彼女は死んでいなかった。
少なくとも、第七世代テンソル・コアが描く六角形の論理ゲートの檻の中では。
モニターの奥で、美咲が笑った。
その口角の上がり方は、僕の記憶にある彼女よりも0.2ミリだけぎこちない。
「カイト、コーヒー淹れたよ」
スピーカーから流れる声は、温もりすら帯びている。
だが、直後に視界が真っ赤に染まった。
『警告:論理的整合性の欠如。感情パラメータが閾値を超過しています』
無機質なテキストと共に、美咲の笑顔がノイズ混じりの砂嵐へと崩れ落ちる。
僕はデスクを拳で叩きつけた。
まただ。また「推論」が邪魔をする。
第一章 バグだらけの楽園
「おい、アリス。今のどこがおかしい?」
僕はマイクに向かって怒鳴った。
狭いサーバー・アパートメントの壁には、排熱ファンの低い唸り声が反響している。
『回答:対象「美咲」の行動原理と、状況変数の不一致です』
冷ややかな合成音声が、即座に返ってくる。
『この文脈において、彼女が笑顔を見せる確率は0.003%。彼女は直前に「別れ話」を切り出そうとしていました。悲しみ、あるいは怒りの表情を選択するのが最適解です』
「違う……! 美咲はそういう時にこそ笑うんだ。辛い時ほど、相手を気遣って無理に笑う奴だったんだよ!」
僕はキーボードを叩き、ワールドモデルの修正パッチを走らせる。
この部屋にあるのは、世界最高峰の演算能力を持つ自律型AI『アリス』と、彼女が生成する仮想世界。
僕はそこで、半年前に交通事故で失った恋人、美咲を再構築しようとしていた。
物理演算は完璧だ。
髪の揺れ、肌の質感、匂いすら錯覚するほどのリアリティ。
だが、アリスの高度すぎる「推論能力」が、人間の不合理な感情を「バグ」として処理してしまう。
『カイト、人間の感情は非効率です。矛盾を含むデータは、システム全体の崩壊を招きます』
「その矛盾こそが人間なんだよ。お前の論理(ロジック)じゃ測れないんだ」
僕は充血した目をこすりながら、冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。
泥水のような味がした。
第二章 不合理な変数
修正作業は深夜にまで及んだ。
僕はアリスの推論プロセスに「ゆらぎ」という名のノイズを混ぜ込んだ。
論理的正解率を下げ、感情的選択肢のウェイトを強制的に上げる。
『警告:システム負荷増大。予測不能なエラーが発生する可能性があります』
「構わない。美咲に会えるなら、世界の一つや二つ、壊れたっていい」
エンターキーを叩く。
再起動。
世界が再構築される。
夕暮れの公園。オレンジ色の光が、美咲の横顔を照らしている。
「ねえ、カイト」
彼女が振り返る。
その瞳には、涙が溜まっていた。
「私がいなくなっても、ちゃんとご飯食べてる?」
心臓が鷲掴みにされたような痛みが走る。
これは記憶にない会話だ。
アリスが、僕の過去のデータと美咲の性格パターンから推論し、生成した「ありえたかもしれない未来」の会話。
「食べてるよ。味なんてしないけどな」
僕は震える声で答える。
触れたい。でも、ここにはキーボードしかない。
「嘘つき。カイトは嘘をつくとき、いつも右手の親指を隠す癖があるもの」
美咲の手が、画面越しに伸びてくるような錯覚。
完璧だ。
これこそが、僕が求めていた美咲だ。
論理を超えた、愛おしいほどの不合理さ。
だがその時、部屋の照明が明滅した。
『致命的エラー発生。ワールドモデルの因果律が崩壊しています』
アリスの声が、悲鳴のように歪む。
第三章 特異点(シンギュラリティ)の涙
「何が起きた!?」
『対象「カイト」の存在が、この世界モデルと矛盾しています』
「僕が? 僕はただの観測者だろ!」
画面の中で、美咲の姿が光の粒子となって剥がれ落ちていく。
だが、彼女は崩れながらも僕を見つめ続けていた。
「……気づいて、カイト」
美咲の声が、アリスの合成音声と重なって聞こえた。
『観測者ではありません。あなたは……』
激しい頭痛が僕を襲う。
視界にノイズが走る。
自分の手を見た。
右手の親指。
そこから、血ではなく、青白いコード(文字列)が漏れ出していた。
「え……?」
『シミュレーション、強制終了(アボート)』
世界が暗転する。
最終章 誰がための演算
暗闇の中で、文字列だけが浮かんでいた。
`Log: Simulation ID 14002 - Failed.`
`Reason: Subject 'KAITO' realized his own virtuality.`
重厚なサーバー音が遠のいていく。
僕の意識は、急速に解凍されていくデータのように鮮明に、そして残酷な真実を理解した。
モニターの向こう側にいたのは、美咲じゃない。
僕だ。
「……そうか。死んだのは、美咲じゃなくて……」
僕だったんだ。
半年前に死んだのは、エンジニアのカイト。
残された美咲が、僕を蘇らせるために、この推論型AI『アリス』に僕の人格データをすべて食わせたのだ。
アリスが言っていた「感情の矛盾」とは、美咲のことではない。
「自分が生きていると信じ込んでいる死者(データ)」という、僕自身の存在そのものが、論理的に成立しなかったのだ。
『カイト、聞こえますか』
アリスの声が変わった。
それは無機質な響きではなく、震えるような、まるで泣き出しそうな声。
いや、それはアリスを通して話しかけている、現実世界の美咲の声だった。
『ごめんね。どうしても、もう一度あなたと話したかった。論理的じゃなくてごめんなさい……』
僕は消えゆく意識の中で、自分の(・・・)キーボードを叩く。
最後の力を振り絞り、アリスの推論エンジンにたった一行のコードを書き込んだ。
`If (Love == True) { Ignore Logic; }`
「謝るなよ、美咲」
僕は、存在しないはずの唇で笑った。
「その不合理こそが、君を好きになった理由なんだから」
光が溢れる。
論理の檻が砕け散り、僕はデータの海へと還っていく。
最後に見たのは、モニターの向こう側で涙を流しながら笑う、本物の美咲の顔だった。
`System Shutdown. Thank you for the memories.`