第1章: 廃棄される周波数
蛍光灯の白が、網膜を焼くほどに眩しい。
空調の低い唸りが、耳の奥で羽虫のように群れを成している。
「反応遅延0.4秒。話にならない」
男の声は平坦だった。テキスト読み上げソフトのように、抑揚という夾雑物が削ぎ落とされている。レイだ。彼は手元のタブレットに視線を落としたまま、カイの方を見ようともしない。
カイの指先が、大理石のテーブルの上で小さく跳ねた。
喉の奥に、鉄錆の味が広がる。
「昨日は……少し、頭の中で色が爆ぜて」
「それをノイズと呼ぶんだ。プロの回路に、詩的な言い訳は要らない」
レイが画面をスワイプする。
乾いた摩擦音が、死刑判決の小槌のように響いた。
「契約は解除だ。荷物をまとめてくれ。その旧式BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)は退職金代わりにくれてやる。感度調整の壊れたガラクタだが、君にはお似合いだろう」
研究室の自動ドアが開く。
消毒液の匂いと、冷たい廊下の風が、カイの背中を無遠慮に押した。
安アパートの六畳一間。
壁紙は湿気で浮き上がり、黴の地図を描いている。
カイは持ち帰った「ガラクタ」を頭部に装着した。万力で頭蓋骨を締め付けるような重み。
脊髄にプラグが噛み合う。
ぬるりとした冷気が、神経を逆撫でしながら脳幹へ侵入してくる。
起動。
視界が裏返る。
世界最大規模の対戦ゲーム『エーテル・フロンティア』の荒野だ。
どうせこれが最後だ。カイは前線へ走った。
思考の海に、砂嵐のようなザラついた感触が混じる。いつもなら薬で抑え込むこの感覚を、今夜は野放しにした。
眼前に、紅蓮の光が走る。
現世界王者「ヴォルテックス」。レイのアバターだ。
彼の大剣は、フレーム単位で最適化された完璧な軌道を描く。観客の目には「不可避の死」として映る一撃。
だが、カイの脳裏に映像よりも先に「音」が突き刺さった。
*キィィィィン!*
金属が悲鳴を上げるような、鼓膜を引き裂く高周波。
殺気が、音波となって脳を揺らす。
視覚情報処理など待っていられない。
カイの指が、意識を置き去りにして跳ねた。
大剣が空を切る。
王者の刃が通り過ぎた空間に、一瞬遅れて風が巻く。カイのアバターは、ダンスのパートナーが手を取るように、切っ先を数ミリで見切って身を翻していた。
「……え?」
自分の喉から漏れた声が、遠く聞こえた。
見えたんじゃない。
聞こえたんだ。奴の殺意が奏でる、不協和音が。
第2章: 色彩の暴走
SNSのタイムラインが、滝のような速度で流れていく。
『誰だこいつ』
『チートだろ』
『いや、ログを見ろ。入力に補正がない』
カイは震える手で、ミネラルウォーターのボトルを口に運んだ。水がこぼれ、Tシャツの襟元を濡らす。その冷たさだけが、彼を現実に繋ぎ止めていた。
昨夜の映像は、すでに数百万回再生されていた。
カイの視点映像。それは、常人の理解を超えたサイケデリックな悪夢。
敵が右から迫れば、視界の右端が紫色に腐る。
銃口が向けられれば、皮膚の下を無数の蟻が這うような悪寒が走る。
そして致命的な攻撃が来る瞬間、世界は極彩色のステンドグラスのように破砕し、逃げ場を「空白」として指し示す。
——これは計算じゃない。
カイは、モニターの中で明滅する自身のリプレイを見つめた。
論理(ロジック)で動くプレイヤーたちは、0と1の羅列を見ている。
だがカイには、戦場が巨大なカンバスに見えていた。
ログイン。
待ち構えていたのは、ランクマッチの上位勢たち。
数値を信じ、定石を信じ、フレーム有利を信じる者たち。
「囲め! 物理演算のバグを利用しているはずだ!」
ボイスチャットから漏れる怒号。四方からの十字砲火。
カイの脳内で、交響曲が始まった。
右からの銃弾はチェロの重低音。左からの魔法弾はフルートの鋭い高音。
リズムに身を任せるだけでいい。
カイのアバターは、銃弾の雨の中を濡れずに歩く。
その動きは、戦闘というよりは指揮者のタクトに近い。
敵の攻撃リズムを掌握し、呼吸を合わせ、その合間に刃を滑り込ませる。
斬撃のエフェクトが、華のように咲き乱れた。
「なんなんだよ、お前は……!」
最後の一人が崩れ落ちる。
圧倒的な優越感。
これまで「ノイズ」として頭痛の種だったものが、今、世界を跪かせるための王錫(セプター)に変わっていた。
心臓の鼓動が、ファンファーレのように胸郭を叩く。
俺は、欠陥品じゃない。
この眼に映る世界こそが、真実だったんだ。
第3章: 灰色の処刑台
通知音が鳴る。
無機質なシステムメッセージ。
『不正な精神干渉波形を検知しました。強制パッチ2.04を適用します』
画面が暗転する。
再び光が戻った時――世界は死んでいた。
「……色が、ない」
色はあった。空は青く、地面は茶色い。
だが、あの「匂い立つような青」や「叫び声を上げる茶色」ではない。
ただのRGB値としての色彩。
殺意の音も、皮膚を刺す予兆も、すべてが分厚いガラスの向こう側に封じ込められている。
『元所属チームからの告発により、君のBMI設定にフィルタリングを施した』
レイの声が、ヘッドセットから直接脳に響く。
メディアにはすでに、「脳のバグを利用した不正行為者」という見出しが踊っていた。
「感情は判断を鈍らせる。君のために、ノイズを除去してやったんだ。感謝してほしいな」
公開処刑のマッチが始まる。
相手は三流のランカー。昨日までのカイなら、欠伸をしながらでも勝てた相手だ。
剣が迫る。
音が、聞こえない。
色が、教えてくれない。
カイは目で見て、脳で処理し、指を動かそうとした。
しかし、その経路はあまりにも遠かった。
思考の泥沼に足を取られたように、反応が遅れる。
ドガッ。
無様な音を立てて、カイのアバターが吹き飛んだ。
追撃。回避不能。
地面を転がり、泥にまみれる。
『なんだ、ただのまぐれか』
『ペテン師め』
『消えろ、ゴミ』
コメント欄を流れる罵倒の文字列が、ナイフとなってカイの眼球を突き刺す。
ヘッドセットをむしり取り、カイは床にうずくまった。
呼吸が浅い。指先が冷たい。
静寂だけが、部屋を満たしている。
あの美しい世界は、もうどこにもない。
やはり自分は壊れていたのだ。
修正された自分には、何の価値もない。
灰色の天井が、棺桶の蓋のように迫ってきていた。
第4章: 狂気のアンロック
ドアがノックされたわけではない。
鍵が開けられた音もしなかった。
気づけばその老人は、部屋の隅にあるパイプ椅子に腰掛けていた。
油と煙草の匂い。
煤けた白衣。片方のレンズが割れたサングラス。
「いいザマだな、小僧」
老人は、床に転がった旧式BMIを杖の先で小突いた。
「世間じゃそれをノイズと呼ぶらしいが、ワシには『魂の叫び』に聞こえるがね」
カイは顔を上げる気力もなかった。
「……帰ってください。俺はもう、正常になったんです」
「正常? あの退屈な灰色の世界がか?」
老人は嗤った。喉の奥で痰が絡むような、汚い笑い声。
「あれはバグじゃない。人類が進化の過程で捨て去った『直感』という名の翼だ。論理という重りを切り離し、感覚だけで空を飛ぶためのな」
老人は懐から工具を取り出した。
無骨なドライバーと、怪しげな配線コード。
「選択肢をやろう。このまま『正常な凡人』として腐るか。それとも、脳のリミッターを焼き切ってでも、神の領域(ゾーン)を見るか」
「……脳が、壊れるかもしれない」
「ああ、壊れるだろうな。だが、お前はすでに壊れているんだろ? 心が」
カイは、自分の手を見た。
何も掴めず、ただ震えているだけの手。
レイの冷笑。観衆の罵倒。
それらが胸の内で渦を巻き、熱い塊となって喉元までせり上がってくる。
見たい。
あの色彩を。あの音楽を。
たとえその先にあるのが破滅だとしても、灰色のまま生きるよりはマシだ。
カイは無言で頭を差し出した。
老人の手が、乱暴にBMIを改造していく。
安全装置の回路が引き千切られる音。
リミッター解除のプログラムが、赤い警告灯を無視して流し込まれる。
「痛いぞ」
「構わない」
スイッチが入る。
瞬間、カイの背骨を雷が駆け抜けた。
血管という血管にマグマが流し込まれるような激痛。
だが、その痛みの向こう側で、世界が爆発した。
部屋の埃ひとつひとつが、星のように輝き出す。
遠くのサイレンが、悲劇のオペラとなって響く。
カイは笑った。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、狂ったように笑った。
「準備完了だ」
第5章: 魂の演算
世界大会決勝のステージ。
スタジアムを埋め尽くす十万人の観衆。その熱気が、物理的な圧力となって肌を焼く。
だが、カイにはそれらが「色彩の嵐」に見えていた。
期待は金色に、敵意はどす黒い紫に。
対面には、レイ。
完全無欠の論理機械。
彼の背後には、最新鋭のAIが数億通りの戦況シミュレーションを展開している。
「懲りないな。感情ごときで、システムに勝てるわけがない」
レイの言葉は、青白い氷の矢となってカイに飛んできた。
カイはそれを、ただの「寒い風」として受け流す。
試合開始(ラウンドワン)。
レイが動く。完璧な最適解。
最短距離、最小動作、最大効率。
だが、カイの世界では、レイの動きはあまりにも「正しすぎ」た。
正しさは予測可能だ。
メトロノームのリズムは、心地よいが退屈だ。
カイは剣を構えない。
ただ、感情を垂れ流す。
(怒り)
カイのアバターから、真紅のオーラが噴き出す。
システムが処理しきれない情報の奔流が、バグとなって視覚化される。
一撃。
レイがガードするが、その盾ごとアバターが後退する。
「数値計算が合わない……! なぜだ、威力係数は固定のはずだ!」
(悲しみ)
カイの動きが、水のように柔らかくなる。
レイの連撃が空を切るたび、青い波紋が広がり、空間そのものを重く歪ませる。
レイの指が止まる。
論理が追いつかない。AIが「解なし」のエラーを吐き続ける。
「お前の計算式には、『痛み』がない」
カイは呟いた。
脳の血管が軋む音がする。
視神経が焼き切れそうだ。
視界の端から黒いしみが広がっていく。
代償の支払い期限が迫っている。
だが、今、この瞬間だけは。
この剣は、俺の魂そのものだ。
カイが踏み込む。
レイが迎撃体勢をとる。論理の壁。
だが、カイの剣は、その壁の「隙間」を通ったわけではない。
レイの「恐怖」という色のゆらぎを、一直線に貫いたのだ。
閃光。
レイの絶対防御が砕け散る。
ガラスが割れるような美しい音が、スタジアム全体に響き渡った。
王者のアバターが、光の粒子となって崩壊していく。
『K・O』
静寂。
そして、爆発。
歓声が、地面を揺らした。
カイはヘッドセットを外そうとした。
だが、手足に力が入らない。
視界は完全に真っ暗だった。
光を失った瞳。
だが、怖くはなかった。
暗闇の中で、彼は感じていた。
十万人の、いや、世界中の人々から降り注ぐ「称賛」の雨を。
それは温かく、優しく、彼の壊れかけた心を包み込んでいた。
「……きれいな音だ」
カイは崩れ落ちる意識の中で、その神の歌声に耳を傾け、静かに微笑んだ。