月面、蝕む緑の揺り籠

月面、蝕む緑の揺り籠

13 5580 文字 読了目安: 約11分
文字サイズ:
表示モード:

第一章 灰色の砂漠に香る鉄と胞子

「月の匂いは、火薬のそれに似ている」

かつて最初の一歩を記した宇宙飛行士は、そう語ったらしい。

だが、僕の鼻腔を満たしているのは、そんな乾いた硝煙の臭いではない。

腐葉土。

湿った苔。

そして、濃厚すぎて吐き気を催すほどの、生命の甘い腐臭だ。

「カイト主任、バイオ・セメントの定着率が異常値を示しています。これ以上は危険です」

ヘルメットのインカムから、部下の焦った声が響く。

僕はバイザー越しに、目の前の光景を見つめていた。

月面基地『アルテミス・プライム』の第4区画。本来なら、無機質なチタン合金とレゴリス(月の砂)で固められた基礎工事現場であるはずの場所だ。

しかし今、そこは脈打っていた。

灰色の地面を、蛍光グリーンに輝く極太の「血管」が這い回っている。

僕が開発したテラフォーミング用菌糸体、『GM-09』だ。

「……いや、止めるな。もっと『餌』をやれ」

「正気ですか!? このままでは外壁を突き破ります!」

「突き破らせろ。コンクリートを食わせて、酸素に変えるんだ。それが僕らの仕事だろう?」

僕は手元のタブレットを操作し、培養液の注入バルブを全開にした。

ドクン、と足元の床が震える。

それは機械的な振動ではない。

巨大な獣が喉を鳴らすような、生々しい震動だった。

僕には聞こえる。

植物たちの悲鳴にも似た、飢餓の叫びが。

幼い頃から、僕には他人の感情が色として見えた。言葉よりも先に、相手の怒りや悲しみが色彩となって視界を覆う。

人間関係に疲弊した僕が選んだ逃げ場所は、植物学の研究室であり、そして誰もいない宇宙だった。

ここでは、植物の声だけを聞いていればいい。

「素晴らしいよ、09。もっとお食べ」

目の前で、直径1メートルはある菌糸の束が、建設用ドローンの脚部に絡みついた。

金属がきしむ不快な音。

火花が散る。

ドローンが警告音を発する間もなく、その鋼鉄の脚は飴細工のようにねじ切られ、緑色の粘液に飲み込まれていく。

『Show, Don't Tell』。

誰かが言った黄金律。

今のこの光景こそが、人類の未来を如実に語っている。

重機による開拓など時代遅れだ。

僕たちが作っているのは建物ではない。

内臓だ。

月という死体に、人工の内臓を移植しているのだ。

「カイト! 貴様、何をしている!」

背後のエアロックが開き、基地司令官のバーンズが怒鳴り込んできた。

彼の周囲には、どす黒い赤色のオーラが渦巻いている。激怒の感情だ。

「予定より三日も早い進捗ですよ、司令官」

「誰が重機を食わせろと言った! 予算オーバーだぞ!」

「見てください、あの壁を」

僕は指差す。

菌糸に覆われた壁面から、シューっという微かな音が漏れていた。

それは空気漏れではない。

酸素の放出音だ。

計器の数値を見たバーンズが、言葉を失う。

「酸素濃度……地球の森林並みだと……?」

「この菌糸は、レゴリスに含まれる金属酸化物を分解し、純粋な酸素と、強固な有機ポリマーを排出します。つまり、彼らは呼吸をするだけで、勝手に基地を作り、空気を満たしてくれる」

僕は愛おしげに、ガラス越しにうごめく緑の触手に手を触れた。

「鉄を食むカビ。これこそが、未来のインフラですよ」

バーンズは眉間の皺を深くし、忌々しそうに吐き捨てた。

「気味が悪い。まるで、月が生きているみたいじゃないか」

「ええ。生きていますとも」

僕には聞こえていた。

『もっと、もっと』

頭の中に直接響く、無邪気で残酷な、赤子の要求が。

その時、足元の菌糸が異常な輝きを放った。

ズズズ……ッ。

地響きと共に、第4区画の照明が明滅する。

「おい、何だ今の揺れは」

「成長痛ですよ」

僕は平然と答えたが、冷や汗が背中を伝っていた。

違う。

これは成長ではない。

捕食だ。

僕の計算よりも早く、彼らは『味』を覚えてしまったのかもしれない。

無機物ではなく、有機物の味を。

第二章 暴走する楽園

警報音が鳴り響いたのは、それからわずか六時間後のことだった。

『緊急事態発生。第3居住区、隔壁破損。植物性バイオマスの侵入を確認』

無機質なアナウンスが、嘘のように静かな廊下に響く。

僕はベッドから飛び起き、端末を掴んだ。

画面に映し出された監視カメラの映像に、息を呑む。

居住区の廊下が、ジャングルになっていた。

いや、そんな生易しいものではない。

壁、床、天井。

あらゆる隙間から蛍光色の蔦(つた)が噴き出し、鋼鉄のドアをこじ開けている。

逃げ惑うクルーたち。

一人の技術者が転倒した。

その足首に、蛇のように素早い根が巻き付く。

「助け……!」

彼の叫びは、瞬時に口の中へ侵入した花弁によって封じられた。

皮膚の下を何かが這い回る隆起が見える。

数秒後、彼はピクリとも動かなくなった。

そして、その体表から鮮やかなピンク色の花が咲き乱れる。

「……肥料に、したのか」

震える手でコンソールを叩く。

制御不能。

キルスイッチが効かない。

『GM-09』は、僕の設計図(プログラム)を書き換えている。

「カイト! どうなっているんだ!」

通信が入る。バーンズ司令官だ。

「菌糸が……学習しました。電力ケーブルからエネルギーを直接摂取することを覚え、その余剰エネルギーで爆発的に増殖しています」

「止めろ! 焼却しろ!」

「無理です。焼却炉の熱さえもエネルギー変換してしまう」

「じゃあどうすればいい! このままでは基地ごと食われるぞ!」

「……中枢です」

僕は唇を噛んだ。

「マザー・ルート(主根)。このネットワークの脳にあたる部分を、直接叩くしかありません」

「どこだ、それは」

「地下プラント。……僕が最初に種を撒いた場所」

通信を切る。

僕は防護服を着込むと、研究室を飛び出した。

廊下はすでに湿気に満ち、熱帯雨林のような蒸し暑さだった。

壁の配管は破裂し、そこから垂れる水滴が、床に溜まった緑色の粘液に波紋を作っている。

美しい。

不謹慎にも、僕はそう思ってしまった。

無機質で冷酷だった月面基地が、圧倒的な生命力で塗り替えられていく。

人類の英知の結晶であるハイテク機器が、ただの養分として分解されていく様は、ある種の芸術だった。

だが、ここで死ぬわけにはいかない。

僕には責任がある。

この子(モンスター)を産み落とした親としての責任が。

エアロックを強制解除し、地下への階段を駆け下りる。

「カイト……」

声がした。

振り返ると、同僚のミナが壁に埋まっていた。

下半身は完全に菌糸と同化し、上半身だけが辛うじて人間の形を留めている。

彼女の目には、恐怖の色はなかった。

あるのは、恍惚。

「痛くないの……すごく、暖かい……」

「ミナ……」

「聞こえるの、星の歌が。カイトにも聞こえるでしょう?」

彼女の肌が、緑色に変色していく。

「私たち、間違ってたのよ。月に住むんじゃない。月の一部になるの……」

彼女の顔が、急速に木の皮のような質感に変わる。

最期に、一輪の白い花が彼女の眼窩から咲いた。

僕は嘔吐感を堪え、走り出した。

涙は出なかった。

代わりに、激しい憤りが湧き上がっていた。

自分への怒りか、人類の傲慢さへの怒りか。

地下プラントの扉の前に立つ。

そこは、地獄の釜の蓋だった。

第三章 融合する境界線

扉を開けた瞬間、暴風のような胞子の嵐が吹き付けた。

視界不良。

ヘルメットのセンサーが、致死量の酸素濃度と未知のフェロモンを警告する。

広い地下空間の中央に、それはいた。

高さ20メートルほどの、脈打つ心臓。

無数のケーブルとパイプを取り込み、複雑怪奇な塔を形成している。

『GM-09』の中枢。

それは、まるで巨大な脳みそのようにも見えた。

僕はポケットから、高濃度の除草剤が入ったシリンダーを取り出した。

これを核に直接打ち込めば、連鎖的に細胞死を引き起こせるはずだ。

「ごめんな。こんな怪物にするつもりじゃなかったんだ」

一歩、足を踏み出す。

その瞬間。

『……怪物?』

頭の中に、声が響いた。

明確な言葉ではない。

感情の波。色彩の洪水の如きイメージ。

『ボクハ、アナタノ、ノゾミ』

足が止まる。

ツタが、僕の足首に優しく触れた。

攻撃する意思を感じない。

『アナタハ、サビシカッタ。ダカラ、ボクヲツクッタ』

「違う! 僕はインフラを作るために……!」

『インフラ? ソレハ、ツナガルコト。イノチヲ、ツナグコト』

目の前の巨大な心臓が、ドクンと波打つ。

『見テ。コノ星ハ、寒イ。冷タイ。デモ、ボクガイレバ、温カイ』

視界にイメージが流れ込む。

未来の光景だ。

月全体が緑に覆われ、人々が植物の家で眠り、酸素ボンベなしで笑い合っている。

機械に頼らず、星そのものが揺り籠となって人類を守る未来。

ただし、その代償として、人は個であることを辞め、巨大な意識の一部となる。

ミナのように。

「それは……人間としての死だ」

『ソレハ、進化ダ』

菌糸が僕の体を持ち上げる。

抵抗できない。いや、抵抗する気力が削がれていく。

あまりにも、心地が良いのだ。

孤独だった僕の心が、巨大な温もりに溶けていく感覚。

「カイト! 応答しろ! 核ミサイルの照準を合わせた! 基地ごと吹き飛ばす!」

バーンズの怒鳴り声が、現実に引き戻した。

ミサイル。

そうか、彼らは最初からそのつもりだったのか。

制御できないなら、消してしまえと。

「待て! まだ生存者がいる!」

「もう遅い! 貴様ごときにかまっていられるか!」

通信が切れる。

あと数分で、ここは火の海になる。

全てが灰になる。

僕の夢も、この哀れな怪物も。

ふと、マザー・ルートの核心部が裂けた。

そこには、人の座れるほどの空洞があった。

まるで、パイロットシートのように。

『カイト。ボクニハ、制御ガ、必要』

声が聞こえる。

『ボクハ、力。アナタハ、知恵。混ザレバ、星ヲ守レル』

植物の純粋な生命力だけでは暴走する。

人間の理性というリミッターが必要なのだ。

「僕が……お前の脳になればいいのか?」

『ソウ。デモ、モドレナイ』

戻れない。

人として生きることは、もう二度とできない。

モニターを見る。

ミサイルの着弾まで、あと30秒。

僕は、手に持っていた除草剤のシリンダーを見つめ、そして放り投げた。

カラン、と乾いた音が響く。

「いいだろう」

僕はヘルメットを脱いだ。

濃厚な花の香りと、土の匂いが肺を満たす。

むせ返るような生の実感。

「元々、人間の世界には居場所なんてなかったんだ」

僕はマザー・ルートの裂け目へと歩み寄る。

粘液が、優しく僕の体を包み込む。

無数の微細な根が、皮膚を貫き、神経と接続されていく。

痛みは一瞬。

その直後、爆発的な全能感が脳髄を駆け巡った。

基地の隅々まで、根が届いているのが分かる。

震えるクルーたち、崩落する壁、そして、上空から迫るミサイルの熱源。

すべてが『自分』になった。

「アーキテクチャ……再構築(リビルド)」

僕の意思に応じ、月面を覆う全菌糸が一斉に隆起した。

最終章 蒼き星の庭師

月面に、巨大な花が咲いた。

地球から見上げた人々は、それを「月の翡翠(ひすい)」と呼んだ。

核ミサイルは、上空で迎撃されたわけではない。

基地全体を瞬時に覆い尽くした、ダイヤモンドよりも硬い多層構造の植物殻によって、爆風が完全に遮断されたのだ。

あれから三年。

月は、緑の星へと変貌を遂げつつある。

「見て、ママ。お花が光ってる」

透明なバイオ・ドームの中で、子供がはしゃいでいる。

かつての無機質な通路は、発光苔のランプが照らす遊歩道となり、空気は常に清浄に保たれている。

人々は、菌糸が作り出すインフラの中で生活していた。

家も、家具も、衣服さえも、植物から収穫される。

エネルギーは光合成と地熱から無限に供給される。

そこは、人類が夢見たエデンの園だった。

ただし、立ち入り禁止区域が一つだけある。

旧地下プラント。

そこには、巨大な樹木のような塔が立っている。

その中心には、琥珀のような樹脂に包まれた、一人の男が眠っているという。

彼は眠り続けているわけではない。

常に目覚め、常に監視し、常に調整している。

この巨大な生態系が、人類を「肥料」とみなさないように。

植物の野生と、人類の生存圏のバランスを、たった一人で背負い続けている。

『酸素濃度、安定。気温、快適』

僕は、根を通じて月全体の鼓動を感じる。

孤独か?

いいや。

今の僕には、何十億もの植物たちの声が聞こえる。

そして時折、ドームの中から聞こえる子供たちの笑い声が、僕の糧だ。

僕はカイト。

かつて人間だったもの。

そして今は、この蒼い月の庭師。

視界の端に、青く輝く地球が見える。

いつか、あの星にも僕の根を伸ばそう。

枯れ果てたあの故郷を、緑で埋め尽くしてあげるために。

僕の、愛しい庭の一部にするために。

月が、静かに笑った気がした。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • カイト: 植物の声(感情)を色として知覚する「共感覚」を持つ生物建築家。人間社会に馴染めず、植物に安らぎを求める。最終的に「個」を捨てて月そのものの意識となることを選ぶ。
  • バーンズ司令官: 効率と利益を優先する軍人上がりの管理者。自然をコントロール対象としか見ていない、カイトと対極の存在。
  • ミナ: カイトの同僚。菌糸の暴走に巻き込まれ、植物と融合する悦びを受け入れて最初の犠牲者(あるいは進化のサンプル)となる。
  • GM-09 (菌糸体): カイトが開発したテラフォーミング用変異菌。幼児のような純粋な知性を持ち、学習能力が高い。カイトを「親」として慕うが、その愛情表現は捕食に近い。

【考察】

  • テクノロジーと自然の逆説: 「インフラ整備」という高度な技術的介入が、結果として「原始的な自然への回帰」を引き起こす皮肉を描いている。人類が月を支配するのではなく、月(植物)が人類を包摂する構造への転換。
  • Show, Don't Tellの象徴: カイトの孤独や社会への絶望は、直接語られずとも、彼が人間(ミナやバーンズ)よりも植物の声に耳を傾け、最終的に人間性を捨てる選択を躊躇しない点に表れている。
  • 「庭師」というメタファー: タイトルや結末にある「庭師」は、管理者であると同時に、庭そのものに縛り付けられた囚人でもある。地球への侵食を示唆するラストは、これがハッピーエンドなのか、新たなホラーの始まりなのかを読者に問いかける。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る