「愛はプライスレスですが、維持費(ランニングコスト)は有償です」

「愛はプライスレスですが、維持費(ランニングコスト)は有償です」

主な登場人物

シルヴィア・ロックハート
シルヴィア・ロックハート
19歳 / 女性
色素の薄い銀髪をきっちりとシクリョン(お団子)にまとめ、銀縁の眼鏡をかけている。服装は装飾の少ない濃紺のドレス。指にはインクの染みがついている。
ジェラール王子
ジェラール王子
20歳 / 男性
輝く金髪と碧眼、常に煌びやかな装飾過多の正装。無駄に白い歯。
クラウス
クラウス
24歳 / 男性
乱れた黒髪、気だるげな三白眼。襟の崩れたシャツに革のベスト。常にコインをもてあそんでいる。
10 5124 文字 読了目安: 約10分
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第1章: 突きつけられる未払い請求書

シャンデリアの狂乱。その暴力的な煌めきが、シルヴィア・ロックハートの冷え切った銀縁眼鏡を白く染める。

彼女はホールの中央、氷柱の如き直立不動。

色素の薄い銀髪は、一筋の後れ毛すら許さぬ厳格なシクリョン。周囲の令嬢たちが競うパステルカラーの絹とは対極にある、装飾を削ぎ落とした濃紺のドレス。唯一の「飾り」といえば、中指のペンだこに滲みついた、決して落ちぬインクの染みだけ。

「聞こえなかったのか、シルヴィア! 貴様のような、金の音しか聞こえぬ守銭奴に、この国の母となる資格はないと言ったのだ!」

壇上からの怒声。

声の主は、王国の第一王子ジェラール。磨き抜かれた白磁の歯を見せつけ、過剰な刺繍で膨れ上がった純白の正装を揺らす。

その腕には、ピンク色の髪を揺らす聖女がしなだれかかっていた。自らの演説に陶酔し、潤む碧眼。

「愛は金では買えない! 民の笑顔こそが宝だ! 余は、真実の愛をマリアに見出した。よって貴様との婚約を破棄し、国外追放を命じる!」

ざわめきの波紋。嘲笑、憐憫、好奇。

だが、シルヴィアの表情筋は死んだように動かない。懐へ滑り込む手。取り出されたのはハンカチではない。ずしりと重い、羊皮紙の束。

手首のスナップ一閃。

束は生き物のように床を転がり、王子の足元まで伸びる。赤絨毯の上に描かれた、白く長い道。

「……な、なんだこれは」

「精算書です」

真冬の湖面を叩く氷の音。

彼女は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、淡々と告げた。

「愛を語るのは結構。ですが、愛は無償でも、それを維持する生活費(ランニングコスト)は有償です。民事法第4条に基づき、殿下が聖女様に貢いだ宝石、無許可の遠征費、私的な夜会費用、及び一方的な契約破棄に伴う慰謝料の『即時一括返済』を求めます」

「は……? い、いくらだと言うのだ、そんな端金!」

「現在価値に換算し、金貨にして約4億8千万枚。国家予算の3年分に相当します」

凍りつく会場。止まる扇、不協和音を立てて沈黙する楽団。

シルヴィアは足元の羊皮紙を冷徹に見下ろす。日付、場所、品目、金額。そこにあるのは、悪魔的なまでの正確さ。

「殿下。貴方は『金で愛は買えない』と仰いましたね。ええ、正しい。貸借対照表(バランスシート)に『愛』という勘定科目は存在しません。しかし、貴方がその『愛』を演出するために費やしたのは、全て国民の税金と、我がロックハート家が立て替えた資金です」

「黙れ! 余は王子だぞ! 王家の権威があれば、そのようなものは――」

「権威でパンは焼けません。権威で傭兵は動きません」

踏み出す一歩。銃声のように響く靴音。

「私はこの国の『王室会計監査官』。全ての帳簿は私の脳内にあり、全ての資産運用は私の署名なくしては凍結される契約となっております。……さあ、愛を貫くのでしょう? でしたら、その美しい『正義』の代金を、今すぐここで支払ってください」

第2章: 歯車の停止

シルヴィアが去った翌日。王国の心臓停止。

魔法でも呪いでもない。「物流」という名の血管が詰まったのだ。

彼女の拠点は隣国の辺境。岩と砂、風ばかりが吹き荒れる不毛の地。

即席のテントの中、あの日と同じ濃紺のドレスの裾を砂埃で汚しながら、シルヴィアはひたすらにペンを走らせる。

「へえ、こりゃ傑作だ。王都じゃ今頃、小麦一袋が届かなくて大騒ぎだってよ」

跳ね上げられるテントの幕。

入ってきたのはクラウス。隣国の闇市場を牛耳る男。乱れた黒髪、気だるげな三白眼。襟の崩れたシャツから漂うのは、商談よりも喧嘩の匂い。彼は親指で金貨を弾き、空中で掴み取る。

「国境の関税手続き、為替の換算レート、輸送馬車の保険契約。全てがあんたの頭脳(システム)で回ってたんだな。あんたがいなくなった瞬間、誰も書類の書き方すらわからなくなった」

「当然です。彼らは『結果』しか見ていなかった。その裏にある膨大な『過程(プロセス)』を、無駄なコストだと切り捨てたのですから」

顔も上げずに答えるシルヴィア。

手元にあるのは都市計画図。王都からあぶれた難民、食い扶持を失った傭兵、居場所のない技術者。彼女にとって彼らは「負債」ではない。「人的資源」だ。

「複式簿記は嘘をつきません。誰が何を生産し、何が不足しているか。それを可視化し、信用という名の通貨を発行する。……クラウス、南の森から木材を。手形は3ヶ月後の決済で」

「3ヶ月後? あんた、この泥沼みたいな土地が、そんなに保つと思ってんのか?」

皮肉な笑み。だが、その目は笑っていない。クラウスが抱くのは、シルヴィアの計算速度への恐怖と畏敬。

「保たせます。いえ、繁栄させます。税制優遇措置とゾーニング規制の撤廃。ここは自由貿易特区になります」

数週間。荒野に生まれた整然たる街区。

対する王都。煌びやかだったジェラール王子の歯は、不安で曇り始めていた。

パンがない。肉が届かない。ドレスの仕立て屋は、針を持つことすらできずにいた。

「王族の権威」という名の通貨など、シルヴィアが構築した「信用取引」という実体経済の前では、ただの紙屑。

王都の貴族たちがカビの生えたパンを奪い合う様。シルヴィアの街で労働者たちが湯気の立つシチューを囲む光景。

残酷なまでの対比。

数字という無機質な神。その微笑みがどちらに向けられたかは、明白だった。

第3章: 感情という名の変数

「燃やせ! 魔女の帳簿を燃やせ!!」

肌を焼く熱気。鼓膜を突き破る怒号。

シルヴィアが築き上げた経済特区の夜空を染める、紅蓮の炎。

暴徒と化したのは、王国の騎士団ではない。彼女が救い、家を与え、職を与えたはずの難民たちだった。

王都からのプロパガンダ。「国庫を持ち逃げした魔女シルヴィアが、我々の富を独占している」。そして、裏で配られた僅かな金貨。

目先の飢えと、扇動された「正義」。焼き切れる理性。

「どうして……計算が、合わない」

立ち尽くすシルヴィア。

炎に包まれる孤児院。あそこには備蓄食料、街の未来を記した全ての帳簿。そして何より、彼女が密かに文字を教えていた子供たち。

「嬢ちゃん! 下がれ! こいつらイカれてやがる!」

血相を変えて駆け寄るクラウス。引かれる腕。

だが、足は動かない。銀縁眼鏡の奥、炎の揺らめきに合わせて収縮する瞳孔。

「金貨3枚……」

震える唇。

「たった金貨3枚で、あなたたちは、明日食べるはずだったパンを焼く釜を壊すのですか? その家を、その服を、誰が用意したと思っているのですか!?」

叫びは暴徒の喚声にかき消される。

崩れ落ちる梁。舞い上がる火の粉。その中から飛び出す小さな影。いつもシルヴィアの指のインクを不思議そうに眺めていた、孤児の少年。胸に抱かれているのは、燃え盛る帳簿の一冊。

「しるびあさまの、だいじな……!」

「ダメ!!」

轟音。

小さな体を押し潰す瓦礫。

時が止まる。

喉の奥の痙攣。呼吸困難。

肺が焼けつくような熱さ。対照的に、死体のように冷たい指先。

膝から崩れ落ちるシルヴィア。泥と煤にまみれた地面に食い込む爪。

「あ、ああ……あぁぁぁぁぁぁッ!!」

言葉にならぬ咆哮。

計算式にはない音。論理も、合理性も、簿記のルールも通用しない。

損得勘定だけで動かぬ人間。愚かさ、嫉妬、扇動されやすさ。

そんな不確定変数(エラー)による、完璧な世界の破壊。物理的かつ不可逆的な。

「嘘だと言ってくれ……こんな……こんな馬鹿げた計算間違いが……あってたまるかぁぁぁ!!」

地面を殴りつける拳。

裂ける皮膚。滲む血。インクの染みとの混濁。

炎の赤が、彼女の理性のレンズを溶かしていった。

第4章: 冷徹なる制裁

枯れ果てた涙腺。

あるいは、損金として処理されたのか。

執務室のシルヴィア。新しい眼鏡は以前のものよりもさらに冷たく、光を拒絶する。

周囲に温かいスープの匂いはない。子供たちの声もない。あるのは山積みの報告書、そして隣国の軍部との密約書。

「クラウス。南方の穀物ルート、完全に遮断しましたね?」

「ああ。蟻一匹通さねえよ。……だが嬢ちゃん、そこまでやるのか? 王都じゃ餓死者が出始めてる」

軽口の消えたクラウス。彼が抱くのは恐怖。

目の前の女は、かつての「合理的」なシルヴィアではない。もっと別の、恐ろしい何か。

「感情論は減価償却できませんので」

顔も上げずに走るペン。

その文字に残る慈悲など、一片もない。

彼女の選択は武力報復ではない。

『完全なる経済封鎖』と『為替操作』による、王国の通貨崩壊(ハイパーインフレ)誘導。

市場への偽造通貨流通による信用の希釈。同時に、生活必需品供給の極限までの絞り込み。

王国の経済、壊死。

パン一つ、金貨100枚への暴騰。

かつてジェラール王子が誇った軍資金は、紙切れ同然。

「王子は『愛』があれば生きていけるのでしょう? ならば、金を食べる必要はありませんね」

地図上の王都につけられる、赤い×印。

ライフラインの「削除」。

城内で剥がされる装飾品。食料との交換。

煤けた服を着て、空っぽの皿を前に震えるジェラール王子。

愛する聖女マリアも、飢えの前では愛を囁く余裕などない。互いに罵り合い、責任をなすりつけ合う姿が、スパイからの報告書に淡々と記されている。

「苦しいですか? 痛いですか?」

虚空への問いかけ。

深海の底のように暗い瞳。

「それが、あなたたちが軽視した『数字』の重さです。あなたたちが踏みにじった、あの子の命の代価です。……利息をつけて、骨の髄まで支払っていただきます」

第5章: 買収された玉座

開門。

攻城兵器ではない。飢えと絶望によって、内側から開かれたのだ。

馬車から降り立つシルヴィア。

かつて追放された日と同じ、濃紺のドレス。だが纏う空気は別物。

道端にひれ伏す痩せこけた民衆。彼らの目にあるのは感謝ではない。絶対的な「恐怖」。食料という生殺与奪の権を握る者への、生物としての服従。

玉座の間。

そこには、かつての栄光の欠片もない。

手入れのされていない石床、埃を被ったタペストリー。

床に這いつくばるジェラール王子と聖女マリア。

「シ、シルヴィア……! 頼む、パンを……民に、食料を……!」

こけた頬。脂と泥で固まった金髪。

聖女マリアも、かつての愛らしさは見る影もなく、ただ怯えた目でシルヴィアを見上げる。

「援助を求めると? その対価は?」

見下ろす視線。侮蔑すらない、ただの事務処理。

「な、何でもする! 王位も、爵位も、すべて君に譲る! だから……!」

「結構です。王位などという、負債まみれの名誉職(タイトル)には興味がありません」

放り投げられる羊皮紙。

国家の全権限を彼女の管理下に置く『管財人契約書』。

王族は象徴として生かされる。だが政治・経済・軍事の決定権は全てシルヴィアが握る。国は破産し、彼女がその管財人となるのだ。

「サインを。これでこの国は、私の管理下にある『更生会社』となります」

震える手でジェラールが取る羽ペン。

滲むインク。契約成立。

シルヴィアは背を向けた。勝ったのだ。論理が、感情をねじ伏せたのだ。

数日後。

王国には再び食料が溢れ、物流が戻る。

だが、かつてのような賑やかな笑い声はない。人々は、正確すぎる配給と、監視された労働の中で、息を潜めて生きている。

街外れの墓地。

小さな、真新しい墓石の前に立つシルヴィア。

「……計算完了」

墓石に触れる。冷たい石の感触。

「王族排除、国家再建、経済安定化。私の帳簿に、もはや1ペニーの狂いもありません」

吹き抜ける風。揺れる銀髪。

その完璧な世界の中心で、彼女はとてつもなく孤独だった。

クラウスでさえ、今の彼女を恐れて距離を置いている。

「なのに……どうして」

眼鏡の奥から零れ落ちる、温かい雫。

頬を伝い、インクの染みた指先に落ちる。

論理で武装し、感情を殺し、全てを数字に換算して手に入れた平和。

だが、その貸借対照表のどこを探しても、「幸福」という項目は見つからなかった。

「正しい計算が、幸せな答えを導くわけではないのですね」

彼女は泣いた。

声を殺し、肩を震わせて。

その涙だけが、この冷徹な世界に残された、唯一の計算外の真実だった。

クライマックスの情景

AI物語分析

【物語の考察:論理と感情の対立】

本作は「魔法」というファンタジーの定石を「経済」というリアリズムで打破する構造を持つ。しかし、真のテーマは「論理的整合性(正しさ)」と「人間的幸福(感情)」の乖離にある。シルヴィアの計算は常に正しいが、正しさだけでは人の愚かさや暴走(第3章の悲劇)を防げない。最終的に彼女が手に入れたのは、欠損のない完璧な帳簿(国家)と、永遠に埋まらない心の赤字だった。

【メタファーの解説】

インクの染み:シルヴィアの指にある落ちない汚れは、彼女の勤勉さの象徴であると同時に、「清算できない業(カルマ)」や「人間的な生々しさ」を表す。どれだけ冷徹に振る舞おうとも、彼女が人間であることを証明する刻印。
銀縁眼鏡:世界を定量的に捉えるためのフィルター。ラストシーンで涙が眼鏡の奥から溢れる描写は、論理のレンズが決壊し、抑圧された感情が露呈した瞬間を意味する。

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