本は、『失敗』カテゴリで一番の人気を博したわ。みんな、天才の転落が面白くて仕方なかったのよ。私の痛みも、苦しみも、絶望も、全部あなたたちの娯楽になった。……ねえ、教えて。幸福な記憶に、一体どんな価値があるの? 薄っぺらくて、すぐに消費されて、誰かの自尊心を満たすためだけの道具じゃない!」
彼女の慟哭が、がらんとした閲覧室に響き渡った。僕は何も言えなかった。彼女の言葉は、一本の鋭い槍となって、僕の胸の、まさに中心を貫いていた。僕も、橘蓮の栄光を消費し、自分の虚しさを埋めていただけの、空っぽな傍観者の一人だったのだから。
第四章 僕だけの物語
彼女の言う通りかもしれない。僕らは、他人の輝かしい瞬間だけを切り取って、安全な場所から消費していただけなのかもしれない。その輝きに至るまでの努力も、その裏にあるかもしれない苦しみも、何も知らずに。
でも、本当にそうだろうか。
僕の脳裏に、ふと、とうの昔に忘れていた記憶が蘇った。
まだ小学校に上がる前、補助輪なしの自転車に初めて挑戦した日のことだ。何度も何度も転んで、膝からは血が滲んでいた。夕焼けが目に染みて、悔しくて涙が出た。もうやめたい、と弱音を吐く僕の背中を、無口な父のゴツゴツした手が、そっと押してくれた。そして、何度目かの挑戦で、ペダルが不意に軽くなった。振り返ると、父は遠くで、少しだけ笑っているように見えた。たった数メートル。でも、それは僕が初めて、自分の力だけで進んだ世界だった。
あの時の、擦りむいた膝の痛み。ペダルを踏み込む足の感触。頬を撫でた風の匂い。父の不器用な笑顔。
それは、橘蓮のシュートのような喝采も、響野さんのような栄光もない、取るに足らない、僕だけの記憶だ。誰にも貸す価値なんてないと思っていた。でも――。
「響野さん」
僕は、決意を固めて顔を上げた。
「僕の記憶を、一つだけ読んでくれないか」
僕は記憶抽出装置の椅子に、生まれて初めて座った。少し怖かった。でも、それ以上に、伝えたいことがあった。抽出された僕の記憶は、ほんの数ページにしかならない、頼りないインクの染みとなって本に綴じられた。
僕はその小さな本を、響野さんに差し出した。
「これは、僕が初めて自転車に乗れた日の記憶だ。誰も拍手なんてしてくれないし、世界が変わるような出来事でもない。でも……」
響野さんは訝しげに、しかし拒むことなくその本を開いた。彼女の表情が、わずかに揺らぐ。幼い僕の視界を通して、彼女は夕焼けに染まる公園を見ていた。転んだ膝の痛みを感じ、悔し涙のしょっぱさを味わっていた。そして、自分の力でペダルを漕ぎ出した瞬間の、あのささやかな、しかし確かな高揚感を、彼女もまた感じていた。
本を閉じた彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……痛くて……でも、少しだけ、温かい」
「これも、価値がない記憶かな?」
僕の問いに、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「ううん……」
その夜、隔離されていた全ての幸福な記憶は、元の書架へと戻された。しかし、学園は以前の姿には戻らなかった。事件をきっかけに、誰もが「記憶を消費すること」の意味を問い直し始めたのだ。
記憶閲覧室には、少しずつ変化が訪れていた。華々しい成功体験だけでなく、『初めて友達と喧嘩した記憶』や『失恋して一晩中泣いた記憶』、そして『何でもない日の、夕焼けの記憶』といった、これまで価値がないと思われていた本も、誰かの手によって登録されるようになった。書架は、人間の感情の複雑さと豊かさを、ありのままに映し出す鏡へと変わっていった。
僕はもう、記憶閲覧室には通っていない。代わりに、一冊の真新しいノートを買った。そこに、日々の出来事を、自分の言葉で綴るためだ。それは誰かに見せるためではない。未来の空っぽになりそうな自分が、いつでも立ち返れるように。僕だけの、決して白紙にはならない物語を、紡いでいくために。
ノートの最初のページに、僕はペンを走らせた。
『今日は、月島さんと初めて一緒に下校した。公園の夕焼けが、借り物の記憶なんかより、ずっと綺麗だった』