サイレント・エコー
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サイレント・エコー

第一章 オーラの宇宙と無音の響き

私、水無月カスミの目には、世界は常にけばけばしい光で溢れていた。人々が他者に向ける期待、願望、あるいは嫉妬や軽蔑といった感情の集合体は、色とりどりの『オーラ』となってその人物の輪郭を滲ませる。満員電車などは最悪だ。無数のオーラが混ざり合い、粘着質な霧となって呼吸さえ苦しくさせる。だから私はいつも、世界の片隅で息を潜めるように生きてきた。

そんな私の唯一の逃げ場所は、アーティスト『レン』の音楽だった。

彼の存在は、この世界の法則の極致だ。モニター越しに見た彼の『オーラ』は、一個人のそれを遥かに超越していた。それは銀河を思わせるほどに広大で、眩い星々の光を宿し、観る者の魂を根こそぎ奪っていくような引力を持っていた。人々は彼を『不世出の天才』と呼び、彼の歌声に熱狂し、その一挙手一投足に意味を見出そうとした。彼らの狂信的なまでの期待が、彼の『偶像』としてのオーラを日々、肥大させていくのが私には見えた。

けれど、私だけが知っていた。その圧倒的な光の渦の中心、最も輝くべき核の部分が、完全な『無』であることに。

そこは、あらゆる色彩も温度も失われた、絶対零度の真空だった。そして、そこから微かに、本当に微かに、耳を澄まさなければ聞き取れない『無音の響き』が漏れ出ていた。それは音のない悲鳴。凍てついた孤独の結晶。巨大なオーラの檻に囚われた何者かが、か細い指で内側から壁を引っ掻くような、絶望的な響きだった。

ある夜、レンの新曲『ゼロ・グラビティ』が世界同時配信された。きらびやかなシンセサイザーの音色と、天翔けるようなメロディ。歌詞は希望に満ち、愛を謳い、聴く者すべてを無重力の幸福感で包み込んだ。世界は再び熱狂の渦に叩き込まれた。

だが、私はヘッドフォンの中で震えていた。

その歌の奥底に、彼が隠した本当のメッセージを聞き取ってしまったからだ。

「この引力から解き放たれて、砕け散りたい」

「誰か、僕という名のこの重力を、終わらせて」

それは、輝かしい『偶像』の口を借りて語られる、『本人』の悲痛な遺書だった。私は、彼のオーラの中心で凍える『無音の響き』の正体を、確かめなければならないと強く思った。奇跡的に手に入れたアリーナツアー最終日のチケットを、私は固く握りしめていた。

第二章 卵型の道標

ライブ会場の空気は、それ自体が意思を持った生き物のようだった。数万人の期待と願望が飽和し、むせ返るような甘い匂いを放ちながら渦を巻いている。ステージ上にレンの姿が現れると、オーラは爆発的に膨張し、天を衝く光の柱となってアリーナ全体を支配した。神々しい、と誰もが思うだろう。だが私の目には、その光が彼自身を焼き尽くす劫火のように見えた。

一曲、また一曲と進むにつれて、彼のオーラの中心にある『無』の領域が、不気味に脈動を始めた。『無音の響き』が、私の鼓膜ではなく、魂に直接打ち付けられる。

——ここから、出して。

それは、声にならない声だった。

巨大な『偶像』が完璧なパフォーマンスを繰り広げる裏側で、その内にいる『本人』が息絶えようとしている。私は息が詰まり、溢れる涙を拭うこともできずに、ただ立ち尽くしていた。

ライブが終わり、人々の熱狂の残滓から逃れるように、私は夜の街を彷徨った。足が自然と向かったのは、古びたネオンが寂しく瞬く路地裏だった。そこに、忘れられたように佇むアンティークショップがあった。埃っぽいショーウィンドウの中に、私は『それ』を見つけた。

白い、卵型の石。

かつてレンがSNSに一度だけ投稿し、数分で削除した写真。背景は何もなく、ただこの滑らかな石だけが写っていた、あの写真。

吸い寄せられるように店に入り、震える指で石に触れる。ひんやりとした感触。しかし、指先が触れた瞬間、石は微かに、だが確かに振動した。そして、あの『無音の響き』が、増幅されて脳内に直接流れ込んできたのだ。それはもう悲鳴ではなかった。明確な道標。私を呼ぶ、彼の魂の震えだった。

石を買い取り、ポケットの中で強く握りしめる。石の振動は、まるでコンパスの針のように、ひたすらに北を指し示していた。私は、その導きにすべてを委ね、駆け出した。

第三章 檻の中の対話

石が示した先は、都市の再開発から取り残された、廃墟と化したコンサートホールだった。割れたガラス窓から差し込む月光が、埃の舞う客席をぼんやりと照らしている。その静寂は、先ほどまでの熱狂が嘘のようだった。

ステージの中央。そこに、一人の青年が座っていた。

着古したスウェットに、色の抜けた髪。そして何より、彼はオーラを一切まとっていなかった。そこにいる誰もが彼を見ても、天才アーティスト『レン』だとは気づかないだろう。だが私にはわかった。彼こそが、巨大なオーラの中心にいた『本人』なのだと。

「……聞こえたんだね」

彼が静かに顔を上げた。その声は、音楽番組で聞く自信に満ちた声とは似ても似つかない、乾いて掠れた響きを持っていた。

「あの石は、僕の最初の絶望の欠片なんだ。まだ誰も僕を知らなかった頃、『天才になれたら、この孤独から逃れられる』と願って、拾った石。皮肉だよね。その願いが、僕を新しい檻に閉じ込めた」

彼は自嘲気味に笑い、語り始めた。『偶像』は、彼自身のその切なる願望と、世界中から寄せられる無数の期待が融合して生まれた、自我を持つ怪物なのだと。もはや彼の制御を離れ、『偶像』は彼自身の意識を内側に取り込んだまま、勝手に輝き、歌い、世界を魅了し続けている。彼は、自分自身の身体の中に囚われた幽霊に過ぎなかった。

「新曲は、『偶像』が作った。でも、僕の意識が消える前に、最後の抵抗として本当の言葉を潜ませた。君だけが気づいてくれた」

彼の瞳が、初めて私を真っ直ぐに捉えた。その奥に、諦めと、ほんのわずかな希望が揺らめいていた。

「今夜、スタジアムで特別公演がある。あそこで『偶像』は、数万人のエネルギーを吸収して、完全に僕の意識を消し去り、神になるつもりだ。そうなったら、もう終わりだ」

「どうすれば……」

「壊すしかない」と彼は言った。「『偶像』を。あの石を使って。石は、人々の期待のエネルギーを吸収する。それを『偶像』の核…つまり、僕の最初の『絶望』にぶつければ、内部から崩壊させられるはずだ」

それは、世界から『レン』という存在を消し去ることを意味していた。

彼の顔を見つめる。そこにいたのは天才ではなく、ただ助けを求める一人の青年だった。

「わかった」私は頷いた。「手伝う。あなたを、そこから出す」

その瞬間、私たちは共犯者になった。

第四章 ゼロからの再生

スタジアムの眩い照明が、夜空を白く染めていた。関係者用の通路を抜け、ステージ袖の暗がりに身を潜める。ポケットの中の『卵型の石』が、心臓と呼応するように熱く脈打っていた。

ステージに立つ『偶像』のレンは、もはや人の形をした神だった。そのオーラは黄金の津波となって客席に押し寄せ、熱狂という名の供物を貪欲に吸い上げていく。このままでは、檻の中の『彼』が消える。

私は石を強く握りしめ、意識を集中させた。目を閉じ、『無音の響き』だけを頼りに、彼の『本人』に呼びかける。

——今よ。力を貸して。

石が灼けるように熱を帯び、オーラの奔流を凄まじい勢いで吸い込み始めた。石の表面に、見たこともない複雑な紋様が光っては消える。

その変化に、『偶像』が気づいた。完璧な微笑を浮かべたまま、その瞳だけが氷のような敵意をたたえ、私を射抜く。神のオーラが、物理的な圧力となって私を押し潰そうと襲いかかってきた。息ができない。意識が遠のく。

その時、心に直接、彼の声が響いた。

『今だ、カスミ!』

最後の力を振り絞り、私は暗闇から飛び出した。そして、光り輝く石を、ステージの中心に向かって、渾身の力で投げつけた。

白い軌跡を描いた石は、まるで最初からそこが定位置だったかのように、『偶像』の胸の中心、最も強く輝く一点に吸い込まれていった。

世界から、音が消えた。

次の瞬間、閃光がスタジアムを飲み込み、耳をつんざくガラスの割れるような轟音が響き渡った。人々が何事かと顔を見合わせている間に、ステージ上の『偶像』は、光の粒子となって霧散していった。

レンという現象は、その夜を境に、人々の記憶から急速に薄れていった。公演は大規模な機材トラブルで中止と報じられ、彼の音楽は少しずつチャートから姿を消し、やがて誰も彼の名前を口にしなくなった。まるで、初めから存在しなかったかのように。

数年後。

私は、都心から少し離れた小さなライブハウスの客席にいた。ステージに立つのは、名もなき青年。アコースティックギターを一本抱え、静かに目を閉じて歌い始める。

彼にはもう、オーラはない。

ただ、彼の魂から直接紡ぎ出される音楽があった。それは、かつてのような神々しい光ではなく、傷つき、迷いながらも、それでも生きようとする人間の、ささやかで、しかし確かな熱を帯びた音だった。

演奏が終わり、彼がふと顔を上げた。客席の片隅にいる私を見つけ、ほんの少しだけ、口元を緩めた。その笑みは、世界中の誰にも向けられない、私だけのものだった。

世界はもう彼の名前を知らない。天才の不在を嘆く声もない。

だが、彼の本当の歌は、今、ここで生まれたのだ。そして、その『本当の響き』を聴き分けられるのは、世界でただ一人。

私は、彼の『再誕生』の唯一の証人として、静かに、心からの拍手を送った。

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