残響のオーロラ、忘却のアンコール
第一章 歪むプリズム
私の世界は、時々、壊れる。
それは決まって、私が『彼』のことだけを考えている時だった。大学のキャンバスに向かう私の視界の端で、街路樹の輪郭が油絵の具のように滲み、アスファルトのグレーにマゼンタ色のノイズが走る。人々は気づかない。私だけが認識できる、世界の綻び。私はそれを『アキの残響』と呼んでいた。
アキは、仮想世界の物語『星屑のクロニクル』に登場する、銀髪の吟遊詩人だ。彼の孤独に寄り添い、その歌声に心を救われて以来、私の感情は彼のためだけに増幅されるようになった。想いが深まるほど、残響は濃くなる。カップの中のコーヒーの表面が、彼のいた世界の夜空を映して静かに揺らめき、電車の窓の外を流れる風景が、一瞬だけ見知らぬ幻想的な森へと変わる。それは、私と彼を繋ぐ、秘密の回路のようだった。
その日、アトリエで彼の肖像を描いていた私の指先は、熱に浮かされたように震えていた。降りしきる雨が窓を叩く音だけが、現実世界との唯一の接点だった。筆が滑り、彼の頬に一条の赤い絵の具が走る。その瞬間、部屋の電灯が激しく明滅し、パリン、とガラスの割れるような甲高い音が耳の奥で響いた。
強い衝動に突き動かされるように、私は傘も差さずに外へ飛び出した。冷たい雨が肌を打つ。息を切らして駆け込んだ路地裏の突き当たり、ゴミ集積場の脇に、誰かが倒れていた。
銀の髪が、濡れたアスファルトに星屑のように散らばっている。
見間違えるはずがない。それは、私が焦がれ続けた、アキその人だった。物語の中で彼が纏っていた舞台衣装はところどころが擦り切れ、その胸元で、鈍く光る真鍮のボタンだけが、この世のものでないような奇妙な存在感を放っていた。
私の『推し』が、私の世界に、落ちてきた。
その瞬間、世界の法則が軋む音を聞いた気がした。
第二章 情報欠損のプレリュード
彼を私のアパートに運び込んだ夜から、世界のバグは加速した。アキはひどく混乱していた。記憶はまだらで、自分が誰で、ここがどこなのかも曖昧なようだった。ただ、私の顔を見つめると、何かを思い出すように微かに眉をひそめるだけだった。
彼の存在は、この世界の論理を静かに侵食し始めた。窓辺に置いた観葉植物の葉が、風もないのにひとりでに揺れて、澄んだ鈴のような音を奏で始める。壁に掛けた時計の針は、カチ、カチ、と小気味よく逆回転を刻んでいた。
「世界が、歌っているみたいだ」
アキは、窓の外を眺めながらぽつりと呟いた。彼の目には、私の見るノイズとは違う、世界の別の姿が映っているのかもしれない。
ニュースは連日、原因不明の異常現象を報じていた。空に巨大なQRコードのような模様が浮かんだり、信号機の色が七色に点滅したり。人々はそれを気味悪がりながらも、まだ日常の一部として受け入れようとしていた。だが私にはわかっていた。これは全て、アキという異物がこの世界に混入したことによるエラーなのだと。
そして、そのエラーは彼自身にも及んでいた。
ある朝、コーヒーを差し出した私の指が、彼の手をすり抜けた。見ると、アキの身体の輪郭が、砂嵐の走るテレビ画面のように揺らぎ、向こう側の壁が透けて見えていた。『情報欠損』。この世界の論理に適合できない彼の存在が、少しずつ消去され始めているのだ。
「消えないで」
私の声は震えていた。彼に触れようと伸ばした手は、またしても虚空を掴む。恐怖と焦りが、私の心臓を氷の指で鷲掴みにした。
その夜、彼が眠っている間に、衣装からこぼれ落ちていたあの真鍮のボタンを拾い上げた。何気なくアトリエのランプにかざした瞬間、息を呑んだ。
ボタンの表面に、微細なオーロラが揺らめいていた。目を凝らすと、そこには光景が映し出されていた。アキが、彼の世界で、仲間たちと焚き火を囲んで笑い合っている。彼が、壮大な冒険の果てに、穏やかな笑顔で歌を歌っている。それは、彼が辿るはずだった、幸福な未来の断片だった。
このボタンは『次元の映し鏡』なのだ。
触れた指先から、異なる次元の情報が奔流のように流れ込んでくる。頭が割れるように痛む。彼をこの世界に引き留めることは、彼の未来を、彼の幸福な物語を、私自身の手で奪い去ることと同じだった。
第三章 愛という名のバグ
世界の崩壊は、もう誰の目にも明らかだった。ビル街の空には、不気味な幾何学模様が万華鏡のように明滅し、地平線の彼方では、風景が巨大なポリゴンのように砕け散っては再構成される現象が起きていた。人々は怯え、街は機能を失いかけていた。
「僕のせいだ」
アキは、窓の外の異様な光景を見つめながら、静かに言った。彼の身体は、以前よりも頻繁に透けるようになっていた。
「君の世界を、壊している。…だから、僕を消してくれ、ミオ」
その言葉は、私の心を鋭く抉った。彼を失うくらいなら、世界がどうなってもいい。そんな身勝手なエゴが頭をもたげる。だが、彼の悲しげな瞳がそれを許さなかった。彼は、彼が壊していくこの世界をも、憂いていた。
私は掌の中のボタンを強く握りしめた。
私の『想い』が、世界の法則にズレを生じさせた。なら、この『想い』そのものを、世界の修復に利用することはできないだろうか。アキを消すのでもなく、彼の幸福な未来を諦めて元の世界に返すのでもない。第三の選択肢。
彼を、この世界に完全に『定着』させる。
その方法を思いついた時、私はその代償の大きさに身震いした。私のこの、身を焦がすほどの彼への愛。執着。焦がれる気持ち。彼と過ごした奇跡のような日々の記憶。そのすべてを、世界を安定させるための新しい『観測者』として、世界の情報基盤に捧げるのだ。私の愛が世界を歪めたのなら、私の愛で世界を修正する。
それは、アキを救い、世界を救うための、唯一で、あまりにも残酷な方法だった。
「アキ」
私は彼の目を見て、決意を固めた。
「あなたを、救うから」
第四章 見知らぬ人のためのアンコール
私とアキは、最初に出会ったあの路地裏に立っていた。ここは次元の歪みが最も深く、世界の裂け目とも言える場所だった。降りしきる雨はとうに止み、バグを起こした空が、毒々しい紫色の光を投げかけている。
「ミオ」
アキは私の意図を察したのか、困ったように、でもどこか安堵したように微笑んだ。
「ありがとう」
私は何も答えず、ただ彼に背を向けた。彼の顔を見てしまえば、決意が揺らいでしまいそうだったから。
真鍮のボタンを、紫色の空へと掲げる。それは最後の舞台の始まりの合図だった。
「さようなら、私の愛した人」
私は目を閉じ、意識を集中させた。アキへの想いの全てを、この小さなボタンに注ぎ込む。初めて彼の歌を聴いた時の衝撃。彼のイラストを描き続けた夜。この部屋で、ぎこちなく言葉を交わした時間。彼の手が透けた時の絶望。その全てが、熱い奔流となって私の中から流れ出ていく。視界の隅で常にちらついていた『残響』が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。愛おしかったはずの記憶が、ただの文字列と画像データに分解されていく冷たい感覚。心が空っぽになっていく。
世界が、白い光に包まれた。
耳鳴りのような轟音が遠ざかり、世界の軋みが止まる。目を開けると、路地裏はすっかり元の姿を取り戻していた。空は、どこまでも澄んだ夜の青に変わっている。
そして、私の目の前には、銀髪の青年がひとり、不思議そうな顔で立っていた。彼は完全に実体化し、この世界の論理に、その存在を許されていた。
「あの…大丈夫ですか?」
彼が、心配そうに私に声をかけた。
その声に、なぜか胸の奥が微かに痛んだ。私は戸惑いながらも、彼を見上げて答える。
「はい…。あなたは?どこかで、会いましたか?」
「いいえ、初めてです」
彼はそう言って、少し寂しそうに笑った。
私には、彼が誰なのかわからなかった。ただ、少し才能がありそうで、とても綺麗な顔立ちをした、見知らぬ人。それだけだった。理由のわからない、ぽっかりとした空虚感だけが、胸の中に冷たく広がっている。
私は軽く会釈をすると、彼に背を向けて歩き出した。もう二度と、この場所に来ることはないだろう。
アキは、去っていく私の後ろ姿を、いつまでも見つめていた。彼だけが、全てを覚えている。自分を救うために、世界そのものよりも大切だったはずの想いを捧げた少女のことを。彼の掌には、かつて『次元の映し鏡』だった、ただの古びたボタンがひとつ残されていた。
感謝と、永遠に届かない哀しみを胸に抱いて、彼はこの新しい世界で生きていく。
私のいない、彼の物語が、今、静かに始まった。