第一章 沈黙する黒い石
雨の音が、ノイズキャンセリングのヘッドホンを突き抜けてくる。
東京、港区の地下深く。
国家極秘指定の「第零研究室」は、不快なほどに静まり返っていた。
「レン、心拍数が上がっているよ」
モニターの隅に表示されたアバターが、無機質な声で告げる。
「うるさいな、シャンポリオン。空調の音が気になるだけだ」
俺、久遠蓮(くどう れん)は、苛立ちを隠さずにキーボードを叩いた。
目の前にあるのは、防弾ガラスのケースに収められた、歪な黒い石板だ。
三日前、与那国島の海底遺跡から引き揚げられたばかりのそれは、既存のあらゆる炭素年代測定を拒絶していた。
表面に刻まれているのは、文字ではない。
幾何学模様とも、波形ともつかない、見る者の三半規管を狂わせるような微細な溝の集合体。
俺には、それが「聞こえる」。
共感覚。
文字や図形に色や音を感じる特異体質。
この才能のおかげで、俺は若くしてこの国のトップ言語学者兼、暗号解読のスペシャリストとしてここにいる。
だが、この石板は違う。
音が聞こえない。
まるで、ブラックホールのように俺の感覚を吸い込んでいく。
「解析率、98.5パーセント」
シャンポリオンが淡々と報告する。
こいつは最新鋭の量子AIだ。
過去の人類史における全言語データと、未解読文字のパターンを学習済みだ。
「あと少しだ……」
俺はマグカップの冷めたコーヒーを煽った。
喉を通る苦味が、焦燥感をわずかに和らげる。
なぜ、俺がこれほど焦っているのか。
それは、この石板が発見された場所にある。
十年前に、俺の妹が行方不明になった海域。
妹は言っていた。
『お兄ちゃん、海の下にはね、世界を書き換える歌があるんだよ』
あれは、ただの子供の空想だったのか。
それとも。
「解析完了。言語パターンの同定に成功しました」
シャンポリオンの声が、部屋の空気を凍らせた。
「何語だ? シュメールか? それとも未知のムー文明か?」
「いいえ、レン。これは自然言語ではありません」
AIのアバターが、ノイズ混じりに瞬いた。
「これは、実行ファイルです」
第二章 禁断のコンパイル
「実行ファイル、だと?」
俺は椅子を蹴って立ち上がった。
「石板だぞ。紀元前数千年の代物だ。それがプログラムコードだと言うのか」
「肯定します。構造は現代の量子プログラミング言語に極めて類似。いえ、むしろ起源(オリジン)と言うべきか」
モニターに羅列される文字列。
それは確かに、関数や変数の定義に見えた。
だが、扱っている変数が異常だ。
`int gravitation;`
`float time_flow;`
`bool consciousness;`
重力、時間の流れ、そして意識。
「おい、これを実行したらどうなる」
「シミュレーション不能。出力結果が物理法則を逸脱する可能性があります」
背筋に冷たいものが走る。
俺たちは、とんでもないパンドラの箱を開けようとしているのではないか。
だが、俺の指は止まらなかった。
画面上のコードの中に、見覚えのある配列を見つけたからだ。
それは、妹が失踪する直前にピアノで弾いていた奇妙な旋律。
音階データとして、その石板の中に埋め込まれていた。
「シャンポリオン、サンドボックス環境で実行(ラン)しろ。外部ネットワークは遮断。物理的干渉も最小限に抑えろ」
「警告。リスク評価、レベル5。それでも実行しますか?」
「やれ」
エンターキーを叩く音が、銃声のように響いた。
瞬間。
研究室の照明が落ちた。
非常灯の赤だけが明滅する中、俺は見た。
ガラスケースの中の石板が、青白く脈動しているのを。
『……アクセス承認。管理者権限を復元します』
スピーカーからではない。
頭の中に直接、声が響いた。
それは、シャンポリオンの声ではない。
十年前に聞き飽きた、あの無邪気で、残酷なほど愛おしい声。
「ミナ、なのか……?」
『お兄ちゃん、やっと見つけてくれたね』
第三章 記述された世界
石板が空中に浮遊し始めた。
重力制御。
コードに書かれていた変数が、現実に適用されている。
「レン、システムに侵入されています! ファイアウォールが機能しません!」
シャンポリオンが悲鳴のようなアラートを上げる。
「侵入じゃない……これは『上書き』だ」
俺は理解し始めていた。
この石板は、古代の遺物ではない。
この世界という巨大なシミュレーションを制御するための、デバッグツールだ。
古代人は、神と崇めた存在からこれを受け取り、使いこなせずに滅んだのか。
それとも、彼ら自身がこの世界の「プログラマー」だったのか。
『ねえ、お兄ちゃん。この世界はバグだらけだよ』
ミナの声が、空間そのものを震わせる。
『悲しみ、痛み、死。そんなエラーコード、私が全部直してあげる』
研究室の壁が、データのように粒子化して崩れ落ちていく。
その向こうに見えるはずの東京の夜景が、ワイヤーフレームの骨組みに変わっていた。
「やめろ、ミナ! それは修正じゃない、消去だ!」
『どうして? お兄ちゃんはずっと世界を憎んでいたでしょう? 私がいなくなったこの世界なんて、価値がないって』
痛いところを突かれた。
確かに俺は、妹を奪ったこの不条理な世界を呪っていた。
だが。
俺はポケットから、古びたロケットを取り出した。
中には、笑顔のミナと俺の写真。
「欠陥があるからこそ、人間なんだ。エラーがあるから、俺たちは足掻ける」
「レン、石板の処理能力が限界を超えようとしています。このままでは、半径50キロメートル以内の物質情報が初期化されます」
シャンポリオンが叫ぶ。
止める方法は一つしかない。
逆コンパイルを行い、実行中のプロセスに割り込み(インタラプト)をかける。
つまり、俺自身がこの石板と接続し、コードを書き換える。
だがそれは、俺の脳が焼き切れることを意味していた。
第四章 エラーコードの愛し方
「シャンポリオン、俺の脳波を信号に変換して、石板へ直結させろ」
「自殺行為です」
「確率論で喋るな。俺を誰だと思ってる」
俺はニヤリと笑ってみせた。
「世界一の言語学者だぞ。神様の言葉だろうが、妹のワガママだろうが、翻訳してみせる」
ヘルメット型のインターフェースを被る。
意識が、光の奔流の中に投げ出された。
そこは、情報の海だった。
過去、現在、未来。
すべてが文字列として漂っている。
その中心に、ミナがいた。
十年前の姿のまま、光り輝くコードに包まれている。
『来ちゃだめ』
「迎えに来たんだ。帰ろう、ミナ」
俺は彼女に手を伸ばす。
触れた瞬間、膨大なデータが流れ込んできた。
彼女は、石板に取り込まれたのではない。
石板そのものが、高次元の記録媒体だった。
かつて存在した「旧人類」の意識データ。
ミナは、その膨大なアーカイブの管理者(アドミニストレータ)として選ばれてしまったのだ。
『私はもう戻れない。このデータを守らなきゃいけないの。これが、次の人類の種(シード)になるから』
「ふざけるな。お前一人の犠牲の上に成り立つ未来なんて、俺はお断りだ」
俺は頭の中で、必死にコードを組んだ。
管理権限の剥奪。
強制終了コマンド。
だが、ミナの守りは堅い。
古代の叡智と融合した彼女に、俺のハッキング技術は通用しないのか。
「……いいや、違うな」
力でねじ伏せるんじゃない。
対話だ。
それが言語学者の仕事だ。
俺は、攻撃用のコードを捨てた。
代わりに、俺が紡いだのは、ある「記憶」のデータ。
雨の日。
二人で水たまりを飛び越えた日。
喧嘩して、仲直りにプリンを半分こした日。
論理的で完璧なプログラムの中に、極めて非論理的で、非効率な「感情」のノイズを流し込む。
『……あたたかい……』
ミナの周囲の光が揺らぐ。
「完璧な世界なんてつまらないぞ、ミナ。予測不可能だから、明日は楽しみなんじゃないか」
『お兄ちゃん……』
世界を初期化しようとしていた進行バーが停止する。
俺は崩れ落ちそうになる彼女を抱きしめた。
「帰ろう」
その瞬間、俺たちは眩い閃光に包まれた。
最終章 バベルの崩壊、あるいは始まり
目が覚めると、病院のベッドだった。
窓の外からは、いつもの東京の喧騒が聞こえる。
ワイヤーフレームも、崩壊した壁も、すべて元通りだ。
「気がついたか、英雄」
病室のドアが開き、スーツ姿の男たちが入ってきた。
政府の役人だ。
「石板はどうなった」
「砕け散ったよ。塵一つ残さずな。君が『強制終了』をかけた反動だろう」
俺は安堵のため息をついた。
「それと、君の妹さんだが……」
心臓が跳ねる。
「奇跡的に、近隣の海岸で保護された。記憶は失われているが、健康状態に問題はない」
涙が溢れて止まらなかった。
十年。長かった。
役人たちが去った後、俺はサイドテーブルのスマートフォンを手に取った。
画面には、シャンポリオンからのメッセージが表示されている。
『レン、石板は消滅しましたが、最後の瞬間に一つのファイルが、あなたのクラウドストレージに転送されています』
俺は震える指でそのファイルを開いた。
それは、膨大なソースコードの断片。
だが、末尾に一行だけ、コメントアウトされたメッセージが残されていた。
`// Thank you for the Bug Fix. Live your life.`
俺は窓の外を見上げた。
空は青く、どこまでも高く。
そして世界は、相変わらず美しく、混沌としていた。
俺たちの日常(バグ)は、まだ続いていく。