『楽園を拒む獣たち』

『楽園を拒む獣たち』

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第一章 鮫の肝臓と安酒の味

「もっとだ。もっと深く、えぐってくれ」

手術台の男がうわごとのように繰り返す。

俺は溜息を噛み殺し、メスを握る指先に力を込めた。

粘膜を焼くレーザーの焦げ臭い匂い。換気扇はとうの昔に死んでいる。

「客さん、これ以上入れると人間の代謝機能が追いつかない。鮫(サメ)の肝臓にも限度がある」

「構わん。もっと強い酒が飲めるなら、俺は魚になってもいいんだ」

男の瞳孔は既に散大している。

富裕層の間で流行している『ライフ・アップグレード』。

その実態は、動物の臓器や遺伝子を無理やり組み込み、身体能力を拡張する悪趣味な継ぎ接ぎだ。

俺、カイは、その不適合反応を無理やりねじ伏せる『調律師(チューナー)』として、この路地裏で小銭を稼いでいる。

「……完了だ。これでウォッカを水のように飲めるぞ」

縫合を終えると、男は歓喜の声を上げてよろよろと立ち上がった。

腹部の皮膚の下で、異形の臓器が脈打っているのが透けて見える。

代金の電子クレジットを受け取り、男を追い出す。

静寂が戻った診療所に、またあの頭痛がやってきた。

俺には聞こえるのだ。

遺伝子の悲鳴が。

螺旋構造がねじ曲げられ、異物が混入した時の不協和音。

それが俺の特殊な聴覚を苛む。

「次はどんな化け物が来るんだか」

消毒用エタノールで手を洗いながら、俺は壁の鏡を見た。

そこには、何の改造も施していない、時代遅れの『純粋人間(オリジナル)』の顔が映っている。

不便で、脆弱で、美しい。

その時、ドアベルが鳴った。

錆びついた金属音ではない。もっと静かで、品のあるノック。

「閉まってますよ」

「……開けてください、カイ先生」

鈴を転がすような声。

俺は眉をひそめた。この界隈の客層の声じゃない。

ドアを開けると、そこには一人の少女が立っていた。

透き通るような白い肌。色素の薄い瞳。

どこも改造した形跡がない。

だが、俺の耳は即座に警鐘を鳴らした。

彼女からは、今まで聞いたこともないほどの『轟音』が響いていた。

まるで、動物園の檻をすべて同時に開け放ったような、混沌とした遺伝子の絶叫が。

第二章 天使の皮を被ったキメラ

「エレナと申します」

彼女は診察台に座ると、静かに衣服を脱ぎ始めた。

「おい、風俗なら向かいの店だ」

「違います。診てほしいのです」

さらりと落ちた衣服の下を見て、俺は息を呑んだ。

一見、美しい裸体だ。

だが、よく見ると肌の表面には微細な鱗(うろこ)のような紋様が走っている。

背骨のラインに沿って、皮膚の下で何かが蠕動(ぜんどう)している。

「……なんだこれは」

「父が、最高傑作だと言っていました」

エレナは淡々と語る。

「鷲の視力、チーターの瞬発力、熊の筋力、そしてクラゲの再生能力。

あらゆる種の『長所』だけを、人間の受精卵に編集(エディット)して組み込んだ。

私は、生まれながらのアップグレード体です」

最新のニュースで見たことがある。

政府主導の『次世代人類プロジェクト』。

病気も老いも克服した、完全な生命体。

だが、目の前の彼女は、どう見ても壊れかけの人形だった。

「それで、何の用だ? 俺にはそんな高級品のメンテナンスはできんぞ」

「メンテナンスではありません」

エレナは俺の手を取り、自分の胸に当てた。

心臓の鼓動が速すぎる。

鳥類並みの心拍数だ。

「私を、人間にしてください」

「は?」

「この能力をすべて捨てて、ただの『弱い人間』になりたいのです」

俺は手を引っ込めた。

「不可能だ。お前の細胞一つ一つが、既にキメラ化している。

遺伝子を初期化すれば、お前は肉の塊になって崩壊するぞ」

「それでも構いません」

彼女の瞳が揺れた。

「『痛み』を感じたいのです。

寒さを感じ、疲れを感じ、老いていく恐怖を知りたい。

今の私は、何を感じても脳内麻薬が自動分泌されて、幸福感に変換されてしまう。

悲しい映画を見ても、親しい人が死んでも、身体が『最適化』してしまうんです」

それは、究極の生存本能。

ストレスを排除し、個体を存続させるための強制的な幸福。

「先生は、聞こえるのでしょう?

私の身体が上げている悲鳴が」

図星だった。

彼女の身体は叫んでいる。

『私は私ではない』と。

第三章 逆行する進化

俺は数日かけて、彼女のための『ダウングレード・プログラム』を組んだ。

それは違法中の違法行為だ。

政府の最高機密である彼女の遺伝子を、あえて欠損させる。

「いいか、エレナ。手順はこうだ。

ウイルスベクターを使って、お前の過剰な修復機能をブロックする。

次に、感覚神経のリミッターを外す」

「はい」

「想像を絶する痛みが襲うぞ。

今まで遮断されていた、内臓の重み、重力、空気の冷たさ。

すべてが『苦痛』としてお前を襲う」

「……楽しみです」

彼女は微笑んだ。

その笑顔だけは、人間のように見えた。

手術は深夜に行われた。

俺のメスが彼女の脊髄に触れるたび、モニターのアラートが鳴り響く。

『警告:生存機能低下』

『警告:ドーパミン分泌停止』

彼女の白い肌に、脂汗が滲む。

今まで機能していなかった汗腺が、初めて「恐怖」に反応しているのだ。

「っ……あ、あああ……!」

麻酔は最低限しか使っていない。

彼女の望み通りに。

「聞こえるか、エレナ。これが痛みだ」

「……熱い、です……身体が、重い……」

「そうだ。それが生きているということだ」

俺は作業を続けた。

彼女の体内に巣食う「獣たち」を、一つずつ檻に閉じ込めていく。

鷲の目を潰し、人間の近視へ。

熊の筋肉を削ぎ、人間のひ弱な繊維へ。

数時間後。

手術台には、ぐったりとした少女が横たわっていた。

肌の艶は失われ、呼吸は浅い。

だが、その遺伝子の音は。

あの轟音は消え、か細い、今にも途切れそうな単調な旋律だけが残っていた。

人間の音だ。

第四章 幸福な地獄

エレナが目を覚ましたのは、翌日の夕方だった。

「……水」

掠れた声。

俺はコップを差し出す。

彼女は震える手でそれを受け取ろうとし、取り落とした。

ガラスが割れる音。

「あ……」

彼女は自分の手を見つめた。

「持てない……指に、力が入らない……」

「当たり前だ。お前の筋力は十分の一になった」

彼女はゆっくりと身体を起こそうとして、激しく咳き込んだ。

「寒い……息が、苦しい……」

「空調は切ってある。今の室温は18度だ。人間なら肌寒いと感じる温度だ」

エレナは涙を流した。

瞳からあふれる液体に、彼女自身が驚いている。

「これが……涙……」

「そうだ。自動調整機能はもう働かない。悲しければ泣くしかない」

彼女は震えながら、割れたガラスの破片に触れた。

指先から赤い血が滲む。

瞬時には塞がらない傷口。

「痛い……痛いよ、カイ……」

「望み通りだろう」

俺は冷徹に告げた。

だが、彼女の表情が変わっていくのを見て、背筋が凍った。

歓喜ではない。

絶望でもない。

それは、もっと根源的な『虚無』だった。

「……何も、聞こえない」

彼女が呟いた。

「え?」

「風の音も、隣の部屋の虫の羽音も、あなたの心臓の音も。

何も聞こえない……世界が、死んでしまったみたい」

彼女は耳を塞ぎ、悲鳴を上げた。

「暗い! 見えない! 世界がこんなにぼやけているなんて!

匂いもしない! 味がしない!

私は……私は、世界から切り離されてしまった!」

人間の感覚器は、彼女にとってあまりにも貧弱すぎたのだ。

全知全能に近い感覚を持っていた彼女にとって、人間になることは、目隠しと耳栓をして、泥沼に放り込まれることに等しかった。

「戻して……」

彼女が俺の白衣を掴む。

「戻して! お願い! こんなの、孤独すぎる!

痛みはいい、苦しみもいい! でも、この『狭さ』には耐えられない!」

第五章 バベルの崩壊

結局、俺は彼女を元に戻すことはできなかった。

一度壊した遺伝子配列は、二度と元には戻らない。

彼女は『人間』として、その短い生涯を終えることになる。

数日後、彼女は衰弱死した。

免疫機能が、外界の雑菌に耐えられなかったのだ。

皮肉なことだ。

最強の生物として作られた彼女が、ただの風邪で死ぬなんて。

最期に彼女はこう言った。

「人間は、ずっとこんなに孤独な箱の中で生きているの?」

俺は答えられなかった。

彼女の遺体は、政府の回収班が来る前に焼却炉に入れた。

美しい灰になり、煙突から空へ昇っていく。

俺は自分の手を見つめる。

純粋な、人間の手。

今まで誇りに思っていたこの身体が、急にひどく不完全な欠陥品に思えてきた。

俺たちは、進化の袋小路にいるのかもしれない。

ドアベルが鳴る。

「先生、頼むよ。猫の目を移植してくれ」

新しい客だ。

俺は立ち上がり、深く息を吸い込む。

肺に入ってくる空気は、ひどく埃っぽく、そして、どうしようもなく人間の味がした。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • カイ: 違法な遺伝子「調律師」。遺伝子の不協和音を聞き取る特異体質を持つ。口では純粋な人間を賛美するが、内心では変化を恐れる臆病者でもある。
  • エレナ: 政府の「次世代人類プロジェクト」で生み出されたキメラ。あらゆる生物の長所を持つが、強制的な幸福感(脳内麻薬)により「生きている実感」を持てずにいた。

【考察】

  • 「進化」とは何か: 本作におけるアップグレードは、身体能力の向上をもたらすが、同時に人間としての「痛み」や「葛藤」を奪うものとして描かれる。エレナの死は、生存競争における強さと、精神的な豊かさが相反する可能性を示唆している。
  • 感覚の檻: エレナが人間になった瞬間に感じた「孤独」と「狭さ」は、我々人間が普段認識している世界がいかに限定的であるかを逆説的に浮き彫りにする。
  • 矛盾する欲望: 富裕層は獣になりたがり、獣として作られた少女は人間になりたがる。隣の芝生は青いという普遍的なテーマを、遺伝子レベルでグロテスクに表現している。
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