聖痕のタイムライン —— 悪意のアルゴリズムを書き換えて

聖痕のタイムライン —— 悪意のアルゴリズムを書き換えて

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第一章 バズりと裂傷

指先が、凍えたように震えている。

スマートフォンの液晶に触れる私の指だ。

「……あ」

唇から漏れたのは、ため息というより、肺の空気が勝手に押し出された音だった。

目の前には、さっきまで泣き叫んでいた青年がいる。『職場のパワハラによる希死念慮』は、私の右手を通じて吸い出された。今は穏やかな寝息を立てている。

その代償として、私の右腕にはどす黒い内出血が地図のように広がっていた。

ズキン、ズキン。

血管の中で何かが膨張するような鈍痛。だが、これは肉体の痛みだ。耐えられる。

問題は、手の中にあるこの小さな板だ。

『通知:99+』

恐る恐るアプリを開く。画面を埋め尽くす文字列が、意味を持つ前に暴力となって網膜を焼いた。

《偽善乙。また被害者ヅラして金稼ぎか》

《聖女とか笑わせる。お前が生きてるだけで不快なんだよ》

《死ね死ね死ね死ね死ね》

ヒュッ、と喉が鳴る。

ピシッ。

乾いた音がして、私の左の頬が裂けた。

痛みはない。ただ、熱い液体が頬を伝い、白いワンピースの襟元にポツリと赤い染みを作った。鉄錆の匂いが鼻腔を突く。

「……また、増えてる」

額に浮かぶ光の輪――『共鳴の聖環(レゾナンス・ヘイロー)』が、接触不良の蛍光灯のようにジジジ、と不快なノイズを立てて明滅する。

かつては黄金色に輝いていたはずのその光は、今や酸化した銀のように黒ずんでいた。

「アリア様、スマートフォンを置いてください!」

付き人の少女が血相を変えて駆け寄ってくる。包帯を取り出す彼女の手を、私は制した。

「待って。誤解を解かないと」

彼らも人間だ。言葉を持った、心ある人間だ。

私の伝え方が悪かっただけ。誠心誠意、魂を削って言葉を紡げば、きっと分かってくれる。

私は震える親指を画面に押し当てる。それは入力というより、祈りに近かった。

どうか、この想いが届きますように。画面の向こうの誰かが、少しでも笑ってくれますように。

『私はお金なんて取っていません。ただ皆さんに笑ってほしくて……』

送信ボタンを押した。

その0.5秒後。

私の祈りは、燃料となって炎にくべられた。

リプライ欄が滝のように流れる。

《は? 笑ってほしい? 上から目線うぜえ》

《無償アピールかよ、裏でパトロンいるくせに》

《日本語おかしくない? 教育受けてないの?》

ブチッ。

濡れた雑巾を絞り切るような音がして、私の二の腕の皮膚が弾けた。

鮮血が飛び散り、スマートフォンの画面を赤く汚す。

物理的な刃物などない。ここにあるのは、電波に乗って世界中から集約された『認識』だけ。

私が誰かを癒し、そこから抜き取られた負の感情は、インターネットという海に放流される。そしてそれは増幅し、牙を剥いて、発生源である私へと還ってくるのだ。

「あ、ぐぅ……ッ」

膝から崩れ落ちる。

フローリングに血溜まりが広がる。

私の体は、世界中の悪意を受け止めるサンドバッグだった。

それでも私は、血塗れの指で「ごめんなさい」と打ち続けていた。

第二章 影の福音

深夜二時。

傷の手当を終え、ベッドに潜り込んでも、耳鳴りが止まない。

額の聖環が、Wi-Fiルーターのように空間の歪みを拾い続けている。

枕元のスマートフォンは電源を切ったはずだ。

それなのに、漆黒の画面が突然、青白く発光した。

ブッ。

短く振動し、カメラアプリが勝手に起動する。

インカメラに映し出されたのは、私の怯えた顔ではない。

画面の中の私の顔が、勝手に歪んでいく。

目が極端に大きくなり、口が耳まで裂け、肌が紫色に変色する。安っぽい加工アプリのエフェクトが、次々と高速で切り替わる。

スピーカーから、ノイズ混じりの合成音声が流れた。

『――こんばんは、哀れな器よ』

心臓が早鐘を打つ。

画面の加工が止まり、今度は私のフォトライブラリが勝手に開かれた。

昨日食べたランチ。付き人と笑い合う写真。寝顔。

それらが次々と表示され、そこに赤字で『嘘つき』『売春婦』『廃棄物』と焼き付けられていく。

「やめて……誰なの……?」

私の問いかけに答えるように、画面がブラックアウトし、白い文字がタイプライターのように打ち込まれる。

『我々は影。君が作り出した影だ』

部屋のスマートスピーカーが、突然最大音量でハウリングを起こした。

キィイイイイイイッ!

耳を塞ぐ私の目の前で、スマートフォンの画面が目まぐるしく明滅する。

私の銀行口座の残高、住所、そして今この瞬間の心拍数データが表示された。

『君はポンプだ、アリア』

文字が流れる。

『君が善意で吸い上げた汚水は、ネットの海で蒸発し、酸性雨となって降り注ぐ。君が奇跡を起こせば起こすほど、世界の悪意の総量は増えている』

息が詰まる。

それは、私が一番目を逸らしていた事実だった。

『君を炎上させるのは娯楽ではない。システムのエラー処理だ』

画面に、私の聖環(ヘイロー)の解析データが表示される。

数値が限界突破を示している。

『君という循環装置を破壊すれば、悪意の供給は止まる。我々は君を物理的に殺しはしない。精神的に圧殺し、聖女としての機能を停止させる』

スマホのライトが、ストロボのように激しく点滅し始めた。

眩暈がする。吐き気が込み上げる。

『さあ、見ろ。これが世界だ』

画面に、無数のSNSアイコンが集合体恐怖症を起こさせるほど密集して表示される。そのすべてが、私への罵倒を吐き出している。

『君が愛そうとした人間たちは、こんなにも醜い。救う価値などない』

ブツン。

唐突に電源が落ちた。

部屋には、荒い自分の呼吸音と、ひび割れた聖環がミシミシときしむ音だけが残された。

暗闇の中、スマホの黒い画面だけが、死んだ魚の目のように私を見つめていた。

第三章 無菌室のディストピア

翌日、街は平穏だった。

鳥がさえずり、子供たちが走っている。

だが、私の網膜にはノイズが走っていた。

すれ違う人々がポケットからスマートフォンを取り出すたび、私の肌がチリチリと焼ける。

「アリア様、フードを深く被ってください。特定されます」

付き人の悲痛な声。

私は街の広場にある大型ビジョンの前で足を止めた。

そこには、私のコラージュ画像が映し出されていた。

豚の体に私の顔を合成したもの。葬式の遺影のように加工されたもの。

周囲の人々が、クスクスと笑いながらスマホを向けてくる。

シャッター音の一つ一つが、画鋲となって私の肌に突き刺さる。

痛い。熱い。

これが、彼らの望む世界へのプロセスなのか。

私がいなくなれば、この悪意もなくなる?

想像してみる。

誰も傷つかない、清潔な世界。

感情の摩擦係数がゼロの世界。

それはきっと、病院の集中治療室のような匂いがするだろう。

静かで、清潔で、そして――死んでいる。

悪意は、熱だ。

誰かを守りたいという愛が裏返ったとき、それは牙になる。

自分の正義を信じるからこそ、他者を攻撃する。

悪意を完全に消し去ることは、人の体温を奪うことと同じだ。

「……寒すぎるよ、そんな世界」

私はポケットからスマートフォンを取り出した。

ガラスは蜘蛛の巣状に割れ、私の指から滴る血でぬるりと滑る。

聖環は今、黒炭のようにボロボロと崩れ落ちそうになっていた。

これが砕ければ、私はただの少女に戻る。

いや、廃人になるかもしれない。

「それでも、伝えなきゃ」

カメラアプリを起動する。

インカメラに映るのは、片目が腫れ上がり、血と泥にまみれた、化け物のような私の顔。

配信ボタンを押す。

『……聞いて。影の福音者たち。そして、私を指差して笑うすべての人へ』

第四章 泥の中の蓮華

視聴者数は、開始数秒で億を超えた。

世界中が、この傷だらけの生贄を見つめている。

コメント欄が、肉眼では追えない速度で加速する。

罵詈雑言の弾幕。

そのすべてが、物理的な衝撃となって私を襲う。

バキッ。

右手の小指が、見えない力で逆方向に折れ曲がった。

激痛に視界が白む。

「ぐっ、うぅ……!」

『死ね』『消えろ』『グロ画像』

私は折れた指をそのままに、カメラに顔を近づけた。

血の混じった唾を飲み込み、画面の向こうの数億の瞳を睨み据える。

「消えない。私は、あなたたちの悪意を、消したりしない」

私は、聖女の力である「浄化」を使わなかった。

その代わり、折れていない左手の指で、流れるコメントの一つをタップした。

《お前なんか生きてる価値ない》

そのコメントに対し、私はリプライを打つ。

血で画面が反応しづらい。それでも、爪が剥がれるほどの勢いでフリックする。

『価値を決めるのはあなたじゃない。でも、あなたのその怒りは、あなたの命の音だわ』

送信。

肉が裂ける音がした。肩口から血が噴き出す。

それでも私は止まらない。

《ブス。死ね》

『私の顔を見てくれてありがとう。あなたのアイコンの空、とても綺麗ね』

送信。

肋骨にヒビが入る感触。肺が圧迫され、呼吸がヒューヒューと鳴る。

魔法で解決などしない。

光の粒子で改心などさせない。

ただ、狂気的なまでの「受容」を突き返す。

「もっと来なさい。あなたたちの汚い言葉、全部、私が抱きしめてあげる」

血反吐を吐きながら、私は笑った。

その笑顔は、聖女の慈愛というより、夜叉のそれに近かっただろう。

画面の向こうの空気が変わった。

コメントの流れが、ピタリと止まる。

彼らは気づいたのだ。

自分たちが石を投げている相手が、石を投げ返してこないどころか、血まみれになりながらその石を拾い集め、「素敵な石ね」と笑っていることに。

それは恐怖だった。

理解不能な存在への、根源的な畏怖。

《なんだこいつ……》

《気持ち悪い》

《もうやめろよ、マジで死ぬぞ》

アンチたちの指が止まる。

攻撃の手が緩む。

罪悪感ではない。「気まずさ」と「恐怖」が、彼らの暴走を止めたのだ。

バリーン!!

凄まじい音がして、額の聖環が粉々に砕け散った。

その破片が私の額を切り裂き、鮮血が視界を覆う。

もはや立っていることもできない。

私は泥と血にまみれた床に崩れ落ちながら、それでもスマホを握りしめ、最後のリプライを送信した。

『あなたたちのこと、人間くさくて、大好きよ』

通信が途絶える。

私の意識も、そこでプツリと切れた。

最終章 リプライの向こう側

オープンテラスの席で、私はカフェラテを啜った。

苦い。砂糖を入れるのを忘れていた。

「……うわ、また書かれてる」

手元のスマートフォンには、辛辣なコメントが表示されている。

《元聖女とか言ってるけど、ただの痛い一般人だろ》

《あの配信、今見ても狂気だよな。関わっちゃいけない奴だ》

胸の奥がチクリとする。

でも、もう私の肌は裂けないし、骨も折れない。

額にあった聖環は消滅した。

奇跡の力も失った。

今の私は、どこにでもいる、ただの無力なアリア・ヴェルトだ。

冬の風が吹き抜け、額に残る大きな古傷を撫でていく。

その冷たさが、私が生きている証だった。

「ふふっ」

私は軽やかにフリック入力する。

指にはまだ、リハビリの痛みが残っている。

『ご意見ありがとうございます! 今の私も気に入ってもらえるように、精一杯生きてみますね(笑)』

送信。

かつてのような世界規模の炎上はもう起きない。

もちろん、アンチはいなくならない。世界は相変わらず、悪意と善意がごちゃ混ぜになった、泥のようなスープだ。

でも、人々は少しだけ学んだ。

画面の向こうに、血を流し、骨をきしませる「生身の人間」がいるということを。

あの日の私の、狂った笑顔が脳裏に焼き付いている限り、彼らは送信ボタンを押す前に一瞬だけ躊躇うだろう。

「影の福音者たち」も、あれ以来沈黙している。

きっと彼らも、このノイズだらけの世界のどこかで、コンビニ弁当でも食べながら文句を言っているに違いない。

「さてと」

私はスマートフォンをコートのポケットにねじ込んだ。

飲み干したカップの底には、溶け残ったジャリジャリとした砂糖が沈んでいた。

完全な甘さなんてない。

でも、だからこそ、時折感じる甘さが愛おしい。

私は立ち上がり、雑踏の中へと歩き出した。

無数の通知音と、誰かの悪口と、笑い声が渦巻く、この愛すべきクソみたいな世界へ。

『』

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
主人公アリアは、当初「皆に笑ってほしい」純粋な善意で行動しますが、深層には「自分の存在意義」を聖女の力に見出す固執があった。悪意を「受容」するという狂気的な選択は、完璧な聖女の役割を手放し、不完全な自己を受け入れる最終ステップだったと言えます。聖環を失い「ただの人間」になることで、真の自己受容に至ります。

**伏線の解説**
「影の福音者たち」は、アリアの浄化行為が「悪意を増幅させるシステムの一部」であると指摘します。彼らがアリアの「精神的な圧殺」を目指したのは、悪意の供給源としての聖女アリアの機能を停止させるためであり、聖環の崩壊と彼女の力の喪失は、この「アルゴリズム」からの解放を意味する伏線でした。

**テーマ**
本作は、インターネット上の悪意が単なる個人攻撃ではなく、「世界が歪みを調整するシステム」として機能している可能性を提示します。完璧な「無菌室の世界」を否定し、人間が持つ不完全性、摩擦、そして悪意すらも「命の音」として受容し、その中でいかに生きるかという「泥の中の蓮華」のような人間性の肯定を問う哲学的な物語です。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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