第一章 損益分岐点の婚約破棄
シャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に反射している。
その煌びやかな王城の舞踏会場で、私は懐中時計の蓋をパチンと閉じた。
「……殿下。今の宣告により、スケジュールの遅延が四分三〇秒発生しています」
周囲の貴族たちが息を呑む音が、さざ波のように広がる。
私の目の前には、顔を真っ赤にした第一王子フレデリックと、その腕にしがみつく小柄な少女。
聖女リリアナだ。
「貴様! この期に及んで何を言っている! 愛なき婚約など、もはや継続不可能だと言ったのだ!」
フレデリックが叫ぶ。
唾が飛びそうだ。非衛生的である。
私は扇子で口元を隠し、冷徹に彼を見据えた。
「愛、ですか。感情という不確定変数を、国家運営の重要プロジェクトである婚姻に持ち込むとは。……これだから、あなたの『経営』は赤字続きなのです」
「な、なんだと……!?」
「エレノア様、ひどいですぅ! 愛は世界を救うんです!」
リリアナが涙目で訴える。
彼女は『無限の小麦を生み出す』という奇跡の力を持っている。
その力のおかげで、この国は飢餓から救われる――はずだった。
だが、現実は違う。
「聖女よ。あなたが先月、国境の村へ送った小麦はどうなりましたか?」
「え? えっと……みんなお腹いっぱいになって、幸せに……」
「いいえ。六割が輸送中に腐敗し、二割が横領され、届いた二割もカビていました」
私は淡々と事実(データ)を提示する。
「なっ、嘘を言うな! リリアナの奇跡は完璧だ!」
「奇跡は完璧でしょう。ですが、物理法則はこの世界の絶対君主です。適切な梱包、温度管理、そして道路整備なき輸送は、ただの『廃棄物移動』に過ぎません」
私は溜息をついた。
前世、私が世界的な物流企業のCSO(最高サプライチェーン責任者)として辣腕を振るっていた記憶が、こめかみを疼かせる。
この国の物流(ロジスティクス)は、あまりにも前時代的すぎるのだ。
「もういい! エレノア・ヴァン・ヒューストン! 貴様を辺境の北の地、ノースガルドへ追放する! あのような不毛の地で、精々頭を冷やすがいい!」
追放。
その言葉を聞いた瞬間、私の脳内でシナプスがスパークした。
ノースガルド。
北の大国との国境線。海に面した港。
そして何より、王都の腐敗した既得権益(しがらみ)が及ばない、白紙の土地。
(……最適解だわ)
私は口角をわずかに上げた。
それは、獲物を見つけた猛禽類のような笑みだったかもしれない。
「承知いたしました。その命令、確かに受諾します。ただし――」
私はドレスの裾をつまみ、完璧なカーテシーを披露した。
「後悔なさらぬよう。返品(キャンセル)は受け付けませんので」
第二章 北の地におけるカイゼン
ノースガルドは寒かった。
馬車を降りた瞬間、頬を刺すような冷気が襲ってくる。
「お嬢様……いえ、領主様。本当に何もないところです……」
執事のセバスチャンが、青ざめた顔で荒野を見渡す。
確かに、作物は育ちにくい。
だが、私の目には『宝の山』が見えていた。
「セバスチャン。あの川の流れを見て」
「川、ですか? 急流で船も出せませんが」
「ええ。だからこそ、動力になる」
私は羊皮紙を広げ、猛スピードで図面を引き始めた。
「まず、道路を整備します。泥道では馬車の車輪抵抗が大きすぎる。土魔法使いを総動員して、路面を硬化(舗装)。規格を統一しなさい」
「は、はい!」
「次に、荷車の規格化(コンテナリゼーション)です。今までのように、樽や麻袋をバラバラに積むのは禁止。私が設計した『木製パレット』と『直方体コンテナ』のみを使用させなさい」
領民たちは最初、戸惑った。
だが、結果は火を見るより明らかだった。
今まで積み込みに三時間かかっていた作業が、土魔法で作った簡易フォークリフト(ゴーレム)とパレットのおかげで、わずか十五分に短縮されたのだ。
「す、すげぇ……! これなら倍の荷物が運べるぞ!」
「休憩時間が増えた! 酒が飲める!」
労働者の疲労が減り、輸送量は倍増。
さらに私は、北の海で獲れる豊富な海産物に目をつけた。
「いいですか。魚が腐るのは『時間』のせいではありません。『温度』のせいです」
私は氷魔法使いを集め、断熱材として羊毛を詰めた二重構造のコンテナを作らせた。
コールドチェーン(低温物流網)の構築である。
「北の鮮魚を、生きたまま王都近郊へ届ける。これが今回のミッションよ」
「そ、そんなこと不可能です! 王都までは馬車で十日かかります!」
「誰が馬車を使うと言ったの?」
私はニヤリと笑い、河川の方を指さした。
そこには、私が設計し、ドワーフたちに組ませた『水上輸送システム』があった。
急流を利用し、一度に大量のコンテナを下流へと流す。
帰りは風魔法で帆を操り、遡上させる。
「リードタイムは三日。これで勝てる」
第三章 王都の飢餓と、私の在庫
それから半年。
私の予想通り、王都はパニックに陥っていた。
「なぜだ! なぜ小麦が届かない!」
フレデリック王子が執務室で叫んでいるという報告が、定時連絡で入ってくる。
原因は明白だ。
聖女リリアナが『無限に小麦を出す』ことに甘え、農家への支援を打ち切ったからだ。
さらに、輸送業者が「泥道で馬車が壊れる割に、報酬が安い」とストライキを起こした。
王都の倉庫には、聖女が出した小麦が山積みになっている。
だが、それを各家庭に配る手段がない。
山積みの小麦は湿気で腐り、ネズミの餌になり、疫病の温床となっていた。
「モノがあるだけでは、富とは言わないのよ」
私はノースガルドの執務室で、優雅に紅茶を啜った。
私の領地は今、空前の好景気に沸いている。
北の海産物は飛ぶように売れ、逆に南からは果物や織物が大量に流入してくる。
物流のハブとなったこの地には、大陸中から商人が集まっていた。
「エレノア様。王都から使者が参りました」
「あら、予想より早かったわね」
現れたのは、かつて私を嘲笑った宰相だった。
彼はげっそりと痩せこけ、私の前に土下座した。
「エ、エレノア様……どうか、王都へ食料を……! このままでは暴動が起きます!」
「お断りします」
即答だった。
「なっ……! 国民を見殺しにするおつもりか!」
「勘違いしないでください。私は『商品』を持っていますが、あなた方には『対価』を支払う能力がない。支払い能力のない顧客とは取引しない。商売の鉄則です」
王国の通貨は、聖女の失政によるインフレで紙切れ同然になっていた。
「そ、そんな……では、どうすれば……」
「簡単なことです」
私は分厚い契約書をテーブルに叩きつけた。
「この国を、私が買収します」
「は……?」
「王家が持つ統治権、徴税権、そして土地の所有権。すべてを私の会社『ノースガルド・ロジスティクス』に譲渡しなさい。そうすれば、直ちに私の物流網を使って、全家庭に新鮮な食料を『翌日配送』して差し上げます」
第四章 ロジスティクスの女王
王都への入城は、凱旋そのものだった。
私の指示一つで、待機していた輸送部隊が一斉に動き出す。
計算され尽くしたルート。
無駄のない荷降ろし。
バーコード魔法による在庫管理。
飢えていた民衆の元へ、パンとスープが吸い込まれるように届いていく。
それは聖女の「祈り」よりも遥かに速く、確実な「救済」だった。
「あ、悪魔だ……」
玉座の間で、フレデリック王子が私を見て呟いた。
聖女リリアナは、ただ呆然と、自分の出した小麦が私の部下たちによって効率的に処理(廃棄または肥料化)されていくのを見つめている。
「悪魔? いいえ、殿下。私はただの『実業家』です」
私は玉座の横に立ち、彼らを見下ろした。
「あなたたちは、理想ばかりを語り、手足を動かすことを軽視した。現場を知らない経営陣は、会社(くに)を潰すのです」
「エレノア……やり直せないか? 僕が悪かった。もう一度、婚約を……」
フレデリックが縋るような目を向けてくる。
私は冷ややかに笑い、かつて彼に言われた言葉をそのまま返した。
「今の発言により、私の人生における無駄な時間が十秒増えました」
衛兵――今は私の会社の警備部門社員――に目配せをする。
「元王族の方々を、更生施設へ『出荷』しなさい。区分は『要再教育』。納期は未定で構わないわ」
「ひ、ひぃぃぃ!」
「いやぁぁぁ!」
二人が引きずり出されていく。
静まり返った玉座の間で、セバスチャンが恭しく頭を下げた。
「社長。本日のスケジュールは?」
私は窓の外、整然と動き始めた王都の物流網を眺める。
「そうね。まずは道路法を改正するわ。一方通行規制を導入しないと、渋滞が発生して効率が落ちるもの」
愛も魔法もいらない。
必要なのは、最適化されたシステムだけ。
こうして私は、国一つを子会社化し、世界最強の物流帝国を築き上げた。
ただ、一つだけ誤算があるとしたら。
あまりに便利になりすぎて、隣国の皇帝や魔王までもが、「ぜひ我が国も買収(グループいり)してほしい」と日参してくるようになったことだろうか。
やれやれ。
私の残業(オーバータイム)は、まだまだ減りそうにない。