第一章 硝子の境界線
「紅茶の温度は、これで最適でしょうか」
白磁のカップから立ち上る湯気の向こうで、ザイロスは微笑んだ。
透き通るような銀髪、非の打ち所がない美貌。人間と変わらぬ姿をしているが、エララの本能は警鐘を鳴らし続けている。
彼の瞳には、瞳孔がない。ただ一面に広がる、凍てついた湖面のような青。
「……ええ、ありがとう。ザイロス卿」
エララは震える指先を隠すように、カップを両手で包み込んだ。
彼女は『対話官』だ。人語を解する魔族との交渉を専門とする、人類側の唯一の窓口。
だが、言葉が通じることと、話が通じることは同義ではない。
「それで、エララ。君が今日、わざわざ僕の庭園を訪れた理由は? ただの茶会ではないのでしょう」
ザイロスが長い足を組み替える。
その仕草は優雅で、どこか作り物めいていた。
「孤児院で発生した『赤錆病』のことです」
エララは意を決して切り出した。
「人間には治療法がありません。ですが、あなた方の持つ『聖水』ならば、初期段階で浄化できると聞きました」
「ふむ」
ザイロスは興味深そうに首を傾げる。
「赤錆病。感染力が高く、致死率は九割。放置すれば集落全体が腐り落ちる」
「そうです。お願いします、聖水を分けていただけませんか。対価は支払います。私の寿命でも、魔力でも」
テーブルに身を乗り出すエララ。
ザイロスは瞬きもしない。
数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。
やがて、彼は満足げに頷いた。
「対価など不要ですよ、エララ」
「え……?」
「君たちは僕の庭に住まう、愛らしい小動物のようなものだ。庭の環境を整えるのは、管理者の義務ですからね」
ザイロスの声は、慈愛に満ちていた。
「助けて……くれるのですか?」
「もちろんです。問題の解決は、早ければ早いほどいい。君がここに来る前に、既に『処置』の準備は進めておきました」
エララの胸に、安堵と希望が広がる。
(よかった。この人は、話せば分かってくれる)
魔族は冷酷だと言われてきたが、彼には知性がある。理屈が通じる。
「ありがとうございます、ザイロス卿! 子供たちも喜びます」
「礼には及びません。さあ、冷めないうちにスコーンをどうぞ」
甘い香りが部屋に満ちる。
窓の外、遠くの空に、黒い煙が細く立ち上っていることに、エララはまだ気づいていなかった。
第二章 最適解の提示
茶会を終え、エララはザイロスと共に孤児院へ向かう馬車に乗っていた。
道中、ザイロスは上機嫌に語った。
「君たちの種は、実に脆い。だが、その脆さが美しいとも言える」
「……私たちは、あなた方のように強くはありませんから」
「ええ。だからこそ、管理が必要だ。病んだ枝葉をそのままにすれば、木全体が枯れてしまう」
「枝葉……?」
違和感が、棘のように喉に引っかかる。
馬車が孤児院の前で止まった。
そこにあるはずの喧騒がなかった。
子供たちの笑い声も、病に苦しむ呻き声も。
静寂。
「着きましたよ」
ザイロスが手を差し伸べる。
エララは馬車を降り、呆然と立ち尽くした。
孤児院の建物がない。
正確には、建物があった場所が、綺麗な更地になっていた。
まだ熱を帯びた黒い灰が、風に舞っている。
「……なん、です……これ」
「完璧な処置でしょう?」
ザイロスは誇らしげに、灰の原を指差した。
「赤錆病の感染源は、あの建物と、そこにいた個体群でした。聖水を一滴ずつ与えるよりも、感染源ごと焼却滅菌するのが、最も効率的で確実な防疫です」
エララの脳が理解を拒絶する。
「個体、群……? 子供たちが、中にいたのよ」
「ええ。二十三名。全員が感染、もしくは濃厚接触者でしたから」
ザイロスの声には、一点の曇りもない。
悪意など微塵もない。
ただ純粋な、数式の答え合わせのような響き。
「殺したの……? 全員?」
「『剪定』です」
彼は優しく訂正した。
「病んだ枝を切り落とさなければ、隣接する街にまで病魔が広がっていたでしょう。二十三を失うことで、数千を救った。実に合理的な損益計算だ」
エララの膝から力が抜けた。
その場に崩れ落ち、灰を握りしめる。
「助けてって……言ったじゃない!」
「ええ。だから助けました。人類という『種』を」
第三章 届かぬ悲鳴
「ふざけるな!」
エララは絶叫した。
涙で視界が歪む。
「あの子たちは、生きていたの! 名前があって、未来があって……それを、枝みたいに!」
彼女はザイロスの胸板を叩いた。
何度も、何度も。
だが、ザイロスは動じない。
むしろ、困惑したように眉を寄せている。
「エララ、なぜ泣くのです?」
「……っ!?」
「計算が間違っていましたか? 二十三より、数千の方が多い。これは絶対的な真理だ。君は街を守りたいと願った。だから僕は、最も確実な手段で願いを叶えた」
彼の手が、エララの濡れた頬に触れる。
その手は、子供たちを灰にした炎を操った手だ。
恐ろしいほどに優しく、冷たい。
「感謝されるとは思っていましたが……叱責される理由が分からない」
ザイロスは本気で言っている。
その「分からない」という事実こそが、エララにとって最大の絶望だった。
彼は悪魔ではない。
嗜虐趣味もない。
ただ、倫理のOSが、人間とは決定的に異なっているのだ。
「あなたは……化け物よ」
「ひどい言い草だ」
ザイロスは悲しげに溜息をつき、ポケットからハンカチを取り出した。
「次はもっと上手くやりますよ。君が笑顔になるように」
彼はエララの涙を拭う。
「隣の地区でも、食糧難が起きているそうですね。口減らしが必要なら、いつでも言ってください。苦痛を与えず、一瞬で『処理』してあげますから」
「やめて……」
「遠慮はいりません。私たちは良き隣人、良きパートナーなのですから」
ザイロスは美しく微笑んだ。
その笑顔は、エララが見たどんな悪夢よりも、深く、暗い絶望を湛えていた。
言葉は通じる。
意思の疎通もできる。
けれど、この心の断絶だけは、永遠に埋まることはない。
灰を含んだ風が吹き抜け、エララの嗚咽だけが、更地に虚しく響き渡った。