不完全な光のプリズム
第一章 百十七回目の月曜日
こめかみを万力で締め上げられるような頭痛と共に、意識が浮上する。
重たい瞼を持ち上げると、窓の外は鉛色の曇天だった。雨が降り出しそうな湿った土の匂いが、閉め切った部屋に澱んでいる。
身体が鉛のように重い。記憶は曖昧なのに、ふくらはぎの筋肉だけが、何千キロも歩き続けた後のように悲鳴を上げている。
オフィスに着くと、デスクの隣で佐藤がコンビニのおにぎりの包装を剥がしていた。海苔がパリリと割れる乾いた音。
「あ、おはよう」
佐藤は私の顔を見ず、パソコン画面の隅についた埃を人差し指で拭っている。背中のシャツには、昨日と同じ位置にアイロンじわが寄っていた。
この光景を見るのは、もう何度目だろう。
彼の指先のささくれ、オフィスの蛍光灯が一度だけチカついたタイミング、給湯室から漂う焦げたコーヒーの臭気。
すべてが既視感という生温い沼の中にある。
私は鞄から、昨日――いや、前の周回で購入したペンライトを取り出した。
新品のはずのプラスチックの筒は、何十年も風雨に晒されたように白濁し、表面には無数の細かい傷が走っている。
スイッチを入れる。
本来なら美しい「月光色」を放つはずのLEDが、接触不良を起こした街灯のように、明滅を繰り返しながら濁った赤紫色の光を吐き出した。
膿のような、痛々しい色。
スマートフォンの画面をタップする。動画サイトのトップには、月城瞬の新曲MV。
彼は笑っていた。けれど、その頬の筋肉は引きつり、極限まで張り詰めた弦のように痙攣している。
画面越しですら、彼が押し殺した過呼吸の音が聞こえてくるようだった。
第二章 愛という名の檻
握手会の列は、安っぽいコロンと汗の臭いが混じり合い、鼻腔を刺激する。
私の番が来た。
目の前の月城瞬は、剥製のように美しかった。ファンデーションで塗り固められた肌は陶器のようで、毛穴ひとつない。
けれど、握った彼の手のひらは、氷のように冷たく、じっとりと濡れていた。
「……いつも、完璧な姿を見せてくれてありがとう」
私はいつものように、彼を崇める言葉を口にする。それが正解だと信じて。
その瞬間、瞬の瞳孔が開いた。
彼は反射的に私の手を振りほどこうとし、爪が私の手首に食い込む。鋭い痛みが走った。
「っ……」
「あ……ごめ、なさ……」
彼は小動物のように震えていた。笑顔を作ろうと口角を持ち上げるが、唇がわななき、引きつった笑みが醜く歪む。
その目には、私への感謝など微塵もない。あるのは、巨大な重圧に対する、純粋な恐怖だけだった。
剥製が動き出し、血を流している。
その時、気づいてしまった。
彼をこの永遠の七日間に閉じ込め、窒息させているのは、「変わらない完璧さ」を求め続ける私の視線そのものだと。
私の手首に残った赤い爪痕が、ずきずきと脈打った。
これが、私が彼に与え続けてきた痛みだったのだ。
第三章 泥だらけの輝き
ドーム会場の空気は、熱気と二酸化炭素で飽和し、むせ返るようだった。
五万人の歓声が、巨大な生き物の唸り声となって鼓膜を圧迫する。
ステージ中央、月城瞬が完璧なステップで踊っている。指先まで計算され尽くした動きは、人間味を削ぎ落とした精密機械のようだった。
私はポケットの中で、あの濁ったペンライトを握りしめた。表面のザラついた感触が、指の腹に食い込む。
周囲が一斉に、清廉な青白い光を掲げる。
その光の海の中で、私はひとり、傷だらけのペンライトを高く突き上げた。
薄汚れた赤紫色の光。
接触不良で不規則に点滅するその光は、会場の統一感を乱す、醜いノイズだった。
ステージ上の彼が、その異物に気づく。
彼の視線が、私の汚れた光に吸い寄せられ、止まる。
私は祈るのをやめた。応援するのもやめた。
ただ、その汚れた光を、暴力的に振り回した。
――見ろ。これが私だ。完璧じゃない、傷だらけで、薄汚れた現実だ。
瞬の動きが止まった。
音が消えるわけではない。彼だけが、振付を放棄したのだ。
流れるオケに取り残され、彼はステージの中央で棒立ちになった。
整えられた前髪が汗で額に張り付いている。
彼は私を見下ろし、そして、顔をくしゃくしゃに歪めた。
アイドルとしては失格の、あまりにも人間臭い、泣き出しそうな顔。
マイクが手から滑り落ち、床にぶつかる。
《ゴッ》
鈍く、重い衝撃音が、スピーカーを通して五万人の腹の底に響いた。
そのノイズが、世界の膜を破る合図だった。
私の手の中で、ペンライトの電池が焼き切れ、ふつりと光を失った。
最終章 明日への不協和音
目覚まし時計の電子音がうるさい。
叩き起こされた身体には、泥のような疲労感ではなく、昨日のライブで腕を振り回した心地よい筋肉痛が残っていた。
カーテンを開ける。
昨日の雨が嘘のように晴れているわけではない。相変わらずの曇天だ。けれど、窓ガラスを叩く雨粒の音が、昨日とは違うリズムを刻んでいる。
オフィスに着くと、私は自分のデスクでコーヒーを盛大にこぼしてしまった。
熱い液体がスカートに染み込み、火傷しそうな熱さが太腿に伝わる。
「うわ、派手にやったな」
隣の席の佐藤が、呆れた声を出した。
彼はため息交じりに自分のハンカチを放ってくる。
「貸してやるよ。洗って返せばいいから」
受け取ったハンカチは、ゴワゴワしていて肌触りが悪い。安っぽい洗剤の匂いがした。
佐藤の指先を見る。
パソコンのキーボードを叩きすぎたせいか、指先が少し平らになり、ささくれができている。
シャツの袖口は少し擦り切れ、背中は猫背で丸まっている。
どこにも「完璧」なんてない。
美しくもないし、輝いてもいない。
けれど、彼がキーボードを叩く《タタタン》という不規則なリズムは、私の心臓の鼓動と同じ、生きている人間の音だった。
「……ありがとう」
私が言うと、彼は「ん」とだけ言って、また画面の埃を指で拭った。
その無愛想な横顔を見ながら、私は不格好なハンカチでスカートの染みを拭う。
取れない汚れが残るだろう。
でも、それでいい。
汚れも、傷も、痛みも、すべてが私たちが今日を生きている証なのだから。