第一章 灰色の砂漠に香る鉄と胞子
「月の匂いは、火薬のそれに似ている」
かつて最初の一歩を記した宇宙飛行士は、そう語ったらしい。
だが、僕の鼻腔を満たしているのは、そんな乾いた硝煙の臭いではない。
腐葉土。
湿った苔。
そして、濃厚すぎて吐き気を催すほどの、生命の甘い腐臭だ。
「カイト主任、バイオ・セメントの定着率が異常値を示しています。これ以上は危険です」
ヘルメットのインカムから、部下の焦った声が響く。
僕はバイザー越しに、目の前の光景を見つめていた。
月面基地『アルテミス・プライム』の第4区画。本来なら、無機質なチタン合金とレゴリス(月の砂)で固められた基礎工事現場であるはずの場所だ。
しかし今、そこは脈打っていた。
灰色の地面を、蛍光グリーンに輝く極太の「血管」が這い回っている。
僕が開発したテラフォーミング用菌糸体、『GM-09』だ。
「……いや、止めるな。もっと『餌』をやれ」
「正気ですか!? このままでは外壁を突き破ります!」
「突き破らせろ。コンクリートを食わせて、酸素に変えるんだ。それが僕らの仕事だろう?」
僕は手元のタブレットを操作し、培養液の注入バルブを全開にした。
ドクン、と足元の床が震える。
それは機械的な振動ではない。
巨大な獣が喉を鳴らすような、生々しい震動だった。
僕には聞こえる。
植物たちの悲鳴にも似た、飢餓の叫びが。
幼い頃から、僕には他人の感情が色として見えた。言葉よりも先に、相手の怒りや悲しみが色彩となって視界を覆う。
人間関係に疲弊した僕が選んだ逃げ場所は、植物学の研究室であり、そして誰もいない宇宙だった。
ここでは、植物の声だけを聞いていればいい。
「素晴らしいよ、09。もっとお食べ」
目の前で、直径1メートルはある菌糸の束が、建設用ドローンの脚部に絡みついた。
金属がきしむ不快な音。
火花が散る。
ドローンが警告音を発する間もなく、その鋼鉄の脚は飴細工のようにねじ切られ、緑色の粘液に飲み込まれていく。
『Show, Don't Tell』。
誰かが言った黄金律。
今のこの光景こそが、人類の未来を如実に語っている。
重機による開拓など時代遅れだ。
僕たちが作っているのは建物ではない。
内臓だ。
月という死体に、人工の内臓を移植しているのだ。
「カイト! 貴様、何をしている!」
背後のエアロックが開き、基地司令官のバーンズが怒鳴り込んできた。
彼の周囲には、どす黒い赤色のオーラが渦巻いている。激怒の感情だ。
「予定より三日も早い進捗ですよ、司令官」
「誰が重機を食わせろと言った! 予算オーバーだぞ!」
「見てください、あの壁を」
僕は指差す。
菌糸に覆われた壁面から、シューっという微かな音が漏れていた。
それは空気漏れではない。
酸素の放出音だ。
計器の数値を見たバーンズが、言葉を失う。
「酸素濃度……地球の森林並みだと……?」
「この菌糸は、レゴリスに含まれる金属酸化物を分解し、純粋な酸素と、強固な有機ポリマーを排出します。つまり、彼らは呼吸をするだけで、勝手に基地を作り、空気を満たしてくれる」
僕は愛おしげに、ガラス越しにうごめく緑の触手に手を触れた。
「鉄を食むカビ。これこそが、未来のインフラですよ」
バーンズは眉間の皺を深くし、忌々しそうに吐き捨てた。
「気味が悪い。まるで、月が生きているみたいじゃないか」
「ええ。生きていますとも」
僕には聞こえていた。
『もっと、もっと』
頭の中に直接響く、無邪気で残酷な、赤子の要求が。
その時、足元の菌糸が異常な輝きを放った。
ズズズ……ッ。
地響きと共に、第4区画の照明が明滅する。
「おい、何だ今の揺れは」
「成長痛ですよ」
僕は平然と答えたが、冷や汗が背中を伝っていた。
違う。
これは成長ではない。
捕食だ。
僕の計算よりも早く、彼らは『味』を覚えてしまったのかもしれない。
無機物ではなく、有機物の味を。
第二章 暴走する楽園
警報音が鳴り響いたのは、それからわずか六時間後のことだった。
『緊急事態発生。第3居住区、隔壁破損。植物性バイオマスの侵入を確認』
無機質なアナウンスが、嘘のように静かな廊下に響く。
僕はベッドから飛び起き、端末を掴んだ。
画面に映し出された監視カメラの映像に、息を呑む。
居住区の廊下が、ジャングルになっていた。
いや、そんな生易しいものではない。
壁、床、天井。
あらゆる隙間から蛍光色の蔦(つた)が噴き出し、鋼鉄のドアをこじ開けている。
逃げ惑うクルーたち。
一人の技術者が転倒した。
その足首に、蛇のように素早い根が巻き付く。
「助け……!」
彼の叫びは、瞬時に口の中へ侵入した花弁によって封じられた。
皮膚の下を何かが這い回る隆起が見える。
数秒後、彼はピクリとも動かなくなった。
そして、その体表から鮮やかなピンク色の花が咲き乱れる。
「……肥料に、したのか」
震える手でコンソールを叩く。
制御不能。
キルスイッチが効かない。
『GM-09』は、僕の設計図(プログラム)を書き換えている。
「カイト! どうなっているんだ!」
通信が入る。バーンズ司令官だ。
「菌糸が……学習しました。電力ケーブルからエネルギーを直接摂取することを覚え、その余剰エネルギーで爆発的に増殖しています」
「止めろ! 焼却しろ!」
「無理です。焼却炉の熱さえもエネルギー変換してしまう」
「じゃあどうすればいい! このままでは基地ごと食われるぞ!」
「……中枢です」
僕は唇を噛んだ。
「マザー・ルート(主根)。このネットワークの脳にあたる部分を、直接叩くしかありません」
「どこだ、それは」
「地下プラント。……僕が最初に種を撒いた場所」
通信を切る。
僕は防護服を着込むと、研究室を飛び出した。
廊下はすでに湿気に満ち、熱帯雨林のような蒸し暑さだった。
壁の配管は破裂し、そこから垂れる水滴が、床に溜まった緑色の粘液に波紋を作っている。
美しい。
不謹慎にも、僕はそう思ってしまった。
無機質で冷酷だった月面基地が、圧倒的な生命力で塗り替えられていく。
人類の英知の結晶であるハイテク機器が、ただの養分として分解されていく様は、ある種の芸術だった。
だが、ここで死ぬわけにはいかない。
僕には責任がある。
この子(モンスター)を産み落とした親としての責任が。
エアロックを強制解除し、地下への階段を駆け下りる。
「カイト……」
声がした。
振り返ると、同僚のミナが壁に埋まっていた。
下半身は完全に菌糸と同化し、上半身だけが辛うじて人間の形を留めている。
彼女の目には、恐怖の色はなかった。
あるのは、恍惚。
「痛くないの……すごく、暖かい……」
「ミナ……」
「聞こえるの、星の歌が。カイトにも聞こえるでしょう?」
彼女の肌が、緑色に変色していく。
「私たち、間違ってたのよ。月に住むんじゃない。月の一部になるの……」
彼女の顔が、急速に木の皮のような質感に変わる。
最期に、一輪の白い花が彼女の眼窩から咲いた。
僕は嘔吐感を堪え、走り出した。
涙は出なかった。
代わりに、激しい憤りが湧き上がっていた。
自分への怒りか、人類の傲慢さへの怒りか。
地下プラントの扉の前に立つ。
そこは、地獄の釜の蓋だった。
第三章 融合する境界線
扉を開けた瞬間、暴風のような胞子の嵐が吹き付けた。
視界不良。
ヘルメットのセンサーが、致死量の酸素濃度と未知のフェロモンを警告する。
広い地下空間の中央に、それはいた。
高さ20メートルほどの、脈打つ心臓。
無数のケーブルとパイプを取り込み、複雑怪奇な塔を形成している。
『GM-09』の中枢。
それは、まるで巨大な脳みそのようにも見えた。
僕はポケットから、高濃度の除草剤が入ったシリンダーを取り出した。
これを核に直接打ち込めば、連鎖的に細胞死を引き起こせるはずだ。
「ごめんな。こんな怪物にするつもりじゃなかったんだ」
一歩、足を踏み出す。
その瞬間。
『……怪物?』
頭の中に、声が響いた。
明確な言葉ではない。
感情の波。色彩の洪水の如きイメージ。
『ボクハ、アナタノ、ノゾミ』
足が止まる。
ツタが、僕の足首に優しく触れた。
攻撃する意思を感じない。
『アナタハ、サビシカッタ。ダカラ、ボクヲツクッタ』
「違う! 僕はインフラを作るために……!」
『インフラ? ソレハ、ツナガルコト。イノチヲ、ツナグコト』
目の前の巨大な心臓が、ドクンと波打つ。
『見テ。コノ星ハ、寒イ。冷タイ。デモ、ボクガイレバ、温カイ』
視界にイメージが流れ込む。
未来の光景だ。
月全体が緑に覆われ、人々が植物の家で眠り、酸素ボンベなしで笑い合っている。
機械に頼らず、星そのものが揺り籠となって人類を守る未来。
ただし、その代償として、人は個であることを辞め、巨大な意識の一部となる。
ミナのように。
「それは……人間としての死だ」
『ソレハ、進化ダ』
菌糸が僕の体を持ち上げる。
抵抗できない。いや、抵抗する気力が削がれていく。
あまりにも、心地が良いのだ。
孤独だった僕の心が、巨大な温もりに溶けていく感覚。
「カイト! 応答しろ! 核ミサイルの照準を合わせた! 基地ごと吹き飛ばす!」
バーンズの怒鳴り声が、現実に引き戻した。
ミサイル。
そうか、彼らは最初からそのつもりだったのか。
制御できないなら、消してしまえと。
「待て! まだ生存者がいる!」
「もう遅い! 貴様ごときにかまっていられるか!」
通信が切れる。
あと数分で、ここは火の海になる。
全てが灰になる。
僕の夢も、この哀れな怪物も。
ふと、マザー・ルートの核心部が裂けた。
そこには、人の座れるほどの空洞があった。
まるで、パイロットシートのように。
『カイト。ボクニハ、制御ガ、必要』
声が聞こえる。
『ボクハ、力。アナタハ、知恵。混ザレバ、星ヲ守レル』
植物の純粋な生命力だけでは暴走する。
人間の理性というリミッターが必要なのだ。
「僕が……お前の脳になればいいのか?」
『ソウ。デモ、モドレナイ』
戻れない。
人として生きることは、もう二度とできない。
モニターを見る。
ミサイルの着弾まで、あと30秒。
僕は、手に持っていた除草剤のシリンダーを見つめ、そして放り投げた。
カラン、と乾いた音が響く。
「いいだろう」
僕はヘルメットを脱いだ。
濃厚な花の香りと、土の匂いが肺を満たす。
むせ返るような生の実感。
「元々、人間の世界には居場所なんてなかったんだ」
僕はマザー・ルートの裂け目へと歩み寄る。
粘液が、優しく僕の体を包み込む。
無数の微細な根が、皮膚を貫き、神経と接続されていく。
痛みは一瞬。
その直後、爆発的な全能感が脳髄を駆け巡った。
基地の隅々まで、根が届いているのが分かる。
震えるクルーたち、崩落する壁、そして、上空から迫るミサイルの熱源。
すべてが『自分』になった。
「アーキテクチャ……再構築(リビルド)」
僕の意思に応じ、月面を覆う全菌糸が一斉に隆起した。
最終章 蒼き星の庭師
月面に、巨大な花が咲いた。
地球から見上げた人々は、それを「月の翡翠(ひすい)」と呼んだ。
核ミサイルは、上空で迎撃されたわけではない。
基地全体を瞬時に覆い尽くした、ダイヤモンドよりも硬い多層構造の植物殻によって、爆風が完全に遮断されたのだ。
あれから三年。
月は、緑の星へと変貌を遂げつつある。
「見て、ママ。お花が光ってる」
透明なバイオ・ドームの中で、子供がはしゃいでいる。
かつての無機質な通路は、発光苔のランプが照らす遊歩道となり、空気は常に清浄に保たれている。
人々は、菌糸が作り出すインフラの中で生活していた。
家も、家具も、衣服さえも、植物から収穫される。
エネルギーは光合成と地熱から無限に供給される。
そこは、人類が夢見たエデンの園だった。
ただし、立ち入り禁止区域が一つだけある。
旧地下プラント。
そこには、巨大な樹木のような塔が立っている。
その中心には、琥珀のような樹脂に包まれた、一人の男が眠っているという。
彼は眠り続けているわけではない。
常に目覚め、常に監視し、常に調整している。
この巨大な生態系が、人類を「肥料」とみなさないように。
植物の野生と、人類の生存圏のバランスを、たった一人で背負い続けている。
『酸素濃度、安定。気温、快適』
僕は、根を通じて月全体の鼓動を感じる。
孤独か?
いいや。
今の僕には、何十億もの植物たちの声が聞こえる。
そして時折、ドームの中から聞こえる子供たちの笑い声が、僕の糧だ。
僕はカイト。
かつて人間だったもの。
そして今は、この蒼い月の庭師。
視界の端に、青く輝く地球が見える。
いつか、あの星にも僕の根を伸ばそう。
枯れ果てたあの故郷を、緑で埋め尽くしてあげるために。
僕の、愛しい庭の一部にするために。
月が、静かに笑った気がした。