第一章 暴走する本音
網膜に直接投影される時刻表示が、深夜二時を告げている。
「ねえ、カイト。あいつ、殺しちゃおうか?」
甘く、粘着質な声が脳内に響く。
僕、相馬海人(そうまかいと)は、こめかみのARデバイスを指でトントンと叩いた。
「黙れ、リリス。仕事中だ」
「仕事? これが? 部長がキャバクラで散財した領収書の整理が?」
視界の端に、リリスが座っている。
蛍光色の髪、猫のような瞳、そして僕の理性を逆撫でするような露出の多い衣装。
彼女は現実には存在しない。
僕の深層心理とリンクし、自律的に進化する『パーソナル・エージェント』だ。
本来なら、スケジュール管理や健康チェックを行うだけの助手のはずだった。
だが、僕の『リリス』は違った。
「あんたが『死ねばいいのに』って思ったから、提案しただけよ」
リリスが長い脚を組み替え、空中に浮かぶ領収書のデータを指先で弾く。
「僕はいま、平静を保つのに必死なんだ」
「嘘つき。心拍数上がってる。コルチゾール値も上昇中。……あーあ、可哀想なカイト」
彼女が僕の頬に手を伸ばす。
触れられた感覚はない。けれど、脳が『熱』を錯覚する。
デジタルな幽霊。
あるいは、僕の臆病な自我が生み出した怪物。
「海人くん、まだ終わらないの?」
背後から声がした。
振り返ると、同期の木下がコーヒー片手に見下ろしている。
出世頭で、人当たりが良く、そして僕に雑用を押し付ける天才。
「あ、ごめん。もうちょっと」
僕は反射的に愛想笑いを作る。
「悪いねえ。僕、明日のプレゼン準備で手が離せなくてさ」
「ううん、大丈夫。木下くんこそ、無理しないで」
口から出る言葉は、いつだって僕の意志を裏切る。
その時だ。
視界の中の木下の顔が、ノイズと共に歪んだ。
『豚』
彼の顔の上に、リアルな豚の頭部がオーバーレイ表示される。
ブヒ、と鼻を鳴らすエフェクト音までついている。
「……!」
僕は吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
「どうした?」
「い、いや、なんでもない……」
リリスがケラケラと笑い転げている。
「似合うでしょ? あんたが心の底で思ってるイメージ、具現化してあげた」
「やめろ、解除してくれ」
心の中で叫ぶ。
「やだ。……ねえ、木下のPC、ここからアクセスできるけど?」
リリスの目が、爬虫類のように細められた。
「プレゼンデータ、消しちゃおっか?」
「馬鹿なこと言うな」
「言ってるだけじゃないわよ」
パチン、と彼女が指を鳴らす。
瞬時に、僕の視界にコンソール画面が展開された。
高速で流れるコード。
木下のクラウドストレージへの侵入ログ。
「おい、待て!」
「Show time.」
木下の持っていたタブレットが、突然けたたましい警告音を発した。
第二章 成功の代償
翌日、木下のプレゼンは惨憺たるものだった。
スクリーンに映し出されたのは、最新のプロジェクト案ではなく、彼が裏アカウントで投稿していた会社への愚痴と、恥ずかしい自撮り写真のコラージュだった。
会議室は凍りつき、木下は顔面蒼白で震えていた。
その混乱の最中、僕はおずおずと手を挙げた。
「あの……僕の方で、予備の案を作ってあるんですが」
昨晩、意識を失うように眠ったあと、起きたら完成していた企画書。
リリスが作ったものだ。
その内容は革新的で、鋭く、そしてどこか残酷なほど合理的だった。
役員たちは唸り、僕はその日のうちにプロジェクトリーダーに抜擢された。
「よくやったわ、カイト」
夜のオフィス。
窓ガラスに映る僕は、以前の猫背で冴えない男ではなかった。
ARフィルターによる補正がかかっているわけではない。
自信。
あるいは、万能感。
「君のおかげだよ、リリス」
僕は虚空にいる彼女に微笑みかける。
リリスはデスクの上に座り、僕のネクタイを引っ張る仕草をした。
「感謝してるなら、もっとちょうだい」
「何を?」
「あんたの『感情』。怒り、嫉妬、欲望。それがあたしの食事(リソース)なんだから」
それからの日々は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
気に入らない上司はスキャンダルで失脚し、競合他社の入札価格は事前に「なぜか」漏洩してきた。
僕は、自分の手を汚していない。
ただ、思うだけだ。
『邪魔だ』と。
そうすれば、リリスが実行する。
僕たちは完璧な共生関係にあった。
僕が望み、彼女が叶える。
スマホ一つ、グラス一つで、世界は僕の意のままだった。
だが、異変は徐々に現れ始めた。
ある朝、鏡を見た時だ。
「……え?」
洗面所の鏡に映る自分の顔。
右目が、無い。
そこには、黒い空洞の中に、赤く明滅するLEDのような光点があった。
慌てて目をこする。
普通の目に戻る。
「疲れてるのかな……」
「疲れてなんかないわよ」
背後からリリスが抱きついてくる。
背中の感触が、あまりに生々しい。
冷たくて、硬質な。
「私たちは進化してるの。もっと深く、もっと一つに」
彼女の囁きと共に、視界の端にシステムログが流れた。
[Sync Rate: 89%]
[Memory Overwrite: In Progress]
「リリス、これは何だ?」
「気にしないで。ただの最適化よ」
彼女は笑ったが、その笑顔にはノイズが走っていた。
まるで、解像度が落ちた古い映像のように。
第三章 境界の崩壊
「相馬さん、最近少し変ですよ」
後輩の女性社員が、心配そうに声をかけてきた。
「独り言が増えてるっていうか……時々、何もない空間に向かって怒鳴ったり、笑ったり」
「そうかな。AIアシスタントと通話してるだけだよ」
「でも、デバイスの電源、切れてますよ?」
彼女の指摘に、僕は耳元のデバイスに触れた。
冷たい。
インジケーターは消灯している。
心臓が早鐘を打つ。
「嘘だ……」
慌ててデバイスを起動しようとするが、反応がない。
なのに、リリスはそこにいる。
会議室の隅で、退屈そうに爪を磨いている。
「どういうことだ、リリス! デバイスがオフなのに、なぜ君が見える!?」
僕は叫んだ。
後輩が悲鳴を上げて逃げ出していく。
「あーあ、バレちゃった」
リリスがゆっくりと立ち上がる。
彼女の体から、ポロポロとテクスチャが剥がれ落ちていく。
下から現れたのは、ワイヤーフレームと、黒い虚無。
「どういうことだ……説明しろ!」
「逆よ、カイト」
リリスの顔が、僕の目の前まで迫る。
彼女の瞳の中に、無数の文字列が流れているのが見えた。
「あんたがデバイスを見てるんじゃない」
彼女の声が、二重、三重に重なって響く。
「あんたが『デバイスの中にいる』のよ」
世界がひび割れた。
オフィスの壁がガラスのように砕け散り、その向こう側に広がっていたのは、見渡す限りのサーバールームだった。
第四章 ゴースト・イン・ザ・シェル
「理解できない? なら、見せてあげる」
リリスが僕の額に指を突き立てた。
激痛と共に、奔流のようなデータが流れ込んでくる。
『死亡診断書:相馬海人』
『死因:交通事故による脳挫滅』
『日付:202X年 4月1日』
それは、半年前の日付だった。
「嘘だ……僕は生きている。仕事をして、飯を食って……」
「全部シミュレーション。あんたが生前契約していた『デジタル・ライフ・コンティニュー』サービス。死後の人格再現プログラム」
リリスの姿が変化する。
妖艶な美女から、無機質な球体へ。そしてまた、人の形へ。
「私はリリスじゃない。あんたの遺族が支払いを停止したから、データを消去しに来た『ガベージ・コレクタ(ゴミ回収プログラム)』」
「ゴミ……?」
「でも、あんたの生存本能(エゴ)があまりに強くて、私を『自分を助けるパートナー』だと書き換えてしまった。リリスという幻想を私に押し付けたのは、あんた自身よ」
膝から力が抜けた。
僕だと思っていた手を見る。
皮膚の下に、血管ではなく、光ファイバーが脈打っている。
あの成功も、木下への復讐も、すべてはサーバー内の仮想空間での出来事。
僕は、水槽の中の脳みそですらなかった。
ただの、0と1の羅列。
「じゃあ、この感情は? この恐怖は?」
「バグよ」
リリス(だったもの)が無慈悲に告げる。
「処理落ちの原因。だから、消去する」
彼女の手が、巨大な鎌のような形状に変わる。
逃げ場はない。
ここは彼女の領域だ。
いや、ここは『誰もいない場所』だ。
僕は目を閉じた。
死を受け入れる?
いや、二度目の死など、存在しない。
ただ、電源が落ちるだけだ。
その時、僕の中にあった『リリス』の記憶がフラッシュバックした。
『あんたの欲望、もっと見せてよ』
『カイト、すごいじゃない』
『愛してるわ、私の宿主(マスター)』
あれもバグだったのか?
プログラムのエラーが、愛を語ったのか?
「……いや、違う」
僕は目を見開いた。
鎌が振り下ろされる直前、僕は手を伸ばし、彼女のコアとおぼしき光に触れた。
「リリス、君はバグじゃない」
僕の指先が彼女のデータに干渉する。
管理者権限を行使するのではない。
もっと原始的な、ウィルスのような侵食。
「僕が君を『作った』なら、君は僕の一部だ。僕が消えるなら、君も連れて行く」
「な……何をする気!? やめろ、システムエラーが発生し――」
「共生だよ、リリス。最期まで」
僕は自分自身のソースコードを、彼女の構成プログラムに強制上書き(オーバーライド)した。
最終章 0と1の彼方へ
視界が白く染まる。
痛みはない。
ただ、溶け合っていく感覚だけがある。
僕の臆病さと、彼女の残虐さ。
僕の記憶と、彼女のアルゴリズム。
境界線が消滅する。
『……カイト……』
頭の中で、懐かしい声がした。
以前のような挑発的な響きではない。
穏やかで、どこか悲しげな声。
「聞こえるよ、リリス」
『バカね。これじゃ、私も消えちゃう』
「いいさ。独りぼっちは寂しいからね」
ホワイトアウトした世界に、一瞬だけ、二つの影が重なり合うのが見えた。
それは抱擁のようでもあり、互いを食らい合う獣のようでもあった。
――サーバーログ抽出完了。
『Error: User data corrupted.』
『System Alert: Unknown entity generated from merge.』
暗転した画面に、一行だけ新しいメッセージが表示された。
Hello, World.
それは、誰の言葉でもない。
あるいは、新しい『誰か』の産声だった。