零時の重憶師
第一章 鉛の肩と黒い雨
カイの仕事は、他人の心を軽くすることだった。彼は「重憶師(じゅうおくし)」と呼ばれ、依頼主の記憶に宿る感情的な負担を、物理的な「重さ」としてその肩に感じ取ることができた。そして、その重さを一時的に自らの肩に移し替えることで、苦痛に満ちた記憶の輪郭を和らげ、色褪せさせることができた。
今日の依頼主は、最愛の猫を失った老婦人だった。彼女の記憶に触れた瞬間、ずしり、と鉛の外套を羽織らされたような重圧がカイの肩にのしかかる。温かい日だまりの匂い、柔らかな毛皮の感触、そして今はもう聞こえない喉を鳴らす音。それら愛おしい記憶のすべてが、今は鋭い棘となって彼女の心を苛んでいた。
「…お願いします。あの子の温もりだけは、消さないでくださいまし」
老婆のかすれた声に応え、カイは静かに目を閉じた。意識を集中させると、肩の重圧がゆっくりと彼の存在に染み込んでくる。それは単なる比喩ではない。彼の足は床にめり込むように感じられ、呼吸は浅くなる。老婆の悲しみが、彼の肺腑を直接圧迫するかのようだ。カイは、重さの中から「喪失の苦痛」という最も鋭利な部分だけを慎重に抜き取り、代わりに「感謝の温かさ」という羽根のように軽い記憶の断片をそっと編み込んでいく。
数分後、カイが目を開けると、老婆の目元から険が消え、穏やかな涙が一筋流れていた。「…ありがとう、ございます。心が、少しだけ…温かいです」
彼女が帰った後も、カイの肩には鉛の残滓が重く居座っていた。彼は窓の外に目をやった。空は慢性的な病を患ったように、常に鈍色の雲に覆われている。そして、時折ぱらぱらと降り注ぐのは、雨ではない。黒い塵だ。人々はそれを「記憶の雨」と呼んだ。世界のどこかで誰かが抱えきれなくなった重い記憶が、飽和して天から降ってくるのだという。この塵が降り積もるにつれ、大地は緩やかに沈下し、人々は言いようのない倦怠感に苛まれる。この世界の物理法則は、人々の心の総質量に直結していた。
カイは懐から古びた真鍮の羅針盤を取り出した。彼のような重憶師だけが持つ【記憶の羅針盤】。それは北を指さず、「最も重い記憶が存在する場所」を指し示す。最近、その針は常に微かに震え、落ち着きなく盤面を彷徨っていた。まるで、世界そのものが巨大な悲鳴を上げているのを感知しているかのように。
第二章 根を張る虚無
「何も、思い出せないんです。ただ、胸に大きな穴が空いていて、そこから冷たい風が吹き込んでいるような…そんな感覚だけが、ずっと」
新たな依頼主、リナと名乗る若い女性は、透き通るような白い肌をした、どこか儚げな印象の人物だった。彼女の依頼は奇妙だった。特定の辛い記憶を消してほしい、というのではない。原因不明の虚無感を消してほしい、というのだ。
カイは訝しみながらも、彼女の記憶にそっと触れた。
その瞬間、彼は息を呑んだ。
肩にかかったのは、重さではなかった。それは「無」そのものだった。星ひとつない夜空のように、音も光も温度もない、絶対的な空虚。それはカイがこれまで体験したどんな悲しみや後悔よりも異質で、底なしの質量を持っていた。まるでブラックホールが彼の魂を直接吸い込もうとしているかのような感覚に、思わず後ずさる。
「これは…」
カイがリナの顔を見ると、彼女の輪郭が陽炎のように僅かに揺らいで見えた。指先が、まるで淡い煙のように透け始めている。
「どうしたんですか? 私、何か…」
不安げに自分を見るリナの声が、遠くから聞こえるようだった。
カイは再び彼女の記憶の深淵に挑んだ。その虚無の中心に、何かがある。針のように細く、しかし無限の質量を持つ何か。カイがそれを除去しようと試みると、激しい抵抗に遭った。それは記憶に寄生する異物などではなかった。リナという存在そのものの根源から生えている、決して抜くことのできない「根」のようだった。
その時、カイの懐で羅針盤が灼熱を帯び、狂ったように回転を始めた。針はもはやどこも指さない。ただ、盤面の中央で激しく振動し、過去の重憶師たちが刻んだ微細な紋様が、青白い燐光を放ち始めた。
「あ…ああ…!」
リナの身体から、黒い塵がはらはらとこぼれ落ち始める。彼女の存在そのものが、「記憶の雨」の源へと変質しようとしていた。これが、近年重憶師たちの間で噂されていた「根源的な重さ」の正体。人を内側から侵食し、塵へと変える呪い。
カイはリナの手を掴んだが、その手は砂の城のように、彼の指の間からさらさらと崩れていった。
第三章 羅針盤が指す未来
リナの姿が完全に黒い塵となって霧散した瞬間、カイの脳内に羅針盤から放たれた光の奔流が流れ込んだ。それは、文字でも映像でもない、純粋な情報の洪水だった。何世代にもわたる重憶師たちの記録、彼らが背負った幾億もの記憶の断片、そして、その果てに彼らが見た絶望。
カイは理解した。羅針盤が指し示していた「最も重い記憶」は、この世界のどこかにある過去の悲劇ではなかった。
それは、「未来」から流れ込んできているものだった。
まだ訪れていない、しかし確定してしまった未来。そこでは、人類が自らの記憶の重さに耐えきれず、世界そのものが存在論的な崩壊を起こす。星が砕け、時が溶け、全ての生命が「無」に帰す、その最後の瞬間。全人類の集合的な「消滅への絶望」が、時間の壁を突き破り、過去へと逆流してきているのだ。
「根源的な重さ」とは、その未来の絶望の破片だった。未来の何者か――あるいは人類という種の生存本能そのものが、滅びを回避するために、時間の特異点である重憶師に警告として送り込んでいるのだ。だが、その警告自体が強力すぎる毒となり、現在を蝕んでいた。リナのような人々は、その未来の絶望に無意識に共鳴してしまった犠牲者だった。
このままでは、いずれ世界中の人間が塵と化し、歴史は確定した未来へとなだれ込むだろう。
カイの目の前で、静かになった羅針盤の針が、ゆっくりと向きを変えた。それは震えることも、回転することもなく、ただ真っ直ぐに、カイ自身の胸を指し示していた。
盤面の紋様が、最後のメッセージを彼に伝える。
『時の流れを堰き止めよ。重さをもって、重さを制せよ』
道は、一つしかなかった。
カイは、空になった依頼用の椅子を見つめ、静かに息を吐いた。その息は白く、まるで彼の魂の一部が抜け落ちたかのようだった。
第四章 零時の重憶師
決意を固めたカイは、アトリエの中心に立った。彼は羅針盤を胸に掲げ、目を閉じて意識を世界の隅々まで広げていく。街角の片隅で泣く子供の孤独、病院のベッドで過去を悔やむ老人の後悔、歴史の影に埋もれた無数の戦の悲鳴。そして、リナのように未来の絶望に蝕まれ、塵になりかけている人々の魂の叫び。
「来い」
カイが呟くと、世界中に散らばっていた有象無象の「重さ」が、そして未来から流れ込む「根源的な重さ」の奔流が、一斉に彼を目指して集まり始めた。
肩に、まず一つの銀河が落ちてきたかのような衝撃。次に、もう一つ。彼の身体は軋み、骨は悲鳴を上げ、皮膚は内側からの圧力で裂け始める。だが、彼は歯を食いしばり、その全てを受け止め続けた。喜びの記憶は星屑の光となり、悲しみの記憶は暗黒物質となって、彼の存在を構成要素としていく。
やがて、カイの身体が耐えられる限界を超え、彼の存在そのものが一つの巨大な重力点と化した瞬間――世界から、音が消えた。
風は止み、降り注いでいた黒い塵は空中に静止し、街行く人々の動きも、時計の針さえも、すべてが凍りついた。カイは、その圧倒的な質量によって、世界の時間の流れを完全に停止させたのだ。
「零時」と呼ばれる、一瞬であり永遠でもある空白。
その静寂の中で、カイは意識だけの存在となり、因果の糸を遡った。未来の滅びの直接的な原因。それは、ある古代の重憶師が、世界の均衡を保つために行った、一つの禁忌の記憶編集だった。彼は、人類から「死の恐怖」という記憶を薄めることで、永遠の平和をもたらそうとした。だが、その結果、人々は生の価値を見失い、際限なく記憶を溜め込み、最終的に世界を自らの重さで圧壊させる未来を招いたのだ。
カイは、その古代の重憶師の選択の瞬間に介入する。彼は自らの存在の全てを賭して、その編集を「無かったこと」にした。ただ一つの、正しい因果を紡ぎ直すために。
修正が完了した瞬間、カイを構成していた全ての「重さ」は、新しい世界を構築するためのエネルギーとして爆発的に解放された。彼の肉体、彼の記憶、カイという重憶師が存在したという事実そのものが、因果の奔流の中で綺麗に洗い流されていく。
最後に彼の意識に浮かんだのは、あの老婦人の穏やかな笑顔だった。心が、少しだけ温かいです。その言葉が、彼にとっての唯一の救いだった。
時間が、再びゆっくりと動き出す。
空を覆っていた鈍色の雲は跡形もなく消え去り、生まれたてのような青空がどこまでも広がっていた。人々はふと空を見上げ、理由もわからず晴れやかな気持ちになる。もう「記憶の雨」が降ることはない。「重憶師」という職業も、人々が記憶の「重さ」に苦しむという概念そのものも、この世界からは消え失せていた。過去はただの記録となり、人々は未来への希望だけを胸に、軽やかに歩き出す。
カイが住んでいたアトリエの部屋は、がらんとしている。まるで最初から誰も住んでいなかったかのように。ただ、窓辺の埃ひとつない床の上に、古びた真鍮の羅針盤だけが一つ、静かに置かれていた。
その針はもうどこも指さず、ただ差し込む陽光を浴びて、新しい世界の始まりを祝福するかのように、穏やかにきらめいていた。