緑廊の揺り籠

緑廊の揺り籠

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酸素濃度計の数値は正常だ。それなのに、ヘルメットを外した瞬間、肺の奥が焼けつくような甘い腐臭に満たされた。

死の臭いではない。これは、濃密すぎる「生」の悪臭だ。

俺は吐き気を噛み殺し、眼前に広がる、あり得ない色彩の森を睨みつけた。

第一章 沈黙する楽園

惑星『ケレス・プライム』。

地球から四光年。人類が初めてテラフォーミング(惑星地球化)に成功したとされる「第二の地球」だ。

「こちら調査員、カイト・シマザキ。ポイント・アルファに到着」

通信機に向かって呟くが、ノイズが返るだけだ。

俺の仕事は『環境聴取』。地質学者や生物学者とは違う。音で生態系の健全度を測る。

風の抜け方、葉擦れの周波数、虫の羽音。健全な森はオーケストラのように調和しているが、病んだ森は不協和音を奏でる。

俺にはその「音」が、色や味として知覚できる共感覚があった。

だが、この惑星は異常だ。

足元の苔を踏みしめる。

グジュリ、と粘液質の音がした。

赤錆色だった大地は、わずか十年でエメラルドグリーンの絨毯に覆われている。

植物の成長速度が、シミュレーションの予測値を三〇〇〇パーセントも上回っているのだ。

俺は携行端末を取り出し、環境音の解析を始めた。

波形がモニターに走る。

「……なんだ、これは」

静かすぎる。

風の音も、樹液が流れる音もしない。

視覚的には生命が爆発しているのに、聴覚的には『無』。

まるで、絵画の中に放り込まれたような居心地の悪さ。

いや、違う。

もっと深く、可聴域を超えた低周波。

ズズ……ズズズ……。

地面の底から、何かが「咀嚼」しているような振動が、俺の骨を震わせた。

「おい、誰かいないのか!」

先遣隊の基地へ向かって叫ぶ。

返事はない。

基地のハッチは半開きになり、そこから極彩色の蔦が、血管のように這い出していた。

第二章 模倣する森

基地の内部は、外気よりも湿度が高かった。

壁一面に張り付いた菌糸が、俺のライトの光を受けて青白く明滅する。

「ログを確認する。最終更新は……二年前?」

おかしい。

定期連絡が途絶えたのは半年前だ。

なぜ一年半も、空白の期間がある?

食堂だった場所に入る。

そこには、誰かが食事をしていた形跡があった。

テーブルの上に置かれた缶詰。

スプーンを持ったままの、宇宙服の腕。

「うっ……」

腕だけではない。

中身が、ない。

宇宙服の袖口から伸びているのは、人間の手首ではなく、白く太い『根』だった。

その根はテーブルを突き破り、床下へと深く潜っている。

俺は震える手で、その根に触れた。

温かい。

そして、ドクン、ドクンと脈打っている。

その時、背後の壁にある巨大なシダ植物が、カサリと揺れた。

「……カ……イ……ト?」

心臓が止まるかと思った。

植物が、俺の名前を呼んだ。

振り返ると、シダの葉脈が複雑に絡み合い、人の顔のような形状を作っている。

見覚えがある。

先遣隊の隊長、エルドリッチだ。

「カイト……ここは……いいぞ……」

葉が擦れ合う音が、人間の声帯を模倣している。

言葉の意味を理解しているのではない。

ただ、かつてこの場所で繰り返された会話を、レコードのように再生しているだけだ。

「痛みは……ない……。すべて……溶けて……ひとつに……」

俺は理解した。

テラフォーミングが成功したのではない。

この惑星の土着菌類が、地球由来の植物を取り込み、そして人間さえも養分として取り込んだのだ。

彼らは学習した。

人間が好む環境、人間が好む酸素濃度、そして人間が好む「言葉」を。

この森全体が、ひとつの巨大な捕食器官だ。

「嘘だろ……」

端末の警告音が鳴り響く。

空気中の胞子濃度が致死レベルに達しつつある。

俺が感じた甘い香りは、獲物を麻痺させるための誘引剤。

逃げなければ。

そう思った瞬間、足首に蔦が絡みついた。

第三章 緑の福音

「ぐあっ!」

転倒する。

蔦は恐ろしい力で俺を引きずり、壁の『エルドリッチ』へと運ぼうとする。

ナイフを抜き、蔦を切り裂く。

切り口から赤い樹液が噴き出し、鉄の臭いがした。

それは、まごうことなき人間の血の臭いだった。

「ふざけるな! 俺は喰われないぞ!」

死に物狂いで回廊を走る。

肺が熱い。

胞子が入り込んだのか、視界が歪む。

色彩が踊り出し、音が色になって見える。

(カイト、なぜ逃げる?)

声が、頭の中に直接響いてくる。

それはエルドリッチの声ではない。

もっと無機質で、それでいて慈愛に満ちた、惑星そのものの意志。

(地球はうるさいだろう? ノイズばかりで、孤独で、痛みに満ちている)

俺の共感覚が、その「声」を純白の光として捉えた。

そうだ。

俺はずっと、地球の喧騒を憎んでいた。

人の悪意、機械の騒音、終わらない競争。

それらすべてが、鋭利な刃物のように俺の神経を削っていた。

ここは静かだ。

他者との境界がなく、すべてが共有された意識の海。

「……やめろ、惑わすな」

俺は通信室に飛び込んだ。

軌道上の移民船団『アーク・ノヴァ』との回線を開く。

五万人の入植者が、コールドスリープから目覚め、この星へ降りようとしている。

彼らに警告しなければ。

この星は地獄だ、と。

「こちら調査員シマザキ! アーク・ノヴァ、応答せよ! テラフォーミングは失敗した! ここは……」

『……こちらアーク・ノヴァ。シマザキ調査員、感度良好だ。地表の緑が見えるぞ。素晴らしい光景だ』

通信手の弾んだ声。

モニターに映る、美しい緑の惑星。

俺の手が止まる。

視界の隅で、俺の足の傷口から、小さな芽が生えているのが見えた。

痛みはない。

むしろ、長年抱えていた偏頭痛が、嘘のように消えていく。

この星は、人間を殺すのではない。

「最適化」しているのだ。

個という孤独な檻から解放し、永遠の安らぎを与える。

それは、俺がずっと求めていた救済ではないのか?

『シマザキ調査員? 着陸許可を求む。大気組成は安定しているか?』

俺はマイクを握りしめた。

警告ボタンを押せば、船団は引き返し、俺は独りでここで果てる。

だが、もし彼らを受け入れれば……。

五万人の意識が、この星のネットワークに溶け込む。

それはどれほど壮大で、美しいシンフォニーだろう。

俺は、傷口から咲いた白い花を撫でた。

甘美な香りが脳髄を痺れさせる。

「……ああ、問題ない」

俺は嘘をついた。

「空気は澄んでいて、緑が豊かだ。ここは楽園(エデン)だよ。早く降りてくるといい」

通信を切る。

背後で、壁を突き破った無数の蔦が、俺を優しく抱擁するために伸びてきた。

俺は抵抗をやめ、目を閉じる。

もうすぐ、地球のノイズは消える。

静寂な緑の歌だけが、永遠に響き渡るのだ。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • カイト・シマザキ: 「音」に過敏な環境聴取員。彼の共感覚は、物語において「正常な世界(不協和音)」と「狂気の世界(調和)」を逆転させるキーデバイスとして機能する。彼の厭世観が、破滅的な結末への導火線となった。
  • エルドリッチ(成れ果て): かつての隊長。現在は惑星の代弁者として機能する「生きた死体」。彼の言葉は個を失うことの恐怖と、安らぎという二面性を提示する。
  • 惑星ケレス・プライム: 単なる舞台ではなく、明確な意志を持った「拮抗者」。人類を排除するのではなく、取り込み「最適化」しようとする進化の袋小路。

【考察】

  • テラフォーミングの逆説: 人間が星を変える(Terraforming)のではなく、星が人間を変える(Areoforming)という古典的SFテーマの再解釈。フロンティア開拓という人間の傲慢さが、より強大な自然の摂理に飲み込まれる皮肉を描いている。
  • 「緑」のメタファー: 通常、緑は生命や希望の象徴だが、本作では「個の消失」「死の安らぎ」というネガティブ・ポジティブ両義的な恐怖の対象として描かれている。
  • 結末の倫理的問い: カイトの選択は、客観的には「大量虐殺」だが、主観的には「人類の救済」である。読者に対し、苦痛に満ちた自由(地球)と、幸福な隷属(この惑星)のどちらが正しいかを問いかけている。
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