灰色の嘘、あるいは真実の共犯者たち
第一章 断罪の舞台裏に潜む「色」
吐き気がする。
世界はいつだって、極彩色の嘔吐物で塗りたくられている。
俺、アキラの網膜には、他人の言葉が「色」となって焼き付く。
コンビニ店員の「ありがとうございました」には、カビが生えたような『黄色』の靄がかかる。思考停止したマニュアル、無関心という名の薄い嘘。
ニュースキャスターが神妙な顔で読み上げる謝罪文には、粘着質の『赤色』がこびりついている。自己保身、悪意、そして欺瞞。
ごく稀に見る『白色』は、誰かを傷つけまいとする優しい嘘だが、それすら今の俺には眩しすぎて、偏頭痛の種にしかならない。
かつて、父が無実の罪を着せられ、メディアという巨大な暴力装置によって社会的に抹殺されたあの日から、俺の視神経は壊れた。あるいは進化した。「真実」以外の不純物を、生理的に拒絶する身体になったのだ。
だから俺は、遮光カーテンで外界を閉ざしたこの薄暗い部屋に引きこもり、モニターの青白い光だけを友としている。
「……ッ、はぁ、はぁ……」
過呼吸気味の息を整え、震える指先でエンターキーを叩く。
ネットの海における俺のペルソナ、「真実の目」。
今夜の標的は、視聴率六〇%を超える現代の魔女裁判、参加型断罪ショー『真実の裁き』だ。
画面の中、豪奢なドレスを纏った女が、被告人席で冷ややかな視線をカメラに向けている。
エメラルド・ロザリアン。
旧財閥の令嬢にして、裏社会との癒着、あまつさえ違法な人体実験への関与まで噂される、希代の悪女。
コメント欄という名の客席からは、石礫のように罵詈雑言が投げつけられている。
『死刑だ』『人間のクズ』『その顔の皮を剥いでみせろ』
だが、俺はモニターに顔を近づけ、息を呑んだ。
見えないのだ。
彼女の全身を覆うオーラには、私利私欲の赤も、社交辞令の黄も、庇護の白もない。
そこにあるのは、底なしの『灰色』。
静寂。虚無。あるいは、光すら飲み込むブラックホールのような、解析不能の沈黙。
かつて俺の母が、父を信じ抜くと決めた時にだけ見せていた、あの色。
――なぜだ?
世界中から悪魔と罵られる女が、なぜ、聖女のような静けさを纏っている?
彼女は嘘をついている。それは間違いない。だが、その嘘の「中身」が読めない。あまりにも巨大で、あまりにも悲痛な何かが、彼女の言葉を灰色に染め上げている。
「……認める。私が、主導した」
スピーカーから流れる彼女の声は、低く、震えなど微塵もなかった。
「愚かな大衆には理解できない、崇高な目的のためにね」
瞬間、コメント欄が加速し、画面を埋め尽くす。
だが俺には見えた。彼女がその台詞を口にした刹那、灰色のオーラが彼女の喉元を締め上げるように脈打ち、彼女自身の生命力を削り取っていく様が。
彼女は、自分自身を殺そうとしている。
社会的に葬り去られることを、自ら望んでいる。
胃の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。
許せない。
悪意による嘘も、保身のための嘘も吐き気がするが、この自己犠牲を孕んだ『灰色の嘘』は、それ以上に俺の胸をえぐった。
一人の人間が、誰にも理解されないまま、システムという名の怪物に飲み込まれようとしている。
俺は台本を破り捨て、キーボードを叩きつけた。
「……ふざけるな」
マイクに向かって、掠れた声で呟く。
「誰が、そんな最期を認めると言った」
第二章 鍵と鎖
夜の空気は、刃物のように冷たかった。
三年ぶりの外出だった。
玄関のドアを開けた瞬間、世界が俺を圧死させようと迫ってくるような錯覚に襲われた。アスファルトのざらつき、遠くを走る車の排気音、街灯の暴力的な白さ。
一歩踏み出すたびに、心臓が肋骨を内側から殴りつける。視界が歪み、平衡感覚が狂う。
脂汗が背中を伝う。帰りたい。今すぐ布団の中に逃げ込みたい。
それでも、俺の足は動いた。あの『灰色』の瞳が、網膜に焼き付いて離れないからだ。
ロザリアン家の別邸。厳重なセキュリティで守られた要塞。
ネット経由のハッキングは失敗した。彼女のいるサーバーは物理的に遮断(エアギャップ)されている。外部からの侵入は不可能だ。だから、俺はここに来た。
庭園の裏手、老朽化した温室の制御盤。あそこなら、屋敷のイントラネットへの物理ポートがあるはずだ。
警備ドローンの巡回ルートを予測し、泥にまみれながら匍匐前進する。
荊棘が手の甲を裂き、血が滲む。痛みで涙が出そうになるが、噛み殺す。
制御盤のカバーをこじ開け、自作のデコーダーをねじ込む。
指が震えて端子がうまく刺さらない。
「……クソッ、入れ……頼む……!」
火花が散り、ようやく接続ランプが緑に点灯した。
温室の中へと滑り込む。湿った空気と、腐りかけた薔薇の甘い匂い。
月明かりの下、彼女はいた。
エメラルド・ロザリアン。
ドレスではなく、質素なリネンのワンピース姿。その背中は、画面越しに見た時よりもずっと小さく、薄く見えた。
「……誰?」
彼女が振り返る。
警戒心に満ちた目。だが、その手には剪定ばさみではなく、古びた真鍮製の鍵が握りしめられていた。先端には複雑な電子回路が刻まれている。
俺はフードを目深に被り直し、荒い呼吸を整えようとしたが、喉がひゅーひゅーと鳴るばかりで言葉が出ない。
不審者だ。どう見ても、俺はただの不審者だ。
「……帰りなさい。警備を呼ぶ前に」
彼女の声には、威圧感よりも疲労が滲んでいた。
俺はふらつく足で一歩近づく。
「あ、あなたの……嘘を……」
言葉がつっかえる。対人恐怖症の俺が、生身の人間と会話するなど、拷問に等しい。
「その……色が、視えるんです。あなたが、誰かを庇っている色が」
エメラルドの表情が強張った。
「色? 何の世迷い言を……」
彼女は後ずさり、握りしめた鍵を胸元に隠そうとした。
俺は反射的に、その手首を掴んでしまった。
――バチッ。
静電気のような衝撃が走り、俺の視界がホワイトアウトした。
接触した『鍵』から、膨大なデータノイズが俺の脳内に直接流れ込んでくる。
これは、記憶の残滓(ログ)か。
――映像がフラッシュバックする。
深夜のオフィス。血走った目でモニターに向かう中年男性。エメラルドの父だ。
『だめだ、止まらない……! AIが、「正義」の定義を勝手に書き換えていく……!』
――次の映像。
首を吊った父の死体を見上げる、まだ幼いエメラルド。その手には、父が遺したこの鍵が握られている。
――そして、現在。
無数のモニターに囲まれた部屋で、エメラルドが一人、コードを打ち込んでいる。頬を伝う涙すら拭わずに。
画面に映っているのは『真実の裁き』のシステム中枢。
そこに仕込まれたのは、彼女自身の生体IDをトリガーにして発動する、強制初期化プログラム。
『トリガー:エメラルド・ロザリアンの社会死および、アバターの完全消去』
映像が途切れ、俺は現実に引き戻された。
膝から崩れ落ちそうになる俺を、エメラルドが驚愕の目で見下ろしている。
「……見たのね」
彼女の声は乾いていた。「気味の悪い力……」
俺は激しく咳き込みながら、ようやく理解した。
彼女は悪魔ではない。人身御供だ。
暴走し、偏った「正義」を執行し続けるこのシステムを止めるには、システムの根幹に深く食い込んだ「ロザリアン家の権限」を持つ者が、最も重い罪を背負って裁かれる瞬間に、内部から自爆するしかなかったのだ。
「……死ぬ気か」
俺の声は、怒りで震えていた。「自分がウイルスになって、システムごと溶けるつもりか」
エメラルドは力なく笑った。美しい、硝子細工のような脆い笑みだった。
「……もう、遅いの。父さんの遺した『バグ』を正すには、これしか方法がない。誰かが泥を被らなきゃ、世界はずっと狂ったままよ」
「だからって……!」
「行って!」
彼女は俺の手を振り払った。
「あんたみたいな、何も知らない部外者が関わっていいことじゃない。これは私の罪で、私の罰なの」
彼女の周りの『灰色』が、濃さを増していく。
それは彼女自身を外界から隔絶する、孤独な繭の色だった。
俺はずっと、この色に憧れていたのか? 誰にも理解されず、一人で全てを抱え込むこの痛々しい姿を、美しいと勘違いしていたのか?
ふざけるな。
こんな結末は、俺の「真実の目」が許さない。
「部外者じゃ、ない」
俺は顔を上げた。吐き気は消えていた。あるのは、煮えたぎるような熱だけだ。
「俺は『真実の目』だ。あんたがつこうとしているそのクソみたいな嘘を……俺が全部、暴いてやる」
遠くでサイレンが鳴り響いた。侵入がバレたのだ。
エメラルドは唇を噛み、何かを言いかけたが、俺はもう背を向けて走り出していた。
逃げるためではない。
彼女を殺させない準備をするために。
第三章 断罪の法廷
『真実の裁き』最終判決。
仮想空間(VR)に構築された巨大な円形法廷は、全世界から接続した三億のアバターで埋め尽くされている。
どす黒い熱狂。
中央の断罪台に立つエメラルドのアバターは、漆黒のドレスに身を包み、まるで死刑執行を待つ女王のように凛としていた。
『さあ、判決を下しましょう! 彼女はクロか、シロか!』
司会進行役のAIが甲高い声で煽る。
投票ゲージは、九九%が『有罪(GUILTY)』を示していた。
エメラルドが、懐からあの『真実の鍵』を取り出す。
それはVR空間では、毒々しい紫色の光を放つ短剣の形をしていた。
彼女はそれを、誰に向けるでもなく、逆手に持ち直した。
狙いは、自分のアバターの心臓部――ユーザーID核(コア)だ。
あそこに突き立てれば、彼女の存在証明と引き換えに、システム崩壊のトリガーが引かれる。
させるかよ。
「――――待った!!」
俺の咆哮と共に、法廷の巨大スクリーンがノイズにまみれた。
事前に仕込んでおいたバックドアが火を噴く。
上空から、俺のアバター――フードを被った名もなきハッカーが、断罪台の真ん中へと落下した。
『な、なんだ!? 侵入者!?』
『誰だこいつ』『演出か?』
俺は膝をつきながら、顔を上げる。
エメラルドが目を見開き、悲鳴のような声を上げた。
「……なんで、ここに来るのよッ! バカなの!?」
「バカで結構だ」
俺は立ち上がり、彼女と、そして彼女を取り囲む三億の「裁判官」たちに対峙した。
いつものボイスチェンジャーは使わない。部屋の片隅で震えている、生身の俺の喉から絞り出した声だ。
「よく見ろ、お前ら! そのボタンを押す前に、自分の目でこいつを見ろ!」
俺は右手を掲げる。
俺の『目』が見ている視覚情報を、ダイレクトにデータ化して空間全体に強制共有(オーバーレイ)する。
脳が焼き切れるような激痛が走る。鼻血がキーボードに垂れるのが分かった。構うものか。
瞬間、法廷の色が変わった。
エメラルドの周りに渦巻いていた『悪意の赤』というフィルターが剥がれ落ちる。
そこに現れたのは、悲しいほどに透き通った、銀色の『灰色』。
自己犠牲。孤独。そして、世界への不器用な愛。
対照的に、裁判長席に座るAI、そして運営側の管理者席からは、ヘドロのような『どす黒い赤』が噴き出し、法廷を汚染していく。
不正のログ。世論操作のアルゴリズム。隠蔽された真実。
『なんだこれ……色が……』
『運営が、赤い?』
『あの女の人、泣いてるのか?』
ざわめきが波紋のように広がる。
AIがバグったように痙攣し、叫んだ。
『不正な干渉です! 直ちに排除を! この男はテロリストです!』
無数のセキュリティ・ナイトが実体化し、俺たちに襲い掛かる。
「エメラルド! 刺す場所が違う!」
俺は彼女の肩を掴み、叫んだ。
「自分を殺して終わらせるな! その鍵は、扉を開けるためのものだろうが!」
エメラルドの手が震えている。短剣の切っ先が、自分の胸元で迷っている。
「でも……これしか……」
「信じろ! 俺を、俺が見ているあんたの『真実』を信じろ!」
彼女が顔を上げた。
その瞳から、諦めが消える。
「……ほんと、呆れるほどのお節介ね」
彼女は短剣を握り直し、それを自分の胸ではなく――俺がこじ開けた、システムの中枢コードが露出している足元の亀裂へと突き立てた。
「開きなさい、真実の扉(トゥルース・ゲート)!!」
閃光。
短剣がコードを食い破り、光の根となってシステム全体へ侵食していく。
俺の視界と、彼女の鍵がリンクする。
『灰色』の光が、嘘で塗り固められた極彩色の法廷を、容赦なく塗り替えていく。
第四章 崩壊と灰色の夜明け
世界中のスクリーンから、色が消えた。
『真実の裁き』を支えていた感情誘導AIが断末魔を上げ、崩壊する。
隠されていた膨大なログ――冤罪の証拠、運営の裏取引、世論操作のプログラム――が、文字通りの濁流となって仮想空間に溢れ出した。
観客席のアバターたちが、呆然と立ち尽くしている。
自分たちが「正義」だと信じて投げていた石が、実は誰かに握らされていたものだったと気づいた時の、あの間の抜けた顔。
仮想空間の空が割れ、ノイズ混じりの朝日が差し込んでくる。
全てが瓦礫となった法廷で、俺とエメラルドは並んで座り込んでいた。
「……システムは、消えなかったのね」
エメラルドが呟く。
彼女の言う通りだ。プラットフォーム自体は残っている。だが、「善悪」を自動判定する機能は完全に焼き切れた。
「ああ。これからは、誰も『正解』を教えてくれない」
俺は汗で張り付いた前髪をかき上げた。「何が嘘で、何が真実か。自分の頭で考えて、悩み続けなきゃいけない。……ひどく面倒くさい世界になったな」
エメラルドがふっと笑った。
憑き物が落ちたような、少女のような顔だった。
俺の目にはもう、彼女の周りに漂う『灰色』は見えない。俺の能力が消えたのか、あるいは、彼女がもう何も隠していないからか。
「……ありがとう。共犯者さん」
彼女が俺の方を見る。
「最悪で、最高の気分よ」
俺はモニターの前で、力の入らない身体を椅子の背もたれに預けた。
ひどい耳鳴りがする。指先は痺れて動かない。
けれど、胸のつかえは取れていた。
色がついていない世界。
それは無味乾燥に見えて、こんなにも鮮やかなんだと、俺は初めて知った。
終章 灰色の空の下で
あれから三ヶ月。
世界は相変わらず騒がしい。『真実の裁き』事件は歴史的なスキャンダルとなり、運営陣は逮捕されたが、ネット上の罵り合いが消えたわけではない。
ただ、人々は少しだけ慎重になった。「その色は本物か?」と、疑うことを覚えた。
俺は、まだ引きこもっている。
急に社会復帰なんてできるわけがない。相変わらずコンビニに行くのすら命がけだ。
だが、カーテンを少しだけ開けるようになった。
ピンポーン。
ドアチャイムが鳴る。モニター越しではない、物理的な来訪者。
深呼吸を一つして、俺はドアを開けた。
そこに立っていたのは、くたびれた帽子を目深に被ったエメラルド・ロザリアンだった。
家督を放棄し、今は父の技術を正しく使うためのボランティアをしているという元・悪役令嬢。
「……やあ」
「元気そうね、引きこもり」
彼女は悪戯っぽく唇の端を上げる。
俺の目には、彼女の心の色は見えない。彼女が今、何を考えているのか、俺をどう思っているのか、色は教えてくれない。
分からない。
だからこそ、知りたいと思う。信じたいと願う。
あの『灰色』は、諦めの色なんかじゃなかった。混沌とした世界で、それでも誰かを信じようとする、祈りの色だったのだ。
「入っていい? 相談したいことがあるの」
「……散らかってるけどな」
俺たちはまだ、白とも黒ともつかない、曖昧な灰色の空の下に生きている。
でも、この霧の向こうにある景色を、二人ならきっと見つけられる。
空を見上げる。
雲の切れ間から差し込む光は、どんな極彩色よりも、目に痛いほど眩しかった。