『推しが死ぬ世界線を変えるまで』
第一章 青い光と、ノイズ混じりの予言
午前二時。PCの冷却ファンが唸りを上げ、カップ麺の豚骨スープが酸化した匂いが六畳一間に澱んでいる。
トリプルディスプレイの中央、4K画質の映像の中で、アイドルグループの絶対的センター『アーク・ノア』が観衆に手を振った。
「……違う」
私はマウスを握る指に力を込めた。コマ送り。拡大。
汗の粒子の大きさが、三曲目よりコンマ数ミリ肥大している。マイクを握る人差し指の角度が、定位置より二度ズレている。そして何より、瞬きの回数が平時より一分間に四回多い。
――右足だ。彼は右足首の靭帯損傷を、鎮痛剤で散らして隠している。
コンビニで「温めますか」と聞かれるだけで喉が引きつる社会不適合者の私だが、ここインターネットの海では、0.1秒の挙動から真実を抉り出す『ゴッドハンド』として君臨していた。
その時、机の隅で放置されていた謎の端末『ディメンション・フォン』が、まるで生き物のように振動した。
『LIVE:聖暦4024年 アーク・ノアの処刑』
画面をタップした瞬間、極彩色のステージは消え失せた。
荒涼とした赤土の大地。鎖に繋がれた男。
それはCGでも合成でもない。風に舞う砂埃が彼のまつ毛に付着し、涙で滲む過程――その物理演算を超えた生々しさを、私の脳が「現実」だと即断した。
アークが血を吐く。上空から巨大な竜が火球を構える。
「……ッ!」
指先が氷のように冷たくなる。心臓の鼓動がうるさくて、PCの排気音が聞こえない。
思考しろ。感情を殺せ。情報を食らえ。
竜の顎の角度、風向き、鎖の張力。
アークは右足を庇っている。なら、右への回避は致命傷になる。
私は震える指で、裏アカウントの投稿欄に叩き込んだ。
『右は捨てろ。鎖の支点は左後方3メートル。そこにある石碑の影だけが、ブレスの死角になる』
エンターキーを叩いた瞬間、スマホが発光し、文字が光の粒子となって画面へ吸い込まれた。
次の瞬間、画面の中のアークが弾かれたように左後方へ跳んだ。
刹那、彼のいた場所を業火が焼き尽くす。
彼は、生きていた。煤けた顔で、何もない虚空を見上げていた。
第二章 神という名の同担拒否
それから数日、私は眼球が乾ききって痛みを発するまでモニターに張り付いていた。
敵は『神(アークテクト)』と呼ばれる世界の管理者。
漆黒のローブと仮面で姿を隠したその存在は、執拗に、あまりに的確にアークの弱点を突いてくる。まるで、彼のアレルギーから古傷の位置まで、すべてを知り尽くしているかのように。
「なんで……」
私の動体視力が、違和感を捉えた。
神がアークを追い詰め、止めの一撃を放とうとした瞬間。
神の左手の小指が、微かに――本当に微かに、痙攣したのだ。
思考がスパークする。
あれは、アークの癖だ。彼がインタビューで嘘をつく時、あるいはファンに心配をかけまいと痛みを隠す時、必ずあの指が動く。
まさか。
私の脳内で、神の挙動データとアークのプロファイルが合致する。戦闘スタイル、呼吸の間合い、そしてあの、罪悪感に塗れたような指の震え。
「……自分、なの?」
神の正体は、アーク・ノア自身だ。
おそらくは、世界を救えず絶望し、システムに取り込まれた未来、あるいは別次元の彼。
『過去の自分を殺せば、この終わらない苦しみから解放してやれる』
そんな歪んだ慈悲が、仮面の下から透けて見えた。
「ふざけないでよ……」
胃の底から熱いものが込み上げる。
自分を殺して世界を安定させる? そんなバッドエンド、私が考察するまでもない駄作だ。
「あんたが自分を愛せないなら、私がその何億倍も愛してやる。覚えとけ、バカ推し」
第三章 一億人の「いいね」
最終決戦の時が来た。
神が纏う破滅の光に対し、アークは満身創痍だ。
私は震える手で、全世界に向けてメッセージを打ち込んだ。考察ではない。扇動だ。
『#SaveArkNoah
彼を殺させない。世界も壊させない。私たちの「観測」で、運命を確定させる。みんなの力を貸して。これは祭りじゃない、世界へのハッキングだ!』
送信。
最初の反応は冷淡だった。
『デマ乙』『痛い信者がなんか言ってる』『通報しました』
嘲笑の嵐。当然だ。だが、そのノイズの中に、確かな火種が落ちた。
『待って、このID……去年のドーム公演中止を、運営の発表より前に完璧に予言したアカウントだ』
古参のフォロワーが気づく。信頼という名の導火線に火が点く。
『マジか。こいつが言うならガチじゃね?』
『よく分からんが、このURL叩けばいいの?』
『推しを救えるなら何でもやるわ』
拡散が加速する。有名インフルエンサーが面白がって引用し、翻訳ボットが英語、中国語、スペイン語へと拡散していく。
野次馬根性、正義感、狂気、そして純粋な愛。
あらゆる感情が「いいね」という名のエネルギーに変換され、私のスマホへ雪崩れ込む。
『警告。運命干渉値、計測不能――』
スマホが焼けるように熱い。
「行けぇええええッ!!」
私の絶叫と共に、六畳一間が黄金の光に包まれた。
画面の向こう、エテルニアの空に、一億の流星が降り注ぐ。
それは、神を穿つ槍ではない。アークを守る盾であり、道を示す光だ。
圧倒的な「肯定」の奔流が、神の仮面を砕く。
露わになったその素顔は、泣いていた。
現在のアークが、未来のアーク(神)の手を取る。
二つの存在が光の中で溶け合い、一つの言葉が世界に刻まれた。
『運命:再演(アンコール)』
終章 画面越しのハイタッチ
あれから、季節が一つ過ぎた。
『ディメンション・フォン』は沈黙し、ただの黒い板に戻った。
「……ありがとうございました」
コンビニのレジカウンター。客に頭を下げる私の声は、まだ少し震えている。
けれど、以前のように床を見つめることはなくなった。あの夜、世界中の意思を束ねて叫んだ記憶が、私の背骨を一本通してくれた気がする。
休憩時間、ロッカールームのパイプ椅子に座り、スマホを開く。
アーク・ノアは今日もトップアイドルとして、画面の中で完璧な笑顔を振り撒いている。
異世界での記憶があるのか、それは分からない。
私はいつものように、彼の新曲告知ポストを開いた。
ふと、通知欄に目が止まる。
私の、あの日、世界を変えたあの投稿。
そこにたった今、通知が届いた。
『アーク・ノアさんが、あなたの投稿に「いいね」しました』
心臓が跳ねる。
数億分の一の気まぐれ。スタッフの誤操作。
合理的な理由はいくらでも思いつく。
だが、画面の中のアークが、一瞬だけ――本当に一瞬だけ、左手の小指を立ててウィンクしたように見えた。
それは、私と彼だけが知る、共犯者の合図。
「……やっぱり、推せるなぁ」
私は熱くなった目頭を袖で拭い、スマホを胸に抱きしめた。
バックヤードの窓から差し込む西日が、狭い部屋を優しく照らしている。
世界は今日も、泣きたくなるほど美しい。