瑠璃色の罪過
第一章 欠落した琥珀
放課後の教室には、西日が溶けた鉄のように重苦しく降り注いでいた。
僕、雨宮蓮(あまみや れん)は、自分の左手首を無意識に強く握りしめていた。そこには、誰もが生まれ持つ「共感の刻印」がある。だが、僕のそれは他者と響き合う美しい光を放つことはない。ただ黒く、飢えた獣の口のように沈黙しているだけだ。
「ねえ、蓮くん。ちょっとどいてくれる?」
凛とした、しかし氷のように冷たい声。顔を上げると、幼馴染である結衣(ゆい)が立っていた。かつて、僕の刻印が琥珀色に輝くたび、彼女の刻印もまた同じ色で柔らかく明滅していた。互いの喜びも痛みも、肌を通して伝わるような至福の時。
しかし今、彼女の瞳に映る僕は、ただの「障害物」でしかない。
五年前のあの日、僕たちは笑いすぎていた。幼い心が許容できる限界を超えて、僕たちの琥珀色は眩い閃光となり――そして、僕の能力が発動した。
僕は彼女の「友情」という概念そのものを吸い尽くしてしまったのだ。
結衣は僕のことを覚えている。幼馴染である事実も知っている。けれど、そこには温かな感情だけが、外科手術で切除されたかのように欠落している。
教室の窓際で、クラスメイトが倒れた。
「おい、どうした!」
まただ。最近、学園内で突然「大切な感情」を失い、虚脱状態になる生徒が急増している。倒れた生徒の手首から、淡い光の粒子が漏れ出し、空気に溶けて消えていくのが見えた。その光景は、あの日僕が結衣から奪った光と、酷く似ていた。
第二章 古びた手記の予言
図書室の最奥、埃と古紙の匂いが充満する禁書棚の隙間に、その手記はあった。
『共鳴と略奪のパラドックス』。背表紙の文字は擦り切れ、触れると指先にざらりとした冷たさが伝わる。
ページをめくると、震える筆跡で綴られた詩的な暗号が目に飛び込んできた。
『器が満ちれば、世界は乾く。愛が極まれば、色は喰われる。
かつて我は、友を愛するあまり、友から愛を奪った。
漏れ出した欠片は病のように伝染し、やがて全てを灰色へと変えるだろう』
呼吸が止まりそうになった。これは、過去の出来事の記録ではない。僕のことだ。
手記の後半には、インクの染みで汚れた殴り書きがあった。
『救済の道は一つ。奪った者が、その身を器として全ての欠落を引き受けること。
だが知れ。その代償は、世界からの孤絶である』
僕は喉の奥で乾いた音を鳴らした。
学園で起きている現象は、僕があの日に暴走させた能力の「余波」だったのだ。僕が結衣から奪いきれずに漏れ出した感情の残滓が、長い時間をかけて他者の刻印に干渉し、彼らの感情を蝕んでいる。
このままでは、結衣だけでなく、学園中の生徒が心を持たない抜け殻になってしまう。
「……僕が、終わらせなきゃいけないのか」
手記の最後のページ、著者の署名は擦れて読めなかったが、日付は未来の日付――今日の日付が記されていた。それはまるで、未来の僕自身が、今の僕に宛てた遺書のように思えた。
第三章 飽和する光の中で
夕暮れの屋上。風が強く、錆びたフェンスが悲鳴のような金属音を立てている。
結衣がそこにいた。彼女は虚ろな目で空を見上げ、その手首の刻印からは、最後の感情である「希望」を示す青い光が、今にも消え入りそうに漏れ出していた。余波の浸食は、ついに彼女の核にまで達していたのだ。
「結衣!」
僕が駆け寄ると、彼女はゆっくりと振り返った。その瞳には、僕への関心など欠片もない。ただの景色の一部を見るような目。それが、心臓を素手で握りつぶされるほど痛かった。
学園全体が揺れた気がした。校舎の窓という窓から、生徒たちの悲鳴にも似た感情の奔流が溢れ出し、空へと昇っていく。
「全部、僕が引き受ける」
僕は結衣の手首を掴んだ。
その瞬間、僕の黒い刻印が、鼓動するように脈打った。
熱い。焼けるようだ。
結衣から、そして校舎にいる全ての生徒たちから流れ出る「友情」や「親愛」の光が、渦を巻いて僕の左手へと流れ込んでくる。
「ぐ、あああああッ!」
魂が引き裂かれる激痛。他人の記憶、他人の笑顔、誰かが誰かを大切に思う温もりが、暴力的な質量を持って僕の中になだれ込む。
それは幸せな記憶のはずなのに、僕にとっては猛毒だった。
許容量を超えた感情が、僕の自我を塗りつぶそうとする。
(嫌だ、消えたくない。結衣とまた笑い合いたい!)
本音が叫びを上げる。だが、手記の言葉が脳裏をよぎる。
『代償は、世界からの孤絶』
僕がこの感情を全て吸収し、封じ込める「檻」になれば、彼らの感情は守られる。だが、その代償として、僕は「友情」という概念を感じる回路そのものを焼き切ることになる。
誰かを友と思う心も、誰かから友と思われる資格も、永遠に失う。
「さよなら、結衣」
僕は歯が砕けるほど強く食いしばり、最後の光を飲み込んだ。
視界が真っ白に弾け、世界から音が消えた。
第四章 透明な朝
小鳥のさえずりが、鼓膜を優しく叩いた。
保健室のベッドで目を覚ますと、窓からは穏やかな朝の光が差し込んでいた。体は鉛のように重いが、あの焼けるような痛みは消えていた。
「……目が覚めた?」
カーテンが開かれ、結衣が立っていた。
彼女の手首にある刻印は、穏やかな桜色に輝いている。感情が戻ったのだ。学園全体を覆っていた重苦しい空気も霧散している気配がする。
「あ……うん、おはよう」
僕は恐る恐る声をかけた。心臓が早鐘を打つ。もしかしたら、奇跡が起きて、また昔のように――。
結衣は小首を傾げ、礼儀正しく、しかし完璧に他所行きの微笑みを浮かべた。
「雨宮くん、どうして泣いてるの? どこか痛む?」
その言葉を聞いた瞬間、僕は理解した。
彼女は僕を覚えている。「雨宮蓮」というクラスメイトとして。
だが、彼女の瞳の奥には、僕に対する親しみも、嫌悪すらも、何一つ存在していなかった。そこにあるのは、見知らぬ他人に向ける、無色透明な親切心だけ。
僕の中にあったはずの、彼女を慕う切ない痛みも、もうどこにもなかった。胸の真ん中に、巨大な風穴が空いている。そこを風が通り抜けていくだけだ。
僕は「友情」を失った。僕が誰かを思うことも、誰かが僕に心を寄せることも、二度とない。システムとして、その機能が僕という人間から削除されたのだ。
「……なんでもないよ。ありがとう、結衣さん」
「さん」付けで呼んだ僕に、彼女は違和感を持つこともなく、「お大事にね」と言って背を向けた。
彼女は廊下で待っていた友人たちの輪に入り、弾けるような笑顔を見せた。その輝きはあまりに眩しく、そして残酷なほど遠い。
僕は窓ガラスに映る自分を見た。左手の刻印は、もはや黒ですらなく、透明な硝子のように透き通っていた。
世界は救われた。日常は戻った。
ただ、僕だけが、色彩溢れるこの世界で、透明な幽霊として生きていくのだ。
僕は涙を拭い、誰とも繋がることのない手で、カバンを握りしめた。
それでも、世界は続いていく。