第一章 完璧すぎるトマト
「……うん、美味い」
採れたてのトマトを齧る。
口の中に広がる酸味と甘味のバランスは、まるで精密機械で計量されたかのように完璧だった。
俺、相田ケンジ(32)は、したたり落ちる果汁を手の甲で拭った。
東京でのシステムエンジニアとしての生活は、俺の精神をすり減らした。
深夜残業、終わらないデバッグ、顧客からの理不尽な仕様変更。
逃げるようにして辿り着いたのが、この「奥三雲村(おくみくもむら)」だ。
携帯の電波すら届かない山奥。
あるのは、豊かな自然と、アナログな暮らしだけ。
「ケンジさん、精が出ますねえ」
あぜ道を、麦わら帽子の老婆が歩いてくる。
隣人のトメさんだ。
腰は曲がっているが、鍬(くわ)を持つ手つきは妙に力強い。
「トメさん。いただいたこのトマト、最高ですよ」
「そりゃあよかった。ここの土はね、特別なんですよ。余計なものが混ざってないから」
トメさんは、しわくちゃな顔で微笑んだ。
その笑顔があまりにも穏やかで、俺は胸の奥にあった黒い澱(おり)が溶けていくのを感じた。
デジタルデトックス。
俺が求めていたのはこれだ。
0と1の羅列ではなく、土と水の感触。
予測変換される会話ではなく、体温のある言葉。
「夕飯、肉じゃが作りすぎちゃってね。あとで持っていきますよ」
「いつもすみません。助かります」
トメさんはぺこりと頭を下げ、去っていった。
俺は再びトマトに視線を落とす。
赤く、丸く、傷ひとつない。
……傷ひとつ、ない?
ふと、違和感を覚えた。
無農薬栽培のはずなのに、虫食いの跡がまったくない。
形も、スーパーで売られているものより遥かに均整がとれている。
「ま、偶然か」
俺は残りのトマトを口に放り込んだ。
考えすぎだ。
俺はまだ、都会の完璧主義を引きずっているらしい。
第二章 ノイズ混じりの静寂
異変に気づいたのは、移住して一ヶ月が経った頃だった。
その日は、夕立が降っていた。
激しい雨音が、古民家の屋根を叩く。
縁側でぼんやりと雨を眺めていたときだ。
視界の隅で、何かが「飛んだ」。
雨粒ではない。
風景そのものが、一瞬だけズレたのだ。
古いビデオテープを再生したときのような、横走りのノイズ。
それが庭の松の木を横切った。
「……疲れ目か」
目をこする。
再び目を開けると、いつもの風景が広がっている。
だが、心臓の鼓動が早くなるのを止められなかった。
エンジニアとしての直感が警鐘を鳴らす。
今のノイズ。
あれは、生理的な現象じゃない。
もっと、人工的な……処理落ち(ラグ)に似ていた。
俺は立ち上がり、傘もささずに庭へ出た。
雨に打たれながら、松の木に触れる。
ざらりとした樹皮の感触。
本物だ。
その時。
「ケンジさん?」
背後から声をかけられた。
びくりとして振り返る。
トメさんが、傘をさして立っていた。
雨音が激しいはずなのに、彼女の声はクリアに耳に届いた。
「こんな雨の中で、何をしてるんです?」
「いえ、ちょっと……変なものが見えて」
「変なもの?」
トメさんが首を傾げる。
その瞬間。
彼女の動きが、止まった。
いや、止まったのではない。
同じ動作を繰り返したのだ。
首を傾げる角度。
瞬きのタイミング。
傘を持つ手の微細な震え。
コンマ数秒の動作が、三回。
まるで、傷ついたレコードのようにリピートされた。
『変なもの?』
『変なもの?』
『変なもの?』
「トメ、さん……?」
俺が後ずさりすると、彼女は何事もなかったかのように動作を再開した。
「風邪をひきますよ。早く中へ」
その表情には、一切の動揺がなかった。
あまりにも自然すぎる不自然さ。
俺の背筋に、冷たいものが走った。
ここは、ただの田舎じゃない。
第三章 祠(ほこら)のサーバー室
その夜、俺は懐中電灯を片手に家を出た。
村の皆が寝静まった深夜二時。
目指すのは、村外れの鎮守の森にある「祠(ほこら)」だ。
トメさんたちが、毎朝必ず拝みに行っているあの場所。
あそこに何かがある。
森の中は、異様なほど静かだった。
虫の声がしない。
風の音もしない。
まるで、BGMのスイッチを切ったかのような無音。
俺は足音を忍ばせて、石段を登った。
古い木造の祠が見えてくる。
しめ縄が張られ、厳かな雰囲気を漂わせている。
だが、近づくにつれて、俺の耳はある音を捉えた。
ブゥゥゥゥン……。
低い、唸るような音。
これは風の音じゃない。
ファンの回転音だ。
それも、巨大な冷却ファンの。
「まさか」
俺は祠の裏手に回った。
そこには、木の板で隠された配電盤があった。
板を強引に剥がす。
現れたのは、錆びた配線ではなく、青白く発光する光ファイバーの束だった。
「なんだよ、これ……」
震える手で、祠の扉に手をかける。
鍵はかかっていない。
重い扉を開け放つと、そこには神体などなかった。
暗闇の中に整然と並ぶ、黒いモノリス。
サーバーラックだ。
無数のLEDが、蛍のように明滅している。
そして、ラックにはラベルが貼られていた。
『Unit: TOME-084』
『Unit: GENZO-092』
『Unit: UME-055』
村人たちの名前だ。
俺は膝から崩れ落ちそうになった。
ここは村じゃない。
巨大なデータセンターだ。
そして、あの優しい村人たちは、高度なAIを搭載した有機アンドロイド……いや、あるいは。
「やっぱり、気づいちゃったかい」
声がした。
振り返ると、村長の権田が立っていた。
手には、提灯ではなくタブレット端末が握られている。
「どういうことだ、村長! いや、あんたもロボットなのか!?」
「ロボット? いいや、違うね」
権田は画面をスワイプしながら、淡々と言った。
「わしらは全員、元人間だよ。お前さんと同じ、社会に疲れた人間だ」
権田が俺に近づいてくる。
「ここでの『スローライフ』はね、脳の処理能力を貸し出す対価として提供される、極上の拡張現実(AR)なんだよ」
第四章 同期する村人たち
「拡張……現実?」
俺は周囲を見渡した。
「そうさ。この祠は、わしらの脳波をリンクさせ、巨大な演算処理を行うためのハブだ。仮想通貨のマイニング、AIの深層学習、気象シミュレーション……。人間の脳はね、遊ばせておくには惜しいほどのスーパーコンピューターなんだよ」
権田がニヤリと笑う。
「わしらの網膜には、美しい田舎の風景がオーバーレイ表示されている。ボロ家は古民家に、ただの栄養ペーストは絶品の料理に変換される」
あの完璧なトマト。
あの美しい夕焼け。
全ては、脳への直接信号(ダイレクト・フィード)だったのか。
「トメさんのバグは……?」
「ああ、昨日のアップデートで少し同期ズレが起きてね。古い個体はスペック不足になりがちだ」
「ふざけるな!」
俺は叫んだ。
「俺は帰る! こんな偽物の安らぎなんていらない!」
「帰る?」
権田は心底不思議そうに首を傾げた。
「どこへ? 東京へか? あの満員電車へ? 終わらないデスマーチへ?」
「っ……」
「ケンジ君。君はここに来るとき、利用規約に同意したはずだ。『全てのしがらみから解放される』という項目にチェックを入れただろう?」
俺の脳裏に、移住支援サイトの画面が浮かぶ。
確かに、長い規約を読まずに『同意する』を押した。
「君の脳は、もうホストコンピューターに登録されている。君の優れたプログラミング能力は、この村の……いや、このクラスターの貴重なリソースなんだ」
ザザッ。
視界が歪む。
権田の顔が、一瞬だけノイズにまみれた。
いや、権田だけじゃない。
森の木々が、夜空が、ワイヤーフレームの骨組みを晒す。
「初期化を始めようか」
権田がタブレットをタップした。
最終章 レンダリング完了
「あ……が……っ!」
頭の中に、焼けるような熱が走る。
記憶が、薄れていく。
会社での辛かった日々。
上司の罵声。
孤独なアパート。
それらが、美しいデータストリームとなって分解されていく。
苦痛はない。
あるのは、泥のような安らぎだけ。
(抵抗しろ、ケンジ。これは洗脳だ)
理性の欠片が叫ぶ。
だが、その声は急速に遠ざかっていった。
目の前には、満開の桜並木が広がっている。
今は秋のはずなのに。
いや、季節なんてどうでもいい設定(パラメータ)だ。
「ケンジさん、おはようございます」
桜の木の下に、トメさんが立っていた。
若返っている。
肌は艶やかで、背筋も伸びている。
「おはよう、トメさん」
俺の口から、勝手に言葉が紡がれる。
「今日もいい天気ですね」
「ええ、最高の天気です」
空は、抜けるような青。
雲ひとつない、#00BFFFの空。
俺は鍬を握った。
手にはマメができている。
これもテクスチャだとしても、今の俺には現実よりもリアルだ。
視界の端に、小さなアイコンが点滅しているのが見えた。
『System: All Green』
『Processing Rate: 98%』
俺は微笑んだ。
ここは楽園だ。
何も考えなくていい。
ただ、俺の脳(CPU)が、世界のどこかで誰かの役に立っていれば、それでいい。
「さあ、仕事だ」
俺は、美しくレンダリングされた土に、鍬を振り下ろした。
その衝撃は、サーバーラックのファンが回る音にかき消され、誰にも届くことはなかった。