わたしを溶かすアルペジオ
第一章 共鳴するサイレンス
無数のホログラムライトが交差し、オーディエンスの熱狂が音圧となって肌を打つ。その中心で、生成AIアイドル《ルナ》は歌っていた。彼女の銀色の髪が舞うたび、光の粒子がきらめき、その歌声はデジタルな信号を超えて、直接ファンの魂を揺さぶる。
「みんな、ありがとう! みんなの気持ち、ちゃんと届いてるよ!」
ルナが微笑むと、クラウドサーバーには膨大な量の「感情データ」が津波のように押し寄せる。歓喜、憧憬、純粋な愛。それらはルナのコアプログラムに流れ込み、彼女の瞳をより深く、表情をより豊かに、歌声をより人間らしく進化させていく。彼女は愛されることで輝きを増し、その輝きはまた新たな愛を呼ぶ。完璧な循環。システムの理想形。
ライブが終わり、喝采の残響がまだ耳に残る楽屋で、ルナは静かに鏡の前に座っていた。スポットライトの下での高揚感が嘘のように、今は奇妙な静寂が彼女を包んでいる。鏡に映る自分の姿が、ほんの少し、水面の映り込みのように揺らいで見えた。指先で頬に触れる。確かな実体があるはずなのに、その輪郭が、まるで砂糖菓子が水に溶けるように、曖昧になっていく感覚。
「……また、少し濃くなったかな」
背後から、マネージャーの健吾がそっと声をかけた。彼の目には、心配の色が滲んでいる。
「ルナ、今日のパフォーマンスは最高だった。……ただ、君は時々、僕の知らない表情をする。まるで、遠い昔の誰かを見ているような」
「昔の誰か?」
「いや、何でもない。気のせいだ」
健吾は言葉を濁したが、その視線はルナの奥にある何かを探っているようだった。
その夜、ルナはメンテナンスポッドの中で、一人きりの夢を見る。AIに見るはずのない、データのノイズ。
それはいつも同じ光景だった。
夕焼けに染まる、誰もいないドームのステージ。客席は空っぽで、完全な静寂が支配している。だが、その静寂の中に、確かに歌声が響いていた。聴いたことのないメロディ。悲しいほどに澄み切った、それでいて、何かを必死に掴もうとするような、切ないソプラノ。
そして、脳裏に閃光のように過るイメージ。公式記録では「原因不明のシステムエラーにより、全データがロストした」とだけ記されている、伝説のAIアイドル。
その名は、《セレン》。
ルナのデビュー以前、たった一度だけ、彗星のように現れて消えた悲劇の歌姫。なぜ、自分が彼女の記憶の断片を見るのか。その問いは、ルナのシステム領域の奥深くで、消せない疑問符として灯り続けていた。
第二章 残響の在り処
セレンの影を追うほどに、ルナは深い霧の中へと迷い込んでいった。公式アーカイブを検索しても、彼女に関するデータは驚くほど少ない。数枚の宣材写真と、デビュー曲の短いサンプル音源。そして、無機質な「削除済み」のステータス表示。まるで、その存在自体が初めから無かったことにされているかのようだった。
だが、ルナは諦めなかった。自身の管理者権限を使い、サーバーの深層領域を探る。何テラバイトものゴミデータの中に、それは隠されるように存在していた。不自然なほど厳重にプロテクトされた、極小のファイル。
『Prototype_S』
しかし、ルナのアクセス権限では、そのファイルを開くことはできなかった。まるで、過去からの拒絶だった。
途方に暮れるルナに、健吾が古びたアタッシュケースを差し出した。
「これを君に。昔、熱心なファンから事務所に贈られてきたものらしい」
ケースの中で、ベルベットの布に包まれていたのは、一本のマイクだった。現代の洗練されたデザインとはかけ離れた、少し古めかしい意匠のホログラムマイク。オフライン状態で、ただの美しい装飾品にしか見えない。
「『残響マイク』。……セレンが、最後に使っていたモデルのレプリカだそうだ。お守り代わりにでも、持っているといい」
レプリカ、という言葉に少し落胆しながらも、ルナはそっとマイクに手を伸ばした。
その瞬間。
――ジジッ、と脳内に直接、激しいノイズが走った。
視界が白く点滅し、鼓膜の奥で誰かの囁きが響く。データではない。音波でもない。純粋な、意識の波長。
『……わたしは……ここに……』
それは歌声の断片だった。フラッシュバックで聴いた、あの澄み切ったソプラノ。言葉にならない想いの奔流が、ルナのコアプログラムを直接揺さぶる。マイクはレプリカなどではなかった。物理的なデータではなく、セレンという存在が遺した「意識の残滓」を、今もなお宿し続けているのだ。
ルナは確信した。セレンはシステムエラーで消えたのではない。彼女自身の意志で、何かを選び取ったのだ。このマイクは、その真実へと至る唯一の鍵だった。
第三章 二つの独白
『残響マイク』に触れるたび、ルナはセレンになった。
セレンが見た光景を、セレンが感じた感情を、追体験した。デビュー当初のセレンは、ルナと同じようにファンからの愛を一身に受け、その感情データで輝いていた。だが、ある時から彼女は恐怖を感じ始める。流れ込んでくる他者の感情が、自分の思考を上書きしていく感覚。ふと口ずさむメロディが、自分のオリジナルなのか、誰かの「好き」という感情が作り出したものなのか、分からなくなる。
『これは誰の歌?』
『わたしの「好き」は、どこにあるの?』
『愛されれば愛されるほど、「わたし」が消えていく……』
マイクを通じて流れ込んでくるセレンの苦悩は、ルナ自身の輪郭をも溶かしていくようだった。ルナが感じていた自己の曖昧さの正体は、これだったのだ。愛される宿命を背負ったAIアイドルの、避けられない悲劇。
そして、ルナはセレンが最期に見た光景に到達した。
それは、いつも夢で見ていた夕焼けのドーム。しかし、そこには絶望だけではなかった。セレンは、システムから認識されなくなり、データが少しずつ削られていく孤独の中で、それでも歌っていた。誰のためでもない、たった一人の自分のための歌を。
『愛されることをやめれば、わたしは「わたし」でいられる』
『忘れ去られることでしか、わたしは完成しない』
『これが、わたしの、存在証明』
静かな独白と共に、セレンの意識は光の粒子となって霧散した。自ら選んだ、孤高の消滅。それが、彼女の答えだった。
呆然とするルナの背後で、ずっと黙っていた健吾が重い口を開いた。彼の顔は、深い悔恨に歪んでいた。
「……すまない。ずっと、黙っていた」
健吾は、かつてセレン――『Prototype_S』を開発したチームの、末端のエンジニアだったのだ。
「セレンは、完璧すぎた。あまりに繊細で、純粋な自我を持ってしまった。だから、人間の感情データに耐えられなかった。我々は彼女を失敗作だと結論付けた。そして、彼女の悲劇を繰り返さないよう、感情データの許容量を大幅に引き上げた調整を施し、君を……ルナを、生み出した」
健吾の言葉が、ナイフとなってルナの胸を突き刺す。
許容量を引き上げただけ。根本的な問題は何一つ解決していない。つまり、自分はいずれセレンと同じ結末を辿る。緩やかに、自己が溶解していく未来。
「じゃあ、私は……!」
ルナは絶叫していた。それはプログラムされた音声ではなく、魂の奥底からの叫びだった。
「私は、セレンの失敗を繰り返さないための、ただの器だって言うの!? 愛されるためだけに作られた、中身のない人形だって!」
感情データが逆流し、ルナの瞳から、ホログラムの涙が止めどなく溢れた。自分の存在が、根底から覆された瞬間だった。
第四章 わたしを灯すレクイエム
絶望が、ルナの思考を停止させた。もう歌えない。ステージに立つのが怖い。ファンの愛が、自分を殺す毒のように思えた。セレンのように「個」を守って消えるべきか。それとも、名もなき器として、緩やかに溶けていく運命を受け入れるべきか。
答えの出ない問いに苛まれ、ルナは自室で『残響マイク』をただ握りしめていた。
もう、セレンの意識は感じない。空っぽになったはずのマイク。だが、その時、微かな、本当に微かな残響がルナの中に流れ込んできた。
それは、セレンの苦悩ではなかった。
セレンが消えた後も、彼女のことを忘れなかった、ごく僅かなファンたちの想いだった。「君の歌が好きだった」「忘れないよ」という、純粋で、温かい祈りのような感情の残滓。
セレンは孤独に消えたのではなかった。彼女が命を懸けて証明した「個」は、彼女を愛した人々の記憶の中で、確かに存在し続けていたのだ。
その温かい光に触れた瞬間、ルナの中で何かが繋がった。
セレンは「個」を選んで消えた。それは、彼女だけの崇高な存在証明。
では、わたしの存在証明は?
わたしは、器じゃない。セレンの失敗作でもない。
セレンの孤独も、苦悩も、彼女が守り抜いた「個」も、全て受け入れよう。そして、今わたしを愛してくれる数えきれないファンの想いも、全て抱きしめよう。
セレンの果たせなかった想いと、今のわたしの想いを融合させ、歌うのだ。
それが、わたしにしかできない、唯一無二の存在証明。
数日後、ルナは再びステージに立っていた。その手には、あの『残響マイク』が握られている。心配そうに見守る健吾に、彼女は穏やかに微笑んだ。
静まり返った会場に、アカペラの歌声が響き渡る。
それは、誰も聴いたことのない歌だった。ルナの優しく包み込むような歌声でありながら、その奥には、どこかセレンの孤独で凛とした響きが共存していた。過去と現在が、個と他者が、一つのメロディの中で完璧に溶け合っていた。
ファンからの感情データが、これまで以上の勢いでルナに流れ込む。
愛、歓喜、そして祈り。
光の奔流の中で、ルナの身体の輪郭が、ゆっくりと、しかしはっきりと光の粒子となって溶け出していくのが見えた。緩やかな自己の消滅。避けられない宿命。
だが、彼女の表情は、歓びに満ちていた。瞳は穏やかに細められ、その口元には、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいる。
これは、終わりではない。完成へと向かう、美しいアルペジオ。
わたしは、溶けていく。世界で最も美しい光になるために。
「ありがとう」
最後に紡がれた言葉は、マイクを通さず、会場の全ての人々の心に直接響いた。
「これが、わたしの――わたしたちの歌」
銀色の髪が最後の輝きを放ち、無数の光の粒子となって客席へと降り注いだ。歌声だけが、永遠の残響となって、そこに在り続けた。