クリスタルの残照
第一章 薄れゆく和音
カイの指先が、透けていた。窓から差し込む午後の光が、骨のない幻灯のように彼の掌を通り抜けていく。かつて億千万の心を震わせたその指は、今やグランドピアノの象牙の鍵盤に触れることすら覚束ない。触れているはずなのに、確かな重みも、冷たい感触も、そこにはなかった。まるで、記憶の中のピアノを撫でているかのように。
街の中心には、天を衝く巨大なクリスタルの塔『熱量計(エナジー・メーター)』がそびえ立っている。それは、この世界の表現者たちが集める「Fan Energy」を可視化したもの。かつて、塔の頂点ではカイの名が、恒星のごとく眩い光を放っていた。彼の奏でる音楽が、世界の心臓の鼓動そのものだった時代。人々は彼の音楽を浴びて一日を始め、その余韻に抱かれて眠りについた。
だが、今は違う。
カイの名を示す光は、風前の灯火のようにか細く揺らめいている。それは日に日に、いや、一時間ごとに薄くなっていた。市民たちは塔を見上げては眉をひそめ、囁き合う。天才の落日。時代の終わり。彼らの同情や好奇心は、もはやカイの存在を繋ぎ止める熱量にはならなかった。
「なぜだ……」
掠れた声は、自分にすら微かにしか届かない。かつて彼のファンだった者たちは、すでに新しいスターに熱狂している。彼らの離反は痛みを伴ったが、それは何千、何万という小さな傷だった。カイの存在を根底から揺るがしているのは、その無数の傷ではない。たった一つの、致命的な傷だ。
彼の管理端末が示すデータは、無慈悲なほどに明確だった。ファン総数の減少率は数パーセントに過ぎない。しかし、彼の存在維持率を示すグラフは、崖から転がり落ちるように急降下していた。原因は、ただ一人。識別コード『No.001』。彼がデビューしたその日から、ただの一度も揺らぐことなく最大値の熱量を送り続けてきた、正体不明のファン。
その『No.001』からのエネルギー供給が、三日前、ぷつりと途絶えた。
まるで大河の水源が枯れたかのように、カイの世界は急速に干上がっていった。なぜだ。なぜ、たった一人のファンが、これほどの力を持っていた? そしてなぜ、君は僕を聴くのをやめたんだ?
カイはよろめきながら立ち上がり、壁に手をつく。だが、その手は壁の冷たさを感じることなく、僅かにめり込んだ。世界が、彼を拒絶し始めている。恐怖が冷たい霧のように内側から湧き上がり、ただでさえ希薄な身体をさらに蝕んでいく。彼は、その『No.001』を探さなければならなかった。消滅する、その前に。
第二章 追憶のノイズ
街はノイズに満ちていた。カイが透けていくにつれて、彼の聴覚は奇妙な変質を遂げていた。かつてはどんな些細な音色の違いも聞き分けた耳が、今では人々の喧騒や流行りの音楽を、意味のない音の奔流としてしか捉えられない。世界から、調和が失われていく。
彼は、フードを目深に被って街を彷徨った。『No.001』を探す手がかりは、あまりにも少ない。最後に受信した、たった一行のメッセージだけが、彼の思考を何度も巡っていた。
『あなたの音楽は、完成してしまったから』
完成? 音楽に完成などない。それは常に未完で、だからこそ美しいのではないか。その言葉の意味を、カイは理解できなかった。
道行く人々は、カイの姿に気づかない。肩がぶつかっても、相手は何も感じずに通り過ぎていく。彼はすでに、この世界の幽霊になりかけていた。かつて彼のコンサートホールを埋め尽くした顔、顔、顔。その誰もが、今は新しい偶像に熱量を注いでいる。熱量計の塔は、今日も新たなスターの名前を虹色に輝かせていた。その光が、カイの半透明の身体を皮肉っぽく照らし出す。
彼は、街で最も古い図書館へと足を向けた。そこは、忘れられた表現者たちの記録が眠る場所。ファンを失い、存在が希薄化し、やがて完全に消滅した者たちの墓標だ。ひんやりとした古紙の匂いが、彼の曖昧な輪郭をわずかに引き締めるような気がした。
司書は、彼の存在に気づくことなく、埃っぽいカウンターの向こうでうたた寝をしている。カイは書架の間をすり抜けるように進み、この世界の成り立ちについて記された禁書区画へと忍び込んだ。そこに、古びた革表紙の一冊があった。『創世の調律』と題されたその本には、神話めいた記述が残されていた。
『世界は最初の音から始まった。そして、その音を聴く“最初のリスナー”がいた。“リスナー”の熱量が法則となり、創造主たちはその存在を許される。全ての熱量は、“最初のリスナー”という基点に集い、増幅され、世界に分配されるのだ』
カイの心臓が、存在しないはずなのに、凍りつくような音を立てた。“最初のリスナー”。『No.001』。まさか。そんな神話が、現実であるはずがない。だが、彼の身に起きている不可解な現象は、その神話を肯定しているかのようだった。
第三章 沈黙の調律師
カイは、ついに『No.001』の居場所を突き止めた。最後のメッセージに僅かに残っていた位置情報が指し示していたのは、街を見下ろす丘の上に立つ、古びた天文台だった。そこはもう何十年も使われておらず、時の流れから取り残された静寂の聖域だった。
錆びついた扉は、彼が触れると音もなく開いた。内部は埃っぽいが、不思議なほど整然としている。螺旋階段を上り、ドーム型の観測室にたどり着くと、そこに一人の女性がいた。巨大な望遠鏡の傍らに静かに座り、まるでカイが来るのを待っていたかのように、窓の外の街を眺めていた。
「君が、『No.001』か」
声は囁きとなり、空間に溶けて消えそうだった。
女性はゆっくりと振り返る。穏やかで、どこか寂しげな瞳をしていた。彼女はカイの透けた姿を見ても、まったく驚いた様子を見せない。
「ええ。私はリナ。あなたの、最初のファンです」
「なぜだ!」カイは感情のままに叫んだ。だが、その声には力がなかった。「なぜ君一人が離れただけで、僕が消える? 完成した、とはどういう意味だ!」
リナは静かに立ち上がり、カイの目の前に歩み寄る。彼女の指先が、カイの半透明の頬に触れようとして、寸前で止まった。その瞳には、深い哀しみが湛えられていた。
「私が、この世界の法則を創ったからです」
その告白は、雷鳴のようにカイの意識を打ち抜いた。
「私は“最初のリスナー”であり、この世界の『調律師』。人々が他者の熱量に存在を依存する、この法則そのものをデザインした概念。そして、あなたが送られてきた全てのFan Energyは、私という基点を通して増幅されていた。私が栓を抜けば、ダムの水が涸れるように、あなたの存在も失われる」
カイは言葉を失った。目の前の女性が、この世界の神だというのか。
「なぜ、そんなことを……」
「この世界は、歪んでしまったから」リナの声は、祈りのように響いた。「創造は、誰かの評価を得るための手段になりました。表現者たちはファンの顔色を窺い、自分の魂ではなく、他人の欲望を形にするだけの存在になった。それは、あまりにも悲しい」
彼女は、カイを真っ直ぐに見つめた。その瞳には、紛れもない愛情が宿っていた。
「だから、この法則を終わらせることにしたのです。そのためには、この法則が生み出した、最も完璧で、最も美しい『作品』を、この手で消さなければならなかった。それが、あなたの音楽でした。あなたの音楽は、この歪んだ世界のルールの中で、あまりにも完璧に完成してしまった。だから、壊すしかなかった。私が、最も愛したものを」
第四章 解放のクレッシェンド
リナの言葉は、カイの中でゆっくりと意味を結んでいった。絶望ではなかった。むしろ、それは長年彼を縛り付けていた鎖の正体を教えられたような、奇妙な解放感だった。彼は常にファンの期待というプレッシャーの中で音を紡いできた。もっと愛されるために。もっと認められるために。消えないために。
彼は、自分が消えることで、新しい世界が始まるのだと理解した。表現者たちが、誰かの評価に怯えることなく、ただ純粋な衝動から何かを創り出せる世界。それは、彼が心のどこかでずっと夢見ていた世界かもしれなかった。
「最後に、一曲だけ」
カイは、天文台の隅に置かれていた古いアップライトピアノに、透けた指を伸ばした。
「君のためだけに。……いや、誰のためでもない。僕自身のために、奏でよう」
リナは、静かに頷いた。彼女の頬を一筋の涙が伝う。
カイが鍵盤に指を落とす。音は、出ない。彼の指は物理的な振動を生み出すことができない。だが、彼の魂が奏でる旋律は、確かにそこにあった。それは、喝采を求めることのない、喜びも悲しみも超越した、ただ純粋な創造の調べ。誰にも聞こえない、世界で最も美しい音楽。
彼の身体が、足元から光の粒子となってゆっくりと霧散していく。指が、腕が、胴体が、金色の光の塵となって宙に舞い、窓から差し込む月光に溶けていく。彼は微笑んでいた。初めて、真に自由な音楽を奏でられた喜びに満たされて。
最後の和音が、魂の中で響き渡った瞬間、カイの姿は完全に消え失せた。
それと同時に、街の中心で輝いていた『熱量計』のクリスタルの塔に、巨大な亀裂が走った。甲高い音と共に、塔は内側からの光に耐えきれず、無数の破片となって砕け散った。街中に、きらめく光の雨が降り注ぐ。人々は空を見上げ、何が起きたのかわからずに立ち尽くしていた。
法則は、終わった。
リナは一人、静寂が戻った天文台で、もう誰もいない空間を見つめていた。カイが遺した最後のメロディが、新しい世界の産声のように、彼女の心にだけ、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。それは喪失の痛みであり、同時に、希望の夜明けを告げる優しい音色でもあった。