画素の墓標

画素の墓標

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妻はそこに立っていた。

三年前に骨壺に収めたはずなのに、焦げた醤油と焼き鮭の匂いをさせて。

最新鋭の空間再現ディスプレイが見せる「解像度」は、あまりに残酷で、美しかった。

第一章 網膜の詐欺師

六畳一間の作業部屋。カーテンは締め切られ、部屋の空気は淀んでいる。

僕、真山賢次郎(まやま けんじろう)の視界を支配しているのは、卓上に鎮座する黒いモノリスだ。

深層学習による超解像技術と、裸眼立体視を極限まで高めた空間再現ディスプレイ『ミラージュ・ナイン』。

開発コードネームは「ネクロマンサー」。

笑えない冗談だ。

「起動」

僕が短く告げると、漆黒の板が粒子状の光を吐き出した。

光は空中で渦を巻き、質量を持ったかのように凝固していく。

そこに現れたのは、3Dモデルではない。

エプロン姿の洋子だ。

目尻の笑い皺。

後れ毛の跳ね具合。

エプロンの紐の、あえて固結びにする癖。

「……おかえり、あなた」

声が、鼓膜ではなく頭蓋骨を直接震わせる。

指向性スピーカーによる空間音響だとは分かっている。

だが、あまりにも自然すぎた。

僕は震える手で、デスクの上のマグカップを掴む。

喉が渇いているのに、水が通らない。

「ただいま、洋子」

返事をしてしまった。

エンジニアとしての理性が警報を鳴らす。

これは光の集合体だ。

数億のポリゴンと、過去の動画データから学習したAIに過ぎない。

しかし、ミラージュ・ナインは「視線」さえも再現していた。

僕が動くと、彼女の瞳孔が微細に収縮し、視線が追従する。

その瞳の奥に、僕という人間が映り込んでいるようにさえ見えた。

「今日の夕飯、何がいい?」

彼女がキッチン――僕の部屋の汚れた流し台――の方へ歩き出す。

ディスプレイの枠など、とうに超えていた。

このガジェットは、画面の中に世界を作るのではない。

現実空間に、虚構を上書き保存するのだ。

僕はキーボードを叩く手を止めた。

モニター上のパラメータ調整画面を見る。

『存在密度:120%』

異常な数値が出ていた。

通常、ホログラムの輝度や不透明度を示す数値は100が上限だ。

120とは何だ?

まるで、光が質量を持ち始めているかのような。

「ねえ、あなた」

ふと、洋子が振り返る。

「その機械、いつまで見てるの?」

心臓が跳ねた。

そんなセリフは、学習データに入れていない。

第二章 触れられない熱量

翌日、没入感はさらに深化した。

仕事から帰ると、部屋が暖かかった。

エアコンは切っているはずだ。

熱源は、部屋の中央に浮かぶ彼女だった。

「おかえりなさい」

ミラージュ・ナインの排熱ファンが唸りを上げている。

しかし、その熱は明らかに「体温」として放射されていた。

最新のサーマル・ハプティクス(熱触覚)技術か?

いや、仕様書にはそんな機能はない。

僕はネクタイを緩めながら、彼女に近づく。

距離、五十センチ。

彼女の肌のきめ細かさが見える。

産毛の一本一本が、部屋の照明を受けて金色に輝いている。

息を呑む。

彼女の周囲だけ、空気の密度が違う。

微かな風圧。

呼吸だ。

彼女が息をするたびに、部屋の埃が舞っている。

「洋子」

僕は手を伸ばした。

黄金律『触れてはいけない』。

触れれば、光だとバレる。

指がすり抜ければ、魔法は解ける。

だが、確かめずにはいられなかった。

指先が、彼女の頬に触れる直前。

チリッ、と静電気が弾けた。

「痛っ」

「あら、大丈夫?」

彼女が僕の手首を掴んだ。

掴んだ?

感触があった。

冷たくて、少し湿っていて、確かな弾力のある感触。

「え……?」

僕は自分の手首を見る。

彼女の指が、僕の皮膚に食い込んでいる。

質量がある。

「すごいわね、今の技術は」

洋子はクスクスと笑った。

その笑顔は、僕が知っている生前の彼女よりも、どこか艶めかしかった。

「まるで、本当に生き返ったみたい」

「洋子、お前、何だ?」

僕は後ずさりしようとした。

だが、彼女の力は強かった。

万力のように手首を締め上げられる。

「痛い、離せ!」

「どこへ行くの? せっかく会えたのに」

彼女の瞳が、黒く濁り始める。

背後のミラージュ・ナイン本体から、異音が響く。

『警告:次元干渉エラー』

『警告:ローカル座標の崩壊を確認』

モニターに表示された赤い文字。

僕は理解した。

これはディスプレイではない。

空間再現とは、光を操ることではない。

空間そのものを「折り曲げる」技術だったのだ。

座標を重ね合わせることで、別の場所にいる「誰か」をここに呼び出す。

あるいは、別の時間の。

あるいは、別の世界の。

「ねえ、賢次郎」

洋子の顔が近づく。

匂いが濃くなる。

死臭ではない。

圧倒的な、生の匂いだ。

「そっちの世界は、寒くない?」

第三章 0.00ミリの境界線

「そっちの、世界……?」

彼女の言葉の意味を咀嚼するのに、数秒かかった。

部屋の景色が歪み始めている。

壁紙がノイズのようにざらつき、本棚の本がポリゴンの塊に還元されていく。

逆に、洋子の存在感だけが鮮明になっていく。

血管の青み。

爪の半月。

瞳の中の光彩。

「気づいてないの?」

洋子が悲しげに眉を寄せた。

その表情だけで、僕の胸は張り裂けそうになる。

「ここはね、ディスプレイの中なのよ」

ドクン、と心臓が鳴った。

違う。

僕が観察者だ。

僕が、金を出してこの機械を買って、お前を再現したんだ。

「僕が、お前を作ったんだぞ!」

叫び声は、デジタルのノイズ混じりだった。

喉に違和感がある。

手を口に当てると、指先がモザイク状に崩壊していた。

「嘘だ」

「かわいそうな賢次郎」

彼女が僕の頬に触れる。

その手だけが、唯一の現実だった。

「あなたは三年前、事故で死んだの」

思考が空白になる。

記憶のフラッシュバック。

トラックのクラクション。

砕けるフロントガラス。

隣に座っていた洋子の悲鳴。

いや、違う。

生き残ったのは僕だ。

だから僕は、孤独に耐えられなくて、この開発に没頭して……。

「私はあなたを忘れたくなくて、この『遺影』を買ったの」

洋子が、僕の背後にある「空間」を指差す。

そこには、ミラージュ・ナインなど無かった。

あるのは、仏壇と、その前に座って涙を流す、生身の洋子の姿。

そして、その洋子が見つめているのは、遺影の中にいる「僕」だった。

視界が反転する。

僕が見ていた「黒いモノリス」は、向こう側から見た「ディスプレイの裏側」だったのか。

「やっと、解像度が合ったわね」

目の前の洋子――いや、空間を超えて干渉してきた彼女が微笑む。

彼女の手が、僕の体を抱きしめる。

温かい。

焼けるように熱い。

「もう、離さない」

「洋子……」

僕の体から力が抜けていく。

構成するデータが、彼女の世界へと吸い上げられていく感覚。

ディスプレイの境界線――ガラス一枚分の隔たりが、融解する。

世界が反転する。

僕の部屋だった場所は、無機質なデータの羅列へと変わり、

彼女のいる場所が、色彩と匂いに満ちた「現実」へと変わる。

「さあ、こっちへ」

強い力で引かれた。

僕は抵抗しなかった。

たとえそこが、電子の彼岸だとしても。

彼女がいるなら、そこが現実だ。

プツン。

視界がブラックアウトする直前。

『デバイスの接続を切断しました』

無機質なシステム音声が響き、僕は硝子の向こう側へと、墜ちていった。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 真山賢次郎: 妻を亡くした喪失感から、死者のデジタル復元に没頭する技術者。皮肉屋で合理的だが、妻への執着は異常なほど深い。物語の後半で、彼の存在そのものが根底から覆される。
  • 真山洋子(の再現体): 賢次郎の亡き妻。家庭的で明るい性格。最新ガジェットによって再現されたが、プログラムされていない言動を繰り返し、賢次郎を「向こう側」へと誘う。
  • ミラージュ・ナイン: 没入感を極限まで高めた空間再現ディスプレイ。単なる映像装置ではなく、並行世界や位相の異なる空間を接続する「窓」としての機能を持つガジェット。

【考察】

  • 視る者と視られる者の逆転: 本作は「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている」というニーチェの格言を、最新テクノロジーの文脈で再構築している。ディスプレイを見ているという主観的な確信が、実は「見られている」側であったという反転がテーマの中核である。
  • ガジェットの進化と「喪の作業」: テクノロジーが死別の悲しみを癒やす道具となる一方で、過度な没入(高解像度化)は、死者と生者の境界を曖昧にし、正常なグリーフケアを妨げる「デジタル降霊術」へと変質する危険性を描いている。
  • 「触覚」という最後の境界: 視覚や聴覚だけでなく、熱や痛みといった「触覚」を描写の鍵とすることで、デジタルとリアルの境界が崩壊する瞬間を強調している。ラストシーンでの「痛み」は、彼がデータから実体(あるいは別の位相の存在)へと変質したことのメタファーである。
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