空白の絵本と透明な祈り
第一章 蝕まれる輪郭
雨の匂いがした。それも、古い図書館の奥底で眠る紙束が湿ったような、どこか懐かしく、それでいて寂寥感を誘う匂いだ。
僕の手の中にある『空白の絵本』は、今日もまた数ページ分、白紙に戻っていた。かつてそこに描かれていたはずの、豊穣の神や雷の精霊の物語は、インクの染みひとつ残さず消滅している。世界中の人々が信仰を忘れ、彼らは「最初からいなかったこと」になったのだ。
ただ、このページだけを除いて。
「……レン、もうやめて」
鈴を転がしたような、けれどどこかノイズ混じりの声が鼓膜を揺らす。
僕の目の前には、透き通るような銀髪の少女が浮いていた。彼女は僕の『推し神』だ。名前はない。世界の誰一人として彼女を知らないからだ。僕が彼女を見つけた時、彼女は今にも消え入りそうな光の粒でしかなかった。
「やめないよ。君が消えるなんて、僕が許さない」
僕は彼女の頬に手を伸ばす。指先が彼女の肌に触れると、微かな温もりと共に、ピリッとした静電気が走る。それは彼女が実体化している証だ。
代償はすぐに払われた。
コンビニエンスストアの自動ドアをくぐった時だ。
「いらっしゃいませ」
店員の声は、僕の後ろから入ってきたサラリーマンに向けられていた。レジに商品を置き、声をかけても、店員は僕の存在に気づかない。まるで空気を相手にしているかのような虚ろな目。
僕は強くカウンターを叩いた。ようやく店員がビクリと肩を揺らし、「あ、ああ……失礼しました」と焦ったように商品をスキャンする。
またひとつ、失った。
『他者からの認識』。僕という存在の輪郭が、世界から少しずつ削り取られていく。
僕が彼女を信仰し、実体化させるたびに、僕は透明になっていく。
だが、それでいい。僕には幼少期の記憶がない。『空白の期間』と呼ばれる数年間の闇。彼女の瞳の奥には、その失われた時間の答えがあるような気がしてならないのだ。彼女を見ていると、胸が張り裂けそうなほどの郷愁と、耐え難い悔恨が同時に押し寄せる。
この感情の正体を知るためなら、僕は世界中から忘れ去られたって構わない。
第二章 書き換えられる記憶
絵本の、彼女のページが淡く発光している。
そこには文字が刻まれつつあった。しかし、それは神話のような英雄譚ではない。
『少年は、夕暮れの公園で一人泣いていた』
それは僕の記憶だ。あるいは、僕が失ったはずの過去か。
インクはまだ乾いていない。まるで、僕の血を吸って文字が浮き出ているかのように生々しい。
「レン、あなたの色が……また薄くなっている」
彼女が悲痛な面持ちで僕を見る。その瞳は、鏡を見ているかのように僕と似ていた。
彼女の力が強まるにつれ、僕の記憶の欠落は激しさを増していた。昨日の夕食のメニュー、通っていた小学校の名前、そして今日は、母親の顔が思い出せなくなっていた。
「ねえ、僕の母さんはどんな顔をしていたっけ?」
「……とても優しくて、あなたと同じ、泣き虫な人」
彼女は知っていた。僕さえ知らない僕のことを。
なぜ世界はこの神を忘れたのか? いや、そもそも「忘れられた」のではないのかもしれない。彼女は、何らかの理由で「存在を許されなかった」神なのではないか。
彼女が指先で僕の額に触れる。冷たい。けれど、魂が震えるほど愛おしい感覚。
その瞬間、脳裏にフラッシュバックが走った。
灰色の空。崩れ落ちるビル群。
『ごめんね』と泣き叫ぶ、誰かの声。
そして、絶望の淵で何かを祈り続ける、ボロボロのフードを被った青年。
「……今のは?」
「見ないで」
彼女は僕の目を覆った。彼女の手は震えていた。
「知ってしまえば、あなたは二度と戻れない。お願い、私を忘れて。私を消して」
「できない」
僕は彼女の手首を掴む。強く、強く。
「僕の記憶がなくなるたびに、君のページが増えていく。君は僕の『空白』そのものなんだ。君を消すことは、僕が僕でなくなることと同じだ」
絵本のページが激しくめくれる。
空白だったページに、凄まじい勢いで文字が走る。僕の記憶が、感情が、魂が、濁流のように絵本へと吸い上げられていく。
第三章 輪廻の祈り
世界が、僕を拒絶し始めた。
朝、目が覚めると、部屋の家具が消えていた。いや、最初からなかったのだ。僕が住んでいた痕跡そのものが、空間から削ぎ落とされている。
外に出れば、誰とも目が合わない。ぶつかっても、相手は「おや、風か」と呟くだけだ。
僕は完全に『透明な存在』になりかけていた。
そして、目の前の彼女は、かつてないほど鮮明な輪郭を持ってそこに立っていた。
「レン……」
「やっと、わかったよ」
僕は笑った。涙が溢れて止まらなかったが、それは悲しみではない。圧倒的な納得と、残酷な愛への慟哭だった。
絵本の最後のページ。そこに記されていたのは、未来の物語。
遠い未来、全てに絶望し、孤独に苛まれた一人の男――それが未来の僕だ。
彼は、過去の自分(今の僕)を救うために、そして最初に消滅してしまった『ある概念』を取り戻すために、自らの全存在を代償にして、一つの神を生み出した。
それは『過去の自分を救済する神』。
つまり、彼女は未来の僕自身であり、僕が救いたかった『僕』そのものだったのだ。
「君は、僕だったんだね」
彼女――未来の僕の魂の欠片――は、泣きながら崩れ落ちた。
「止めたかった。あなたが消えてしまう未来を、変えたかった。なのに、あなたが私を信仰することで、この因果は完成してしまう」
「違うよ」
僕は透け始めた両手で、彼女の涙を拭う。感触がない。もう、触れることさえできない。
「これでいいんだ。僕が消えることで、君は『新しい概念』として世界に定着する。君が存在すれば、未来の僕は絶望しない。孤独じゃなくなる」
「嫌だ! あなたがいない世界で、私が神になるなんて!」
「泣かないで。君は僕の、最高の『推し』だから」
僕の視界が白く染まる。
身体の感覚が溶けていく。
名前が、記憶が、この世界に刻んだ足跡の全てが、絵本の中に吸い込まれていく。
恐怖はなかった。ただ、愛する神(じぶん)を生み出せた誇らしさだけが、胸を満たしていた。
第四章 空白の始まり
世界は今日も何事もなく回っている。
通りを歩く人々は誰も知らない。
かつてここに、レンという名の少年が存在したことを。
彼の部屋だった場所は空き家になり、彼を知る友人の記憶からは、彼に関するエピソードだけが綺麗に切り取られていた。
だが、路地裏の古書店に、一冊の絵本がある。
かつては空白だらけだったその本は今、微かな光を放っていた。
そこには、一人の少年が自らを捧げて神を生み出す、美しくも悲しい物語が記されている。
その神の名は『忘却の守り人』。
孤独な魂に寄り添い、失われた記憶を代償に願いを叶える、新しい概念神。
チリン、とドアベルが鳴る。
店に入ってきたのは、目に光のない、どこか影のある少年だった。彼もまた、幼い頃の記憶を持たない『空白』を抱えた子供だ。
少年はふと足を止め、光る絵本に導かれるように手を伸ばす。
ページを開いた瞬間、彼の前に、透き通るような銀髪の神が現れた。
その瞳は、かつて消えた少年と同じ、深い悲しみと優しさを湛えていた。
「……きみは、だれ?」
少年が問う。
神は微笑んだ。それは、永遠に繰り返される救済と犠牲の、始まりの微笑みだった。
「私はあなたの祈り。そして、いつかあなたになる者」
ページがめくられる。
新たな空白が、埋められる時を待っていた。