第一章 エンドマークの向こう側
世界が白く滲んでいく。
まるで水に濡れたインクのように、教室の風景が、夕焼けが、そして愛しいあいつの笑顔が溶けていく。
「ああ、終わったんだ」
私は直感した。
これが『最終回』ってやつだ。
私の名前は、春風あかね。
学園ラブコメ漫画『キミと恋する放課後』における、主人公の幼馴染にして、最初の攻略対象。
そして――最終巻で見事に振られた、正真正銘の『負けヒロイン』だ。
意識が途切れる寸前、最後に見えたのは、主人公のタツミと、転校生のメインヒロイン・ルナがキスをするコマだった。
『お幸せに』
私の吹き出しにはそう書かれていたはずだ。
読者の涙を誘う、健気な幼馴染として。
いい女ぶって身を引いた、私の精一杯の強がり。
(……やってらんねーよ!)
心の奥底で叫んだ瞬間、世界は完全に真っ白になった。
気がつくと、私は何もない白い空間に立っていた。
上下左右、見渡す限りの白。
マンガのコマの外側、余白の世界。
「あら、あなたも来たの? 泥臭い幼馴染さん」
背後から聞こえた声に振り返る。
そこにいたのは、金髪の縦ロールを見事に巻いた少女。
この作品におけるライバル令嬢、西園寺レイカだった。
「レイカ……あんたも?」
「ええ。タツミ様があの泥棒猫を選んだせいで、私の出番は最終巻のパーティーシーンで背景のモブ同然。屈辱だわ」
彼女は優雅に扇子を広げたが、その扇子もどこか描線が薄い。
「ここは何なの? 死後の世界?」
「いいえ。ここは『設定の墓場』。あるいは『打ち切りの狭間』かしら。役目を終えたキャラクターが漂着する場所よ」
レイカの隣に、もう一人、分厚い眼鏡をかけた小柄な少女が体育座りをしているのが見えた。
図書委員の栞(しおり)ちゃんだ。
「あ……あかねちゃん……。私なんて、7巻の文化祭編以降、一度も出番がなかった……」
栞ちゃんが膝に顔を埋める。
そうだった。
この漫画、後半はシリアス展開になって、日常パート担当の癒やし系キャラはリストラされたんだった。
私、レイカ、栞。
ここにいるのは全員、タツミに選ばれなかった女たち。
『負け組』の同窓会ってわけだ。
「最悪……」
私はその場に座り込んだ。
スカートのプリーツを握りしめる。
「私さ、毎日あいつを起こしに行ったんだよ? 卵焼きだって甘めが好きだからって、砂糖多めで作ったんだよ? なのに……ポッと出の転校生に全部持っていかれるなんてさ」
「私は財力で学園を買収しようとしたわ」
「私は……タツミ君におすすめのラノベを貸した……」
三者三様の努力。
しかし、結果は全員敗北。
作者の『ご都合』という名の神の意志には逆らえなかった。
「悔しくないの?」
私が問うと、レイカはふん、と鼻を鳴らした。
「悔しいに決まっているでしょう。でも、物語は終わったの。これ以上、私たちが動くコマはないわ」
「……そうかな」
私は立ち上がった。
身体の奥底で、何かが燃えている。
それは、作者に書き込まれた『設定』としての感情じゃない。
私自身の、春風あかねという一個人の意地だ。
「ねえ、聞こえる?」
私は虚空を指差した。
「え?」
耳をすませば、白い空間の外側から、ざわざわと無数の声が聞こえてくる。
『あかねちゃんエンドが良かった』
『レイカ様のツンデレをもっと見たかった』
『栞ちゃんを幸せにし隊』
『タツミ、爆発しろ』
それは、読者たちの声。
神(作者)すらも無視できない、もうひとつの神々の声だ。
「人気投票の結果、覚えてる? 1位は誰だった?」
レイカがハッとして私を見る。
「……あなたよ、あかね」
「2位は?」
「……私だわ」
「メインヒロインのルナは?」
「……5位」
そう。
物語の構造上、私たちは負けた。
でも、読者の熱量では勝っていたんだ。
「このまま消えてたまるか。ねえ、私たちが主役の『続き』、勝手に作っちゃおうよ」
私の提案に、レイカの扇子がパタリと閉じた。
栞ちゃんが眼鏡の奥の瞳を光らせた。
第二章 ネームの余白を埋めるもの
「勝手に作るって……どうやって? 作者もいないのに」
レイカの問いはもっともだ。
だが、私には勝算があった。
「ここには、没になった設定や、使われなかったプロットが漂ってるはず。それをツギハギして、私たちの世界を再構築するの」
私は白い地面――原稿用紙の裏側のような大地を掘り返し始めた。
すると、黒いインクの塊のようなものが出てくる。
『修学旅行でタツミとあかねが遭難するイベント(ボツ案)』
『レイカの家が破産して貧乏生活を始めるスピンオフ(担当編集却下)』
『栞が実は異世界からの転生者だったという超展開(ジャンル違い)』
「あるじゃない! 宝の山が!」
レイカが目を輝かせて、没ネタを拾い上げる。
「あら、これ悪くないわね。『レイカ、あかねとバンドを組む』? 音楽モノなんてどう?」
「無理よレイカちゃん、私、トライアングルしか叩けない……」
栞ちゃんが首を振る。
「じゃあこれは? 『三人でシェアハウスを始めて、タツミのことを忘れて楽しく暮らす日常系』」
私が拾い上げたプロットに、三人の視線が集まった。
「……悪くない」
レイカが呟く。
「ていうか、最高じゃない?」
栞ちゃんが少し笑った。
「タツミ君のこと、実はそこまで好きじゃなかったかも……って最近思ってたの。ただ、作者に『好き』って設定されてたから、好きだと思いこんでただけで」
その言葉は、私の胸にも突き刺さった。
そうだ。
あいつは優柔不断で、鈍感で、やたらモテるだけの男だった。
なんであんなやつのために、毎朝早起きして弁当作ってたんだろ?
「目が覚めたわ」
私は拳を握りしめた。
「もう、男に選ばれるのを待つだけのヒロインは廃業よ。これからは、私たちが選ぶ番」
「そうこなくっちゃ! で、どうするの? この『シェアハウス設定』をどうやって起動させるの?」
レイカがプロットの欠片をかざす。
その時、空間がぐらりと揺れた。
『警告。不正なストーリー分岐を検知。修正プログラムを実行します』
無機質な声と共に、空から巨大な『修正液』の雨が降ってきた。
触れれば存在ごと消される、白濁した液体。
「やばっ! 編集部の検閲だ!」
「逃げるわよ!」
私たちは走り出した。
道なんてない。
コマ割りも、ページ数もない。
ただ、真っ白な荒野を。
「あかねちゃん、こっち! 私の『図書委員スキル・検索』で、安全なルートを探す!」
栞ちゃんが眼鏡を指で押し上げると、空中に光る矢印が現れた。
「でかした栞! レイカ、あんたの財力設定は生きてる!?」
「当然よ! ブラックカードの上限は無限大!」
「よし! そのカードで、この『修正液』を防ぐバリアを買って!」
「誰から買うのよ!」
「課金アイテムショップ的な何かがどこかにあるはず! メタ視点で探して!」
「無茶苦茶ね! でも……そこが気に入ったわ!」
レイカが虚空に向かってカードをかざすと、金色の光が私たちを包み込んだ。
『プレミアム会員特典・プロットアーマー』の発動だ。
ご都合主義にはご都合主義を。
修正液の雨が、金色のバリアに弾かれていく。
第三章 私たちの物語(スピンオフ)
走って、走って、走り抜けた先。
白い世界の果てに、一枚の巨大な扉が見えてきた。
扉には『次回作未定』という張り紙がしてある。
「あそこを抜ければ、新しい連載枠よ!」
私は叫んだ。
息が切れる。
足が重い。
設定上の体力値なんて、とっくに限界を超えている。
それでも、隣にはレイカがいる。
栞がいる。
かつては恋敵としていがみ合った私たちが、今は互いの手を取り合って走っている。
タツミの背中を追いかけていた時よりも、今のほうがずっと生き生きしている気がした。
「ねえ、あかね!」
レイカが走りながら叫ぶ。
「次の物語、ジャンルは何にするの!?」
「決まってるでしょ!」
私はニカっと笑った。
あの最終回で流せなかった涙も、飲み込んだ言葉も、全部エネルギーに変えて。
「『友情・努力・勝利』よ! 負けヒロインたちの逆襲劇……タイトルはそうね……」
扉に手が届く。
重いノブを三人で掴む。
「『ヒロイン失格の私たちですが、世界一幸せになってみせます』!」
せーの、で扉を押し開ける。
溢れ出す光。
インクの匂い。
新しいページの音。
視界が開けると、そこは見たこともないお洒落なカフェのテラスだった。
「いらっしゃいませ!」
イケメン店員(新キャラ・性格設定未定)が爽やかに微笑む。
私、レイカ、栞は顔を見合わせた。
制服のデザインが変わっている。
レイカの縦ロールは少し緩く今風に。
栞の眼鏡はコンタクトになって垢抜けている。
そして私は――ショートヘアが少し伸びて、なんだか大人っぽくなっていた。
「……ここが、私たちの新しいステージ?」
レイカが紅茶の香りを楽しむように深呼吸する。
「みたいだね」
私はメニュー表を開く。
そこには『第一話:泥沼のち、快晴』の文字。
「さてと。注文しようか。甘い甘い、最高のハッピーエンドを」
私たちは席につき、高らかに指を鳴らした。
物語の結末で選ばれなかった私たちは、誰かの付属品であることをやめた。
ここからは、私たちがセンターだ。
カメラさん、照明さん、準備はいい?
最高の「ざまあ」と「青春」を、見せてあげるから。
(完)