第一章 色なき声
朔(さく)の眼には、世界が常に光の粒子で満たされていた。人々の喜びは金色の微塵となって舞い上がり、悲しみは青い燐光を放ちながら地面に沈む。それは過去の出来事や感情が遺した「残響」。朔は、その光景を生まれながらに視てきた。
江戸の町は、残響の坩堝(るつぼ)だ。すれ違う人々の肩からは、昨夜のささやかな夕餉の暖かな橙色が立ち上り、商家の大店の暖簾の奥では、長年の商いで積み重なった信頼の深緑色の光が澱のように溜まっている。朔にとって、それは世界の真の姿であり、同時に彼を孤独にする呪いでもあった。
特に強い残響のある場所では、その粒子に触れることで、過去の会話や感情が「声」として直接流れ込んでくる。だが、その声を聞くたび、代償として朔自身の身体の一部がわずかに透明になり、陽光にかざした指先が向こう側を透かすのだ。存在が希薄になっていく冷たい恐怖。ゆえに彼は、他人の過去に深く触れることを避けて生きてきた。
その日、朔は江戸城の大手門を見上げて、異変に気づいた。いつもなら、幾重にも重なった忠義の誓いや、登城する大名の緊張感が白銀の光となって渦巻いているはずの場所から、色が抜け落ちていた。まるで、熟練の絵師が描いた水墨画から、さらに墨の濃淡さえも奪い去ったかのような、空虚な「無」が広がっている。空気に重みがなく、歴史の息遣いがしない。
朔は思わず門の石垣に手を伸ばした。ひやりとした石の感触だけが伝わり、そこにあるはずの、数百年分の兵たちの鬨(とき)の声も、城を築いた者たちの熱狂も、何も聞こえてはこなかった。
自分の指先を見る。透けてはいない。残響に触れたわけではないからだ。ならば、これは一体どういうことだ? 残響が、ただそこから消え失せている。まるで、その場所の過去そのものが、誰かによって綺麗に拭い去られてしまったかのように。
第二章 墨染の御殿
「過去が消える」
不気味な噂は、江戸の町を湿った霧のように覆い始めた。城の評定所、由緒ある大名屋敷、果ては幕府の米蔵に至るまで、重要な建造物から次々と色鮮やかな残響が失われ、ただの抜け殻のような空間へと変貌していく。歴史の拠り所を失った人々は、自分たちの存在基盤が揺らぐような不安に駆られ、その顔から徐々に活気が失われていった。
朔は、この異常事態が自然現象ではないと直感していた。これは、意図的な「消去」だ。祖父の遺品である、古びた一つの提灯を手に、彼は真実を探ることを決意した。
その提灯は「色喰らいの提灯」と呼ばれていた。一族の中でも、朔と同じく残響を視る力を持つ者だけに受け継がれてきた呪具。普段はただの煤けた提灯だが、残響が消された場所で火を灯すと、周囲の物体の「色」を喰らい、その代価として失われた過去の残響を幻影として映し出すのだという。
月明かりだけが頼りの深夜、朔は残響が完全に消え失せたという城内の御殿に忍び込んでいた。しんと静まり返った廊下は、本来あるべき過去の重みを完全に失い、歩いても足音が妙に軽く響く。
一番奥の広間。かつては幕府の重要事項が決定された場所。今はただ、がらんとした空間が闇に沈んでいる。朔は懐から取り出した提灯に、震える手で火を灯した。
第三章 提灯が映す裏切り
ぼっ、と小さな音を立てて提灯に橙色の光が宿る。すると、奇妙な現象が起きた。
提灯の光が触れた場所から、色が急速に失われていく。豪奢な金箔の襖は輝きを失い、ただのくすんだ黄土色の板と化した。艶やかな黒漆の柱は、まるで墨で塗りつぶしたかのように光を吸い込み、深紅の絨毯は色褪せた灰色の布切れに変わる。提灯の和紙が、まるで渇いた喉で水を吸い込むように、空間の色を喰らっていくのだ。
そして、色が完全に奪われた和紙の上に、別の光景が影絵のように浮かび上がった。
『――これで、若君の天下は盤石にございますな』
低い、密やかな声。提灯の中に、数人の人影が揺らめいている。それは、この場所で過去に行われた密議の残響だった。
『あの御方の存在は、邪魔でしかなかった。これも、天下泰平のため……』
映し出されたのは、先代将軍の嫡男を毒殺し、現在の将軍を世継ぎに据えるための、陰惨な裏切りの計画。その中心にいたのは、今や幕府の中枢を担う老中たちの、若き日の姿だった。
歴史の正史には決して記されることのない、権力の礎となった罪。これが、彼らが消し去りたかった「過去」。
朔は息を呑んだ。提灯の光がわずかに揺らめき、弱くなる。それと同時に、提灯を握る彼自身の左手の小指が、また一段と透明になった。真実を知るたびに、光も、自分の存在も、削られていく。それでも、彼はこの巨大な欺瞞の先に待つものを確かめねばならないと思った。
第四章 虚飾の安寧
犯人の目星はついた。朔は残響の痕跡をたどり、老中筆頭である久世(くぜ)の屋敷へとたどり着いた。屋敷そのものは威厳に満ちているが、その内側からは、大手門で感じたのと同じ、空虚な無の気配が漂っていた。
屋敷の最も奥深く、厳重に閉ざされた土蔵の中に、それはあった。
見たこともない金属で組まれた、巨大な装置。低い唸りを上げ、空間をわずかに歪ませている。それはこの時代にあるはずのない、異質なテクノロジーの塊だった。これが「残響」を消し去る機械の正体か。
「……ようやくたどり着いたか、異能の小僧」
背後からかけられた声に、朔は凍りついた。振り返ると、そこには久世が静かに立っていた。その表情には驚きも怒りもなく、ただ全てを見通したかのような冷たい諦観が浮かんでいる。
「ご覧の通りだ。我らが、この国の過去を清めている」
久世はあっさりと認めた。
彼は語る。先祖たちが犯した罪、権力を得るための裏切り、そういった負の残響は、時に実体を持つ幻影として現れ、現世に災いをもたらす。事実、数十年前には、合戦で無念の死を遂げた武将たちの残響が具現化し、一帯を飢饉に陥れたことがあったという。
「我らは、この国の安寧を願う。過去の亡霊に未来を掻き乱されるわけにはいかぬのだ」
そのために、偶然手に入れた未来の遺物であるこの装置を使い、災いの芽となる負の残響を消し去っているのだ、と。
「だが、消えているのは罪だけではない! 人々の喜びや、ささやかな営みの記憶までが!」
朔は叫んだ。
久世は、その言葉を鼻で笑った。
「些細な犠牲だ。虚飾であろうと、安寧は安寧。お前のような過去にすがる亡霊には、未来を築く者たちの覚悟は分かるまい」
その時、装置がひときわ大きな唸りを上げた。久世が合図を出すと、装置は江戸城全域を覆うほどの、巨大な波動を放ち始めた。負の残響だけでなく、この地に眠る全ての過去を、根こそぎ消し去るために。
第五章 無色の世界で見る夢
もはや、躊躇している時間はない。朔は最後の希望を手に、装置へと向かった。
「色喰らいの提灯」を、力の源と思われる装置の中心部へと、力の限りかざす。
「やめろ!」
久世の制止の声も虚しく、提灯は最後の輝きを放った。それは、これまでで最も眩い、しかし悲痛な光だった。
提灯の和紙が、この江戸の町に満ちていた全ての「色」を、猛烈な勢いで吸い込み始めた。人々の笑い声が作った金色の光、恋人たちが交わした約束の淡い桃色の光、母親が子を想う慈愛に満ちた乳白色の光。希望、愛情、願い、ささやかな幸せ――。正の残響たちが、悲鳴のようなきらめきを上げながら、巨大な装置へと吸い込まれていく光景が、提灯に焼き付けられる。
そして、世界から色が失われた。
窓の外で咲き誇っていた桜並木は、まるで薄墨で描いた染みのように色を失い、ただの白い紙切れの集合体と化した。空はどこまでも均一な灰色に塗りつぶされ、人々の着物の鮮やかな色彩も消え、誰もが濃淡の異なる影のような姿になった。
街行く人々から、表情が消える。笑いも、怒りも、悲しみも、その感情の源となる過去の記憶(残響)を奪われ、ただ無感動に歩くだけの人形と化した。それは、久世が望んだ「安寧」の究極の姿だった。争いも憎しみも無い、だが、愛も喜びも無い、完璧に静かで、完璧に死んだ世界。
老中・久世もまた、その無感動な世界の一部として、ただ虚ろな目で立ち尽くしている。彼が守ろうとした未来は、これだったのか。
ふっ、と最後の抵抗のように提灯の光が消えた。
その瞬間、朔の視界から、すべての光と影の区別が失われた。完全なモノクローム。提灯は最後の代償として、彼の瞳から「色」を永遠に奪い去ったのだ。
何も見えない。いや、形は見える。だが、そこに命の彩りはない。
朔は、色が無くとも、残響に触れてきた「記憶」だけは自分の内に残っていることに気づいた。彼は、灰色の世界の中で、瞼を閉じる。そして心の内に、かつて見た少女の屈託のない笑顔の残響――鮮やかな紅色の光の粒子――を、懸命に思い描いた。
世界は、彼らが望んだ通りの安寧を手に入れた。
しかし、色も、感情も、魂の輝きさえも失ったこの無色の未来で、人は、一体どんな夢を見るのだろうか。