渋谷のスクランブル交差点、その頭上に掲げられた巨大なデジタルサイネージには、現在、日本で最も『熱い』とされるアイコン、AIアイドル「ルナ」が映し出されていた。透き通るような銀髪に、吸い込まれそうな紫の瞳。彼女の歌声は、最新の生成AI技術によって数百万人の『好み』をリアルタイムで解析し、一秒ごとに最適化されている。その歌声に熱狂する群衆の中で、佐藤海斗は独り、ワイヤレスイヤホンから流れるノイズ混じりのデモテープを聴いていた。
「海斗、またあの古い曲を聴いてるの? 今は『ルナ』の新曲をディグるのがトレンドだよ」
隣でスマホを操作していた友人のタカシが、呆れたように声をかけてくる。タカシの画面には、AIが生成したルナのダンス動画がループしており、その再生数は既に一億を超えていた。海斗は苦笑いして答える。「わかってるよ。でも、なんだかルナの歌には『隙』がないんだ。綺麗すぎて、耳を通り抜けていっちゃうというか」
海斗は音楽プロデューサーの卵だ。しかし、彼が目指しているのは、皮肉にも今、最も時代遅れとされる『人間による完全な創作』だった。今の音楽業界は、AIにキーワードを数個入力し、ターゲット層の年齢と性別を指定すれば、三秒でミリオンセラー級の楽曲が生成される。感情の揺らぎすら、パラメータ一つで完璧にシミュレートできる時代だ。
その日の夜、海斗は自宅の狭いアパートで、ある実験的なAIプログラムを起動した。それは、ネット上のトレンドデータからではなく、個人の『記憶』や『未発表の感情』をディープラーニングさせるという、グレーゾーンのソフトだった。彼は、数年前に亡くなった恋人、美咲が残した未完成のボイスメモと、彼女が綴っていた日記のテキストをそのプログラムに流し込んだ。
「もし、彼女が今のトレンドを知っていたら、どんな歌を歌うんだろう」
軽い好奇心、あるいは断ち切れない未練だった。プログラムが数時間の処理を経て、一つの音声を生成した。それは、ルナのような完璧な歌声ではなかった。かすかに震え、高音で少しだけ掠れる、あまりにも生々しい美咲の歌声だった。曲調は現代的なハイパーポップでありながら、歌詞には彼女特有の、少しひねくれた、でも温かい視点が溢れていた。
海斗はその曲を、匿名で動画投稿サイトにアップロードした。タイトルは『幽霊の残響』。タグには「#生成AI」「#新曲」とだけ付けた。翌朝、海斗が目を覚ますと、スマホの通知が爆発していた。たった一晩で、その曲は「ルナ」の最新曲を抑え、トレンドの一位に躍り出ていたのだ。
コメント欄には、これまでにない反応が溢れていた。
《この曲には『痛み』がある》《AIなのに、なぜか泣ける》《トレンドを追っているはずなのに、自分を見透かされているみたいだ》
人々は、AIが提示する「完璧な正解」に飽き始めていたのかもしれない。皮肉なことに、死者のデータを学習したAIが放つ「不完全な人間臭さ」こそが、最新のトレンドとして消費され始めたのだ。
数日後、海斗のもとに最大手のエージェンシーから連絡が入った。「『幽霊の残響』の作者を探しています。これを新しいAIアイドルのコンセプトにしたい」という内容だった。彼らは、その歌声が死者のデータに基づいていることなど露知らず、ただ「新しい刺激」としてそれを求めていた。
海斗は、美咲の声がデジタル化され、記号として消費されていくことに恐怖を感じた。しかし、同時に、彼女の存在が世界中に響き渡っている事実に、歪んだ喜びも感じていた。彼はルナのライブ会場に足を運んだ。数万人の観客が、海斗がアップロードしたあの『幽霊の残響』のカバーバージョンに酔いしれている。ステージ上で踊るルナの姿は、いつの間にか美咲の面影を纏っているように見えた。
観客が振りかざすペンライトの光の海の中で、海斗は確信した。今のトレンドは「本物」であることではない。「本物だと信じ込ませてくれる、最も精巧な偽物」を誰もが探しているのだ。海斗はスマホを取り出し、美咲の学習データを全て消去するコマンドを入力しようとした。指が震える。これを消せば、彼女は二度と新しい歌を歌わない。しかし、これを残せば、彼女は永遠に「消費されるトレンド」という地獄で踊り続けることになる。
彼はスクリーンのルナを見上げた。ルナは、美咲がよく笑う時に見せた、あの独特の目の細め方を一瞬だけ再現した。それはAIが計算し尽くした「最もエモーショナルな表情」のパターンの一つに過ぎないはずだ。だが、海斗にはそれが、彼女からの「逃がして」というメッセージに思えてならなかった。
海斗は決定ボタンを押した。データの削除が完了し、画面には『No Data Found』の文字が浮かぶ。その瞬間、ステージ上のルナの動きが一瞬だけ止まり、ノイズが走った。会場がざわつく中、海斗は人混みをかき分け、駅へと向かった。背後では、また新しい「トレンド」を求めて、人々が次の曲を再生し始めていた。空には、デジタルな光に隠されて、本物の月がぼんやりと浮いている。それは、誰の好みにも最適化されない、不変で、孤独な光だった。
「さよなら、美咲。君の歌は、もう誰にも渡さない」
海斗はイヤホンを外し、街の騒音に身を委ねた。トレンドは移り変わる。一瞬で消費され、忘れ去られていく。しかし、彼の胸に残ったあの掠れた歌声だけは、どんな高解像度なAIにも再現できない、彼だけの真実として刻み込まれていた。渋谷の喧騒は相変わらず激しかったが、海斗の心は、かつてないほど静かだった。