虚構の鐘が鳴る学園

虚構の鐘が鳴る学園

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第一章 二重写しの偏頭痛

こめかみの奥で、脈打つ痛みが世界を二つに引き裂く。

俺、水無月朔(みなづきさく)の日常は、常にこの分裂した現実との戦いだった。視界の端で、完璧に磨かれた廊下の床が、その下に隠された無数の染みや亀裂を透かして見せている。耳には、楽しげに響く友人たちの声と、その裏で絶えず鳴り続ける低周波のような耳鳴りが混じり合う。

ここ、私立常盤台(ときわだい)学園では、言葉が現実を上書きする。

「見て、廊下がぐーんと伸びた!」

誰かがそう叫ぶと、視界の中の廊下は本当に、非現実的なほど長く伸びていく。生徒たちはその上を笑いながら走り、その現象を疑いもしない。だが、俺の脳だけが、伸びた廊下の虚像と、本来あるべき長さの『真実』の廊下を同時に捉え、その矛盾が激しい偏頭痛となって神経を焼き付けた。

この学園は、無数の嘘で塗り固められた箱庭だ。言葉の効力は短く、やがて世界は元に戻る。だが、その刹那的な書き換えですら、俺の精神を確実に削り取っていく。

キーンコーン、カーンコーン。

澄んだチャイムの音が、学園の巨大な時計塔から響き渡った。授業の終わりを告げる、絶対的な合図。誰もが疑うことなく、その音に従って席を立つ。だが、俺には見えていた。時計塔の長針が、一瞬、ありえないほど微細に震え、次の瞬間にはコンマ数秒ぶん、未来へ跳躍したのを。

この学園でたった一つ、決して揺らぐことのない『嘘』。「この学園の時計は常に正しい」――その言葉だけが、まるで法則のように、この世界に永続的に君臨していた。

第二章 歪みの輪郭

「朔、また顔色が悪いよ。保健室行く?」

隣の席の陽菜(ひな)が、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。彼女の瞳には、この世界の『認識』だけが純粋に映っている。淀みなく、美しく、そして嘘で固められた世界が。

「いや、大丈夫だ」俺はこめかみを押さえながら、かろうじて笑みを作った。

陽菜は窓の外を指さした。ガラスの向こうには、絵の具で描いたような完璧な青空が広がっている。「見て、今日も快晴。こんな日は外で運動するに限るよね!」

彼女の言葉が、俺の脳を再び刺した。俺の目には、その快晴の空の向こう側に、分厚く渦巻く鉛色の雲が重なって見えていた。まるで薄い膜一枚を隔てて、二つの天気が同時に存在しているかのように。痛みが波のように押し寄せ、思わず机に突っ伏した。

その時だった。再び、時計塔の鐘が鳴った。昼休みを告げる鐘。だが、壁掛け時計はまだ十一時四十五分を指している。本来鳴るには十五分も早い。

しかし、陽菜を含むクラスメイトたちは、何の疑問も抱かずに弁当を広げ始めた。「お腹すいたー!」「今日の鐘、なんだか待ち遠しかったな」そんな会話が飛び交う。教師さえも、それが正しい時間であるかのように、静かに教室を出て行った。

世界が、軋みを上げている。

他の言葉による上書きは、一時的な幻に過ぎない。だが、この『時計』に関する嘘だけは違う。それは学園の物理法則そのものを根底から歪め、人々の時間感覚さえも支配している。なぜ、この嘘だけがこれほど強力なのだろうか。その疑問が、偏頭痛とは別の、冷たい疼きとなって胸に広がった。

第三章 沈黙は語る

放課後、俺は学園の禁域とも噂される旧図書館の、さらに奥にある資料室に忍び込んだ。黴と古い紙の匂いが鼻をつく。この場所に満ちる静寂は、普段の喧騒に満ちた嘘の世界とは異質で、ほんの少しだけ俺の頭痛を和らげてくれた。

目的は、この学園の創設に関する記録。何か手がかりがあるはずだ。

埃をかぶった書棚の隙間で、俺はそれを見つけた。部屋の隅にひっそりと立てかけられた、一枚の巨大な黒板。艶のある黒曜石のように滑らかで、チョークの粉一つ付着していない。ただならぬ存在感が、そこにはあった。

これが、噂に聞く『沈黙の黒板』か。

俺は吸い寄せられるようにそれに近づき、脳内でせめぎ合う二つの現実の中から、一つの『真実』を手繰り寄せ、囁いた。

「この廊下の床は、ひび割れている」

しん、と静まり返った資料室。何も起こらない。やはりただの古い黒板か、と俺が踵を返そうとした瞬間。

カ、カリ……。

微かな音がした。振り返ると、黒板の表面に、白い線がひとりでに走り始めていた。まるで透明な誰かがチョークを握り、文字を刻んでいるかのように。やがて、そこにはっきりと、こう書かれていた。

『床下の悲鳴が聞こえるか』

心臓が凍りついた。これは、俺だけが知覚していた真実を映し出す鏡だ。俺は震える声で、ずっと抱いていた最大の疑念を口にした。

「この学園の時計は、狂っている」

黒板の文字がすっと消え、新たな言葉が浮かび上がる。

『時は、あの日から止まっている』

第四章 崩壊のプレリュード

黒板は、俺の問いに答えるように、次々と真実を映し出した。「空は、晴れていない」と呟けば、『灰の下では、誰も息ができない』と応える。「僕たちは、なぜここにいる?」と問えば、『守るため、そして忘れるため』と。

断片的な言葉が、巨大な謎の輪郭を少しずつ浮かび上がらせていく。その作業に没頭していた時だった。

「朔……? 何してるの、そこで」

背後から聞こえた声に、俺は飛び上がった。陽菜だった。心配して探しに来てくれたらしい。彼女の視線が、俺と、そして文字が浮かんだままの黒板とを行き来する。

「その黒板……文字が……?」

陽菜の認識が揺らいだ。その瞬間を、世界は見逃さなかった。

ゴゴゴゴゴ……ッ!

学園全体が、まるで巨大な生き物が身震いするかのように激しく揺れた。時計塔から、調子っぱずれの鐘の音が狂ったように鳴り響く。陽菜が叫び声を上げた。見ると、彼女が「完璧だ」と信じていた教室の壁の虚像が、テレビのノイズのように乱れ、その向こう側にある、無数の亀裂が走ったコンクリートの『真実』が剥き出しになっていた。

「な、何これ……嘘……」

パニックは学園中に伝播した。あちこちで悲鳴が上がる。生徒たちの共有認識が揺らいだことで、『永続する嘘』の力が弱まったのだ。窓の外の青空がガラスのように砕け散り、その向こうから、俺がずっと見ていた鉛色の空が姿を現した。空から舞い始めたのは、雪ではなく、灰色の塵だった。

世界の嘘が、剥がれ落ちていく。

第五章 約束の鐘

混乱の中、俺は陽菜の手を引き、一つの場所を目指していた。時計塔だ。黒板が最後に示した言葉、『始まりの場所へ』が、俺をそこへ導いていた。

鳴りやまない狂った鐘の音を浴びながら、螺旋階段を駆け上がる。塔の内部は、嘘の皮膜が剥がれ、錆と腐食にまみれた本来の姿を晒していた。

最上階の機械室。巨大な歯車が、不規則なリズムで軋みながら回っている。その中央に、古びたオルゴールのような装置が埋め込まれた制御盤があった。そして、その傍らには、創設者たちが遺したであろう一冊の日記が置かれていた。

ページをめくる。そこに記されていたのは、絶望的な真実だった。

数十年前にこの地を襲った、大規模な『大災害』。空から灰が降り注ぎ、大地は裂け、多くの命が失われた。学園は、その災害によって心を閉ざしてしまった子供たちを保護するための、巨大なシェルターだったのだ。

創設者たちは、子供たちから悲劇の記憶を消し去り、『安全で平穏な日常』を与えるため、最後の力を使って学園そのものに巨大な『概念』を仕込んだ。

それが、「この学園の時計は常に正しい」という言葉。

それは単なる嘘ではない。災害が起きた『あの日』で時を止め、悲劇の記憶から時間を断絶させるための、悲しい願い。学園という箱庭の物理法則を支える、たった一本の柱だったのだ。俺が真実を暴こうとしたことで、その柱が揺らぎ、封印されていた災害の記憶が、物理現象となって世界に溢れ出している。

鳴り響く鐘の音は、警鐘だった。嘘の世界の終わりを告げる、弔いの鐘だった。

第六章 夜明けの選択

俺は、再びあの資料室の黒板の前に立っていた。背後には、恐怖と混乱に震える陽菜と、何人かの生徒たちがいる。彼らの目には、もう二重写しの世界は映っていない。剥き出しの、残酷な真実だけが広がっていた。

俺の偏頭痛は、嘘のように消えていた。二つの世界が一つに溶け合った今、矛盾はもはや存在しない。代わりに、世界の痛みが、そのまま俺自身の痛みとして感じられた。

選択の時が来た。

ここで俺が『真実』を語れば、学園を支えていた最後の嘘も完全に崩壊するだろう。壁は崩れ、空は永遠に灰色の雲に覆われるかもしれない。生徒たちは、忘れ去っていた大災害の記憶と向き合い、過酷な現実を生きることになる。だがそれは、偽りから解放された、『真実の自由』だ。

あるいは、俺は再び『嘘』を紡ぐこともできる。「時計は正しい、世界は安全だ」と。この学園の法則下で、俺の言葉は強い力を持つ。世界は修復され、人々は頭痛のない、安全で管理された日常に戻るだろう。しかし、それは真実から目を背けた、虚構の檻の中だ。

俺は沈黙の黒板に向き直った。その滑らかな黒い水面は、俺の選択を静かに待っている。

ゆっくりと、息を吸う。そして、言葉を紡いだ。

「――夜明けだ」

その言葉が、最後の引き金だった。

学園を覆っていた最後の嘘が、音を立てて砕け散る。時計塔の狂った鐘の音がぴたりと止み、代わりに、止まっていたはずの巨大な歯車が、ゆっくりと、しかし確実に、正しい時を刻み始める音が響き渡った。

分厚い鉛色の雲の隙間から、一筋、眩い光が差し込んだ。それは偽りの快晴ではなく、傷ついた世界に訪れた、本物の朝の光だった。

俺たちは安全な箱庭を失った。だが、その代わりに、灰色の空の下で、自分たちの足で未来へと歩き出す、本当の時間を取り戻したのだ。

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