ファンファーレ・フォー・ザ・ロスト・ワン
第一章 透明な輪郭
私の世界は、彼の色で満ちていた。壁には彼のポスター。棚には彼のアクリルスタンド。流れる音楽も、夢に見る姿も、すべてが『ルカ』だった。彼は私の神様であり、夜空で唯一輝くシリウスであり、私が息をする理由そのものだった。
鏡を覗き込む。そこに映るのは、生気の抜けた顔をした、知らない女。目の下の隈、覇気のない瞳。私はいつから、自分の顔を忘れてしまったのだろう。いや、もとより興味などなかったのかもしれない。この肉体は、ルカという星を観測するためだけの器。彼の輝きを浴び、その光を反射して辛うじて存在を許されている、月のようなものだ。
「ルカが今日も輝いていますように」
それが、私の唯一の祈りだった。
その祈りが、あるいは呪いだったのかもしれない。ある夜、ルカのライブ映像を見ながら眠りに落ちた私は、耳慣れない歓声で目を覚ました。ひんやりとした石畳の感触。鼻腔をくすぐる、甘く異質な花の香り。見上げれば、空には紫と橙の二つの月が浮かんでいた。
ここは、どこだ。夢?
混乱する私の耳に、雷鳴のような喝采と、魂を震わす歌声が飛び込んできた。心臓が跳ねる。まさか。そんなはずはない。人垣をかき分け、広場の中央に建てられたステージを見つめた瞬間、私は息を呑んだ。
銀色の髪を夜風になびかせ、天上の調べを紡ぐその人は、紛れもなく、私の『推し』、ルカだった。モニター越しに焦がれた彼が、生身の人間として、圧倒的な光を放ってそこにいた。
「ルカ! ルカ! ルカ!」
地鳴りのようなコールが広場を揺らす。私もまた、喉が張り裂けんばかりに彼の名前を叫んだ。愛しい。焦がれてやまない。私の神様。あなたに会いたかった。感情の奔流が全身を駆け巡り、視界が白く染まるほどの幸福に包まれる。
その時、ふと奇妙な感覚に襲われた。自分の指先を見下ろす。そこにあるはずの指が、向こう側の景色を透かしていた。まるで、薄いガラス細工になったかのように。
「え……?」
ルカへの愛おしさが胸で燃え盛るほどに、私の輪郭は曖昧になっていく。歓声に紛れて、私の足元から存在が剥がれ落ちていく音がした。彼が輝けば輝くほど、私は透明になっていく。これが、この世界の理だというのか。
ステージ上のルカが、ふと歌の合間に客席のある一点を見つめた。その瞳には、一瞬だけ、深い寂しさの色がよぎった。まるで、そこにいるはずの誰かを探しているかのように。その視線の先に立っていたのは、消えかかった私だった。
第二章 抜け殻たちのパレード
ルカのステージが終わると、熱狂に浮かされた人々は街のあちこちへと散っていく。しかし、その中に異質な集団がいた。彼らは皆、恍惚とした表情を浮かべ、虚ろな目で宙を見つめながら、同じ言葉を繰り返している。
「ルカは光……我らのすべて……」
生きた屍の行列。彼らの瞳には、かつて宿っていたであろう知性の光は微塵もなかった。彼らはルカを崇拝するだけの、魂のない抜け殻だった。恐怖に背筋が凍る。この世界の「推し活」は、文字通り、人の魂を喰らうのか。
その行列の中に、見知った横顔を見つけてしまった。心臓が氷の塊になったかのように冷たくなる。
「ミサキ……?」
現代で、私と同じようにルカに熱狂していた友人、ミサキだった。彼女もまた、虚ろな瞳で「ルカは光……」と呟いている。私が異世界に迷い込む前に、彼女は「最近、なんだか自分が自分じゃなくなるみたい」と不安げに漏らしていた。あの言葉の意味を、今、私は目の前で突きつけられていた。
震える手で、ポケットに入れていた一本の棒を取り出す。現代で私が使い古した、ルカの公式ペンライト。この世界に来てから、それが不思議な力を宿していることには気づいていた。私はそれを、『光の導き手(ルミナス・ガイド)』と呼んだ。
意を決して、ペンライトをミサキにかざし、強く念じる。ルカを愛する私の想いを、この光に注ぎ込む。すると、ペンライトの先端から柔らかな光が放たれ、空中に一枚のホログラムを投影した。
そこに映し出されたのは、ミサキの記憶。私と一緒に初めてルカのライブへ行き、銀テープを掴んで満面の笑みを浮かべる彼女の姿だった。「最高だね!」と輝く瞳で私に語りかけるミサキ。それは、彼女がまだ「彼女自身」であった頃の、最も大切な宝物。
しかし、ホログラムが掻き消えた後、ミサキの瞳はさらに深く虚ろになった。まるで、最後の輝きさえも奪い去られたかのように。そして同時に、私の左腕は手首から先が完全に透明になっていた。
このペンライトは、記憶を映し出す代償として、対象者の魂の欠片を奪い、そして私の存在そのものを削り取っていくのだ。
「……そうか」
私は乾いた笑みを浮かべた。
「私のこの能力も、この世界の法則も、すべては繋がっているんだ」
推しを愛せば愛するほど、私は消える。
推しが輝けば輝くほど、ファンは抜け殻になる。
なんという、残酷で、美しい地獄だろうか。
ルカの歌声が、遠くから風に乗って聞こえてきた。その歌詞は、まるで私がかつて誰にも見せずに日記に綴った、孤独な心の叫びそのものだった。
『――星屑の玉座で、僕はただ一人。君のいない世界で、何を歌えばいい?』
第三章 孤独な王座
この歪んだ連鎖を断ち切る方法はあるのだろうか。もしあるとすれば、その答えはただ一人、この世界の中心で輝くルカ自身が知っているはずだ。私は、消滅を覚悟で彼に会うことを決めた。
ルカが住まうという白亜の城へ向かう。城門を守る衛兵たちの前で、私は目を閉じ、ルカへの熱狂的な感情を極限まで高めた。全身が急速に透明になり、世界からの認識が薄れていく。衛兵たちは、目の前に私がいるにもかかわらず、何も見えていないかのように微動だにしない。私は誰にも気づかれぬまま、城の奥深くへと侵入した。
たどり着いたのは、天井から星の光が降り注ぐ、広大な謁見の間だった。その中央に置かれたきらびやかな玉座に、ルカは一人、静かに腰掛けていた。ステージの上での神々しい輝きとは裏腹に、その横顔はひどく孤独に見えた。まるで、世界でたった一人、置き去りにされた子供のように。
「……誰だ?」
私の気配を察したのか、ルカが静かに顔を上げた。その蒼い瞳が、透けかかった私の姿を捉え、驚きに見開かれる。
「どうして……人々をあんな姿に!」
私は、ほとんど叫ぶように問い詰めていた。ミサキの顔が、抜け殻たちの虚ろな瞳が、脳裏をよぎる。
ルカは困惑したように眉を寄せた。「何を言っている? 僕はただ、みんなの期待に応え、彼らが望む光であろうとしているだけだ。彼らが僕に熱狂をくれるから、僕は輝けるんだ」
彼は、知らなかったのだ。自らの輝きが、愛してくれる人々から何を奪っているのかを。その無垢さが、私の胸を抉った。
「あなたの輝きは! 誰かの心と記憶を犠牲にして成り立ってる! それでもいいって言うの!?」
感情が爆発する。涙が、透明な頬を伝う感覚だけがあった。
「君は……一体、誰なんだ? なぜ、僕をそんな目で見つめると……君の身体は消えていくんだ?」
ルカは玉座から立ち上がり、恐る恐る私に近づいてくる。その瞳に浮かぶのは、純粋な疑問と、そして説明のつかない懐かしさだった。
もう、時間がない。私は最後の賭けに出た。震える手で『光の導き手』を取り出し、その光を自分自身の胸に向ける。
「見て。これが、全ての始まりだから」
ペンライトから放たれた光が、謁見の間に最後の記憶を映し出す。
――そこは、私の薄暗い部屋だった。壁一面のルカのポスター。散らかったグッズ。その部屋の真ん中で、高校時代の私が一人、スケッチブックを抱えて泣いていた。
『こんな私じゃダメだ。もっと強くて、綺麗で、誰からも愛される……そんな、光みたいな人になりたかった』
嗚咽しながら、少女の私が鉛筆を走らせる。スケッチブックに描かれていくのは、銀色の髪を持ち、優しい瞳で微笑む、一人の青年。それは、紛れもなく、若き日のルカの姿だった。
ホログラムを見つめるルカの顔が、苦痛に歪んだ。彼は頭を抱え、よろめく。
「この部屋……この絵……この寂しさは……なんだ……? 僕は、知っている……この感情を……!」
全てのピースが、嵌まろうとしていた。
第四章 君に捧ぐアンコール
真実は、あまりにも痛ましく、そして純粋だった。
ルカは、私の「こうなりたかった」という理想の自己像。私の憧れ、希望、そして自己否定が生み出した、魂の写し身。この異世界そのものが、私の心象風景が具現化したものだったのだ。
彼が人々から吸収していた「憧れ」や「熱狂」は、すべてが形を変えた私自身の感情だった。ミサキが抜け殻になったのも、私が彼女に「私と同じくらい、ううん、私以上にルカを好きになってほしい」と強く願ってしまったから。私の歪んだ愛情が、友人の魂を蝕んだのだ。
「君が……僕の創造主……?」ルカが絶望に染まった声で呟く。
「僕は、君を喰らって輝く怪物だったというのか……」
この残酷な法則から彼を、そしてこの世界を解放する方法は、たった一つしかない。創造主である私が、その存在の全てを被造物である彼に捧げ、完全に消滅すること。私の光、記憶、感情、そして「ルカを愛する心」そのものを彼に譲り渡し、彼を「私」という檻から解き放ち、一個の独立した魂として完成させるのだ。
「違うよ、ルカ」
私は、ほとんど消えかかった身体で、力の限り微笑んだ。
「あなたは怪物なんかじゃない。あなたは、私の夢そのものだった。私の全てだった。だから、私はあなたに“なる”の。私の命も、心も、全部あなたの光になる。それでいい。それが、私の最初で最後の、本当の“推し活”だから」
一歩、また一歩と、愛しい彼に近づく。ルカは涙を流しながら、首を横に振った。
「嫌だ! 君がいなくなったら、僕は……!」
「ううん。私は、いなくならない。あなたの歌になる。あなたの輝きになる。永遠に、あなたの一番近くにいるよ」
私はルカをそっと抱きしめた。私の身体が、温かい光の粒子となって、彼の身体へと溶けていく。意識が薄れゆく中で、私が最後に感じたのは、私の神様が流す、温かい涙の感触だった。
「愛してる、私の――」
最後の言葉は、音になる前に光になった。
手から滑り落ちた『光の導き手』が、カラン、と乾いた音を立てて床に転がった。
◇
世界は、光と共に再構築された。虚ろな瞳だった人々は自我を取り戻し、街には穏やかな日常が戻った。そしてルカは、誰の魂を喰らうこともなく、自らの意志で輝く真の英雄として、人々を導き始めた。
しかし、彼の心には、常に埋めることのできない巨大な空白と、理由のわからない、微かな“寂しさ”が残り続けた。
ある星の綺麗な夜、彼は玉座の間に落ちていた一本のペンライトを、ふと手に取った。すると、今まで何の反応も示さなかったそれが、彼の手に呼応するように淡い光を放ち、最後のホログラムを空中に映し出した。
そこにいたのは、光の粒子となって消えていく、見知らぬ少女の姿。
音声はない。けれど、彼女の唇は、確かにこう動いていた。
『私の、最高の推しへ。どうか、あなたの光で世界を照らして』
その瞬間、ルカの頬を、理由のわからない一筋の涙が伝った。
彼は、この少女を知らない。彼女の名前も、声も、何も知らない。
けれど、彼の魂だけが、覚えていた。
かつて、自分を全身全霊で愛し、自らの全てを捧げて消滅していった、世界でたった一人のファンの温もりを。
ルカは夜空に浮かぶ二つの月を見上げ、そっと呟いた。
「……ありがとう。僕の、たった一人の……」
言葉は、続かなかった。ただ、ペンライトの光は、その言葉を聞き届けたかのように静かに消え、それきり二度と灯ることはなかった。