第1章: 泥濘と神話の掃き溜め
鼻腔を焦がす、鉄錆と腐卵の煮凝り。
カナタは、油と煤でまだらに汚れたツナギの襟元を無造作に掴み、鬱陶しそうに鼻を擦った。ダンジョンの湿気を吸って重くなった黒髪。それが簾のように垂れ下がり、彼の色素の薄い瞳を完全に覆い隠す。背中には、身長に匹敵する巨大なモップ――柄に不可解なルーンを刻んだ古びた清掃用具――が、漬物石のように鎮座していた。
「……置いてかれた、か」
独り言一つ。それすらも、暗闇の底へ吸い込まれ、消える。
足元には、置き手紙代わりのドローンカメラが一台。レンズの赤い光が明滅している。それはまるで、これから訪れる死を記録しようとするハゲタカの瞳。
『画面映えしない』。
『君がいると、配信の雰囲気が暗くなるの』。
聖女エレナの、鈴を転がすような声。脳裏でのリフレイン。
カナタは溜息を一つ吐き、ドローンのレンズを指で小突く。配信がつながっていることなど知る由もない。ただ、これが自分の遺書代わりになればいい。抱いたのは、諦念混じりの願いだった。
地響き。
胃袋を直接揺さぶる重低音と共に、闇の奥から「それ」は現れた。
Sランク指定災害魔物、『深淵の巨像(アビス・コロッサス)』。
岩石と鉱物が融合した二十メートル超の巨躯。溶岩のように赤く爛れた双眸。一歩踏み出すたびに迷宮の床が悲鳴を上げ、粉砕される。
「あーあ……また床が汚れる」
カナタの口から漏れたのは、恐怖の悲鳴ではない。仕事が増えたことへの愚痴。
彼は背中のモップを引き抜く。バサリ、と空気を打つ古びた布束。
巨像の拳が、天蓋を突き破る勢いで振り下ろされた。
質量による暴力。生物としての格の違い。
だが、カナタは逃げない。ボサボサの前髪の奥、瞳が億劫そうに細められただけ。
「頑固な汚れだなあ」
迫りくる岩石の拳。触れる、モップの先端。
――刹那。
衝撃音、なし。
触れた箇所から、物理法則が剥離していく。
岩石の結合が解かれ、分子レベルまで分解され、ただの砂粒への還元。巨像の腕が、肩が、胴体が、さらさらと音を立てて崩れ落ちる。
それは戦闘ではない。清掃。
世界というキャンバスに付着した異物を、消しゴムで擦り消すだけの事務作業。
砂の山と化した「元・神話級魔物」。その前で、カナタはモップを振って埃を払った。
「……ん、ここ、まだ拭き取れてないな」
ポケットから取り出した雑巾。巨像の核だった宝石を、キュキュッと磨き上げる。
その光景を映し出すドローンカメラの向こう側。
接続されたままのコメント欄は、戦慄と理解不能の熱狂で、滝のように流れていた。
第2章: 認識の断絶
《配信コメント》
『え?』
『今のCG?』
『いや待て、あれSランクのコロッサスだろ? 一撃だぞ?』
『攻撃魔法じゃない……消えたぞ、物理的に』
『清掃員のお兄さん、何者???』
カナタは知らない。
自分が「ただの粗大ゴミ処理」だと思って行った作業が、地上では国家予算規模の討伐作戦に匹敵することを。
彼は淡々と、モップを走らせるのみ。
ダンジョンの壁にへばりつく粘液状の魔物(スライム)。
カナタにとっては「しつこいカビ」に過ぎない。
「よいしょ」
手首のスナップ一閃。魔物は悲鳴を上げる間もなく、純粋な水と酸素に分解。空気中へ霧散する。
「僕みたいな底辺は、綺麗にするしか能がないから」
モップをバケツの水ですすぎながら、カナタが独りごちる。
その背中は小さく、丸まっていた。常に誰かに謝っているような、存在そのものが恐縮しているような姿勢。
ツナギの袖口は解れ、肌には無数の切り傷。だが、彼は痛みを感じていないようだった。心に穿たれた穴の方が、遥かに深く、痛い。
《配信コメント》
『Old_Genji: お前ら、瞬き厳禁だぞ。これは神話の再現だ。三十年前に一度だけ見た、伝説の分解スキル……いや、それ以上の純度だ』
『Genjiニキが言うならマジか』
『底辺って言ってるけど、やってること神の御業なんだが』
『彼を捨てたパーティ、今ごろ顔面蒼白じゃね?』
一方、地上。
聖女エレナのチャンネルは炎上していた。
『清掃員を捨てて逃げた』という事実。カナタの映像が拡散されるにつれ、彼女の清廉なイメージをどす黒く塗りつぶしていく。
しかし、深淵にいるカナタにそんな喧騒は届かない。
ドローンに向かって、困ったように頭を掻く少年。
「……あ、電池切れそうかな。ごめんね、映えない映像で。どうせ誰も見てないだろうけど」
その自虐。世界中の視聴者の胸を鋭利な刃物のように抉る。
誰も見ていない?
違う。今、世界中の視線が、薄汚れたツナギの少年に釘付けになっている。
彼がモップを振るうたび、死が「掃除」され、静寂が訪れる。そのカタルシス。その哀愁。
画面越しに見る彼は、汚物まみれの清掃員などではない。
静寂を纏った、無自覚な守護神。
第3章: 偽りの聖女と瓦礫の王
「見つけたわ、カナタ!」
静寂を引き裂く、ヒステリックな金切り声。
弾ける転移魔法の光。歪む空間。
現れたのは、透き通るような金髪をなびかせた聖女エレナ。純白の聖衣は一点の曇りもなく、深淵の泥濘とはあまりに不釣り合い。
だが、カナタの目は見逃さない。
彼女の美しい指先。その爪が、ギザギザに噛み砕かれ、ささくれ立っている事実を。
「エ、エレナ様……? どうしてここに」
カナタが後ずさる。
エレナの碧眼、そこに渦巻く狂気的な焦燥。
「配信よ! カメラをこっちに向けなさい!」
彼女はカナタのドローンを無理やり掴み、自身の顔に向けた。
「皆様! ご心配をおかけしました! わたくし、はぐれてしまった彼を助けに戻って参りましたの! 愛が、奇跡を起こしました!」
嘘。
カナタの喉が干からびる。
彼女は助けに来たのではない。カナタの手柄を横取りし、落ちた数字(同接)を回復させるための帰還。
「さあカナタ、あの奥にいる『主』を倒しなさい。私のバフのおかげだと言ってね。そうすれば、パーティに戻してあげる」
甘い毒のような囁き。
以前のカナタなら、尻尾を振って従っただろう。
だが、今の彼には見えてしまっていた。
彼女の背後に広がる、数字と虚栄に塗れた汚泥が。煌びやかな冒険者の世界などない。あるのは、他人を踏み台にして高みを競う、醜悪なピラミッド。
「……嫌です」
「は?」
「僕は、もう誰かのゴミ箱になるのは御免です」
拒絶。
その瞬間、エレナの顔が般若のように歪んだ。
「この……役立たずのゴミ屑がぁぁぁ!!」
振り上げられる杖。暴発する過剰な魔力。
それが引き金だった。
深淵の最奥、封印されていた災厄『腐敗の王』。高濃度の魔力に反応し、覚醒する。
黒いタールのような濁流が、エレナを、カナタを、そしてカメラを飲み込もうと溢れ出した。
「きゃあああ! 何これ、汚い、嫌ぁぁぁ!」
聖衣を汚され、錯乱して逃げ惑うエレナ。
カナタは立ち尽くしていた。
「……ああ、やっぱり」
膝から力が抜け、泥の中に沈み込む。
「世界は汚れている。僕には、拭き取れない」
絶望が、冷たい泥水のように肺を満たしていく。
第4章: 汚れなき世界のために
黒く塗りつぶされる視界。
息ができない。肺が焼ける。
『腐敗の王』の瘴気は、触れたものを腐らせ、土へと還す。エレナの悲鳴さえも途絶えた。
このまま終わる。それでいい。どうせ自分は、誰からも必要とされない背景(モブ)なのだから。
――ふざけんな!
脳内に響く、ノイズ混じりの声。
幻聴か? いや、違う。ドローンのスピーカーだ。
『立てよカナタ! お前はゴミなんかじゃない!』
『Old_Genji: 立て! その力は、消すためじゃない。あるべき姿に戻すための祈りだ!』
『死ぬな!』『お願い、生きて』『あんたの掃除、まだ終わってないだろ!』
声。声。声。
何千、何万という他者の意思が、濁流となってカナタの鼓膜を叩く。
それは罵倒ではない。嘲笑でもない。
彼が生きていてほしいと願う、悲痛なまでの「祈り」。
心臓が跳ねた。
冷え切っていた指先に、戻る熱。
カナタは泥の中で目を見開いた。前髪の隙間から、初めて世界を直視する。
汚い? 違う。
泥の下には、まだ息をしている地面がある。腐敗の向こうには、誰かが待っている明日がある。
「……うるさいな、もう」
カナタは立ち上がった。
弾け飛ぶ足元の泥。
ツナギはボロボロだ。髪は泥まみれだ。
だが、その瞳だけが、恒星のような輝きを放っていた。
「掃除の、時間だ」
構えるモップ。呼応する神器、放たれる眩い光。
それは破壊の光ではない。浄化の光。
『腐敗の王』が、黒い触手を無数に伸ばし、世界を侵食しようと迫る。
カナタは叫んだ。喉が裂けんばかりの咆哮。
「そこをどけぇぇぇぇ!! まだ拭き掃除の途中なんだよぉぉぉ!!」
一撃。
モップが空間を凪ぐ。
その軌跡が、世界を書き換えていく。
腐敗が、悪意が、理不尽が、こびりついた汚れのように剥がれ落ちる。
黒いタールは清らかな水へ。悪臭は花の香りへ。
エレナを蝕んでいた毒も、カナタ自身の心の傷も、すべてが光の中に溶けていく。
「綺麗に……なれぇぇぇッ!!」
視界が真っ白に染まった。
それは、あまりにも暴力的なまでの、純白の救済。
第5章: 名もなき英雄の朝
鳥のさえずりが聞こえる。
カナタはゆっくりと目を開けた。
そこは、あの陰惨な深淵の底とは思えない場所。
見渡す限りの花畑。天井の岩盤は消え去り(あるいは透明化し)、柔らかな朝陽が降り注いでいる。
「……やりすぎちゃったかな」
カナタは苦笑し、手元を見た。
長年連れ添った巨大なモップは、ただのボロボロの木の棒になっていた。ルーン文字は消え、神器としての力は完全に失われている。
代償としてのスキル喪失。
もう、あの神業のような《分解》は使えない。
「ま、いっか」
彼は棒を杖代わりに立ち上がる。
ドローンは地面に落ちて壊れていた。最後の瞬間、彼の穏やかな笑顔を映して、配信は途切れたはずだ。
数日後。街の大通り。
朝の喧騒の中、一人の清掃員が竹箒を動かしていた。
新しいツナギは少しサイズが合っていない。黒髪は相変わらずボサボサで、目元を隠している。
「あ、すみません」
通勤途中のサラリーマンが、飲み終わったコーヒーの空き缶を落とした。
清掃員の青年は、何も言わずにそれを拾い上げ、分別用の袋に入れる。
「ありがとうございます」
サラリーマンが何気なく言った。
その言葉に、青年――カナタは、箒を止めた。
前髪の奥で、瞳が少しだけ潤む。
彼は深く、深く頭を下げた。
「いいえ、仕事ですから」
誰も彼が、数日前に世界を救った英雄だとは気づかない。
だが、彼が通り過ぎた後の道は、塵一つなく清められ、朝陽を浴びてキラキラと輝いている。
街を行き交う人々は、その清々しい空気を胸いっぱいに吸い込み、今日という一日を歩き始める。
静かで、当たり前で、何よりも尊い日常が、そこにあった。