『魔王ママの育児日誌 ~世界を滅ぼすその手で、ミルクの適温を測る~』

『魔王ママの育児日誌 ~世界を滅ぼすその手で、ミルクの適温を測る~』

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第一章 アルゴリズムの敗北

午前三時二分。世界が最も深く沈黙する刻限。

俺の指先が、その震えを止めるために小刻みに痙攣している。

目の前にあるのは、一国の軍隊を壊滅させる戦略地図ではない。

ただの、プラスチック製の哺乳瓶だ。

湯冷ましの適温は四十度。

だが、俺の皮膚はマグマの熱すら「温かい」と感じる強度を持つ。

手首の内側にミルクを一滴垂らす。

熱いのか、冷たいのか。俺の耐熱仕様の神経では、その微細な差が判別できない。

「……ええい、ままよ」

俺は覚悟を決めた。

かつて禁呪の詠唱ですら噛んだことのない舌打ちをしつつ、リビングへと急ぐ。

足音は消した。忍び足ではない。重力制御だ。

だが、その努力を嘲笑うように、暗闇からサイレンが鳴り響いた。

『フギャアアアアッ!!』

レオだ。

ベビーベッドの柵を掴む俺の手に、思わず力が入る。

ミシッ、と不穏な音がして、鋼鉄よりも硬い樫の木が飴細工のように捻じれた。

「しまった……!」

慌てて手を離す。

危ないところだった。あと数ニュートン力を込めていれば、ベッドごとこの部屋の床を踏み抜いていた。

レオの顔は茹でダコのように赤い。

口を大きく開け、肺の中の空気をすべて振動エネルギーに変換している。

俺の瞳孔が縦に裂け、蒼く輝く。

《魔眼・起動》。

視界に幾何学模様の陣が展開される。

対象:レオ・ヴァーミリオン(生後六ヶ月)

心拍数:140

体温:37.2度

おむつ吸水率:12%(ドライ状態)

「異常なし。すべて正常値だ」

俺は哺乳瓶をレオの口元へ運ぶ。

だが、レオは顔を背け、さらに激しく泣き叫んだ。

ミルクじゃない。おむつでもない。室温も湿度も、俺が計算し尽くした「最適解」のはずだ。

なぜだ。

なぜ、俺のアルゴリズムが通用しない?

俺は、魔界全土を支配したアズラエルだ。

恐怖と論理で万物を統べた王だ。

それなのに、たった六キログラムの生命体を制御できないというのか。

ポケットのスマホが振動する。

俺が運営するブログ『魔王パパの育児戦線』への通知だ。

記事タイトル:【緊急】夜泣き対応求ム。ミルク拒否。抱っこ無効。

《揺れ方が一定すぎるんじゃね? もっと不規則に!》

《ママの匂いが恋しいのかも。パパの古着とか置いてみて》

《一旦、外の空気吸わせてみたら?》

人間たちの言葉が、羅列される。

かつてなら「雑音」として処理していたデータ群。

だが今は、これこそが俺の生命線だ。

「不規則な揺れ……カオス理論か」

俺はレオを抱き上げた。

慣れない手つきで、首を支える。

柔らかい。壊れそうだ。

ドラゴンの鱗よりも脆く、スライムよりも形が定まらない。

この小さな背中に、俺の掌は大きすぎる。

ゆっくりと、膝を使ってリズムを刻む。

一定にならないよう、あえて筋肉の収縮をランダムに制御する。

その時だった。

背筋を、氷柱で突き刺されたような悪寒が走った。

レオの泣き声とは違う。

もっと粘着質で、腐った泥のような気配。

窓の外ではない。

玄関のドアの向こう。

分厚い鉄扉を透過して、殺気が滲み込んできている。

「……嗅ぎつけたか」

俺はレオを抱く腕に、ほんの僅かだけ力を込めた。

哺乳瓶をサイドテーブルに置く。コト、という音が、やけに大きく響いた。

ミルクは、まだ温かい。

だが、それを飲ませる時間はなさそうだ。

第二章 抱っこ紐と殺意の夜

チャイムは鳴らなかった。

代わりに、ドアの鍵穴が内側から溶かされるような、ジュルリという湿った音がした。

俺はとっさに近くにあった『多機能抱っこ紐(通気性抜群モデル)』を掴み取る。

戦場において、片手が塞がっているのは死を意味する。

装着時間は三秒。

バックルを留める「カチッ」という音が、まるで銃の安全装置を外す音のように静寂を切り裂いた。

レオが胸元でぐずり出す。

俺の心拍数の上昇を感知したのか、それとも殺気の冷たさに怯えたのか。

「シーッ……静かに。かくれんぼだ」

俺は低く囁き、キッチンの陰に身を滑らせる。

その直後。

玄関のドアが、音もなく内側へと倒れ込んだ。

現れたのは、人ではない。

影だ。

廊下の灯りを吸い込み、輪郭を曖昧に揺らめかせる、不定形の黒い霧。

クロノスを殺した『虚無の教団』の手先。

物理干渉を無効化する、厄介な代物だ。

「……見つけたぞ、アズラエル」

声は鼓膜を震わせず、脳髄に直接響いてきた。

ガラスを爪で引っ掻くような不快な周波数。

「その胸の幼子。忌むべき混血。引き渡せば、貴様の命だけは助けてやる」

「寝言は寝て言え」

俺は冷蔵庫の横から姿を現した。

右手には、愛用の魔剣――ではなく、フライパン(フッ素加工)が握られている。

「ほう。魔力を封じられた元魔王が、調理器具で我に抗うか」

影が嘲笑うように膨張した。

部屋の温度が急激に下がる。

キッチンカウンターに置いた観葉植物が、一瞬で枯れ落ちた。

まずい。レオには刺激が強すぎる。

『ウェ、ウェーン……!』

レオが泣き出した。

その声に反応するように、影から無数の触手が伸びる。

鞭のようにしなり、空気を裂いて俺たちを襲う。

俺は床を蹴った。

魔力強化を使わずとも、俺の筋力は常人のそれを凌駕する。

だが、速すぎればGでレオが潰れる。

遅すぎれば触手の餌食だ。

ギリギリの速度制御。

俺はダイニングテーブルの下を滑り抜け、触手の一撃をフライパンで受け止めた。

カーン!!

甲高い金属音が響き、フライパンの底がひしゃげる。

衝撃が腕を伝うが、俺は上半身を流体のように動かし、そのすべてを逃がした。

レオには、振動ひとつ伝えない。

「しつこい!」

俺はフライパンを投げつけ、影の注意を逸らすと、リビングの中央へと躍り出た。

しかし、影は部屋全体を侵食し始めていた。

壁紙が黒く染まり、床が沼のように波打つ。

「逃げ場はない。貴様のその『契約』が、貴様を縛り殺すのだ!」

そうだ。

俺には制約がある。

魔力を使えば、俺の存在を維持する『盟約』が破綻し、俺は消滅する。

使わなければ、この物理無効の影には触れることすらできない。

詰んでいる。

論理的には、生存確率はゼロだ。

レオの泣き声が、悲鳴に変わる。

その小さな手が、俺のTシャツをぎゅっと掴んだ。

爪が食い込む痛み。

熱い。

レオの体温が、抱っこ紐越しに俺の胸を焦がす。

「パパ……」

空耳か。

まだ言葉など話せるはずがない。

だが、その泣き声には明確な意思があった。

助けて。怖い。

パパ。

俺の思考回路が焼き切れる。

論理? 計算? 生存確率?

知ったことか。

俺は、片足を大きく踏み出し、床を踏み砕いた。

瓦礫が舞う中、俺はポケットに手を突っ込む。

武器はない。

あるのは、先ほどまであやすのに使おうとしていた、木製のガラガラだけだ。

「ガラクタだが……貴様にはお似合いだ」

俺はガラガラを握りしめ、迫りくる影の奔流を見据えた。

第三章 404 Not Found の正体

影が牙を剥く。

全方位からの飽和攻撃。回避不可能。

俺はレオを抱きかかえるように背を丸め、己の肉体を盾にした。

背中を、焼けた鉄棒で殴られたような激痛が走る。

皮膚が裂け、血が飛沫を上げる。

「ぐっ……!」

膝が折れそうになる。

だが、倒れるわけにはいかない。

俺が倒れれば、レオが地面に激突する。

『アウ……アウ……』

腕の中で、レオが俺を見上げていた。

涙で濡れた大きな瞳。

そこに映っているのは、恐怖ではない。

信頼だ。

無条件の、全幅の信頼。

この生き物は、俺が魔王であることも、世界を滅ぼした過去も知らない。

ただ、自分を守ってくれる「パパ」だと信じている。

その瞬間。

俺の脳裏に、ノイズのような映像がフラッシュバックした。

『契約書だよ、アズラエル』

クロノスの声。

あの日、血まみれの彼が俺に手渡そうとしたのは、羊皮紙でもデータでもなかった。

彼は、俺の胸に拳を押し当てていたのだ。

『読めるはずがないさ。お前はまだ、これを知らない』

ズキン、と心臓が脈打つ。

痛い。だが、不快ではない。

胸の奥から湧き上がる、熱くて、苦しくて、どうしようもなく甘い衝動。

これは魔力ではない。

エネルギー保存の法則を無視して、無限に湧き出るナニカだ。

俺の手の中で、ガラガラが音を立てた。

俺が振ったのではない。

震える俺の手に合わせて、レオが小さな手でガラガラを握り、一緒に振ったのだ。

カラン。

乾いた音が、波紋のように広がる。

その音色は、不思議なほど澄んでいた。

戦場には似つかわしくない、間の抜けた、優しい音。

「な、なんだ……!?」

影が動きを止めた。

ガラガラを中心にして、淡い金色の粒子が舞い上がる。

それは光ではない。

匂いだ。

温めたミルクのような、干した布団のような、日向のような匂い。

ブログの画面が、勝手に明滅する。

通知が止まらない。

何千、何万という「いいね」と「応援コメント」。

世界中の親たちが深夜に抱える孤独と、子供への祈り。

それらがネットワークを超え、このガラガラという触媒を通じて、ここに集束している。

「解析……完了」

俺は悟った。

エラーコード404。見つからなかったデータ。

それは、論理の外側にあったのだ。

俺は血に濡れた口元を歪め、笑った。

冷笑ではない。

不器用で、無様で、人間臭い笑みを。

「消えろ、亡霊ども。ここは子供部屋だ」

俺とレオは、同時にガラガラを振った。

カラン、コロン!!

爆発的な「暖かさ」が炸裂する。

それは衝撃波となって部屋中を駆け巡り、黒い影を洗い流していく。

影は断末魔を上げることもできず、朝露が蒸発するように霧散していった。

殺気が消える。

冷気も、腐臭も、すべてが金色の粒子に溶けていく。

残ったのは、静寂と、散乱した家具。

そして、腕の中でキャッキャと笑うレオの声だけだった。

最終章 夜明けのミルク

東の空が白み始めている。

割れた窓ガラスの隙間から、冷たくも清潔な風が吹き込んでいた。

俺はソファの残骸に腰を下ろした。

背中の傷が痛むが、不思議と心地よい疲労感だ。

抱っこ紐を解くと、レオは欠伸を一つして、俺の指を握りしめた。

その指の強さが、俺の存在を現世に繋ぎ止めている錨のように感じる。

「……腹が減ったか?」

俺が尋ねると、レオは「あー」と満足げな声を返した。

サイドテーブルの上の哺乳瓶を見る。

完全に冷めている。

「作り直しだな」

俺は立ち上がろうとして、よろけた。

魔力も体力も空っぽだ。

だが、足取りは軽い。

キッチンへ向かう。

お湯を沸かし、粉ミルクを計量スプーンですりきり一杯、二杯。

正確無比な動作は変わらないが、そこにかつてのような張り詰めた緊張感はない。

手首にミルクを垂らす。

ほんのりとした温かさが、皮膚を通して伝わってくる。

「……40度。よし」

なぜか今回は、自信を持って判断できた。

測定器などいらない。

レオが飲みやすい温度かどうか。

それを思うだけで、正解は分かった。

リビングに戻り、レオに哺乳瓶を含ませる。

チュパチュパと音を立てて飲み始める我が子。

その柔らかな重みを腕に感じながら、俺はふと、窓ガラスに映る自分を見た。

髪はボサボサ。服は血と埃まみれ。目の下には濃いクマ。

魔王の威厳など欠片もない。

「ひどい顔だ」

俺は苦笑し、レオの額にキスを落とした。

世界を滅ぼすことはもうないだろう。

だが、この小さな命を守るための戦いは、毎晩続く。

俺はスマホを取り出し、ブログに短い一文を投稿した。

『件名:解決しました』

『本文:皆様のアドバイスのおかげで、無事に夜を越せそうです。少し不格好ですが、パパとしての一歩を踏み出せた気がします。ありがとう』

送信ボタンを押すと同時に、レオが飲み終わった哺乳瓶を離し、満足げに寝息を立て始めた。

「おやすみ、レオ」

俺は朝日の中で、泥のように眠る小さな勇者を、いつまでも抱きしめていた。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
魔王アズラエルは、論理で世界を支配したが、育児で「アルゴリズムの敗北」を経験。息子レオの無垢な信頼と「パパ」という呼び声により、論理を超えた親としての愛情と本能に目覚める。壊れやすい命を守る中で、自己犠牲の精神が芽生え、人間的な感情を獲得していく。

**伏線の解説**
クロノスの「契約」は単なる能力制限ではなく、アズラエルの胸に宿る「愛」そのものだった。ガラガラや育児ブログは、世界中の親たちの「暖かさ」や祈りを集約し、論理では解決できない「エラーコード404(感情)」を具現化する触媒として機能した。

**テーマ**
本作は、絶対的な論理で世界を統べた魔王が、育児を通して非合理な「愛」や「親性」を理解し、人間的な成長を遂げる物語。同時に、SNSを通じた他者との繋がりや共感が、物理的な脅威をも凌駕する「暖かさ」となる現代の絆の形を描いている。
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