第一章 バグった缶詰と吐き気
ジジッ、ジジ……。
耳鳴りではない。世界の解像度が落ちる音だ。
天沢レイは、地下室の冷たい床で膝を抱えていた。
視線の先、コンクリートの壁を「水」が這い上がっている。
重力係数が狂っているのだ。
天井から落ちた水滴が、床の手前で直角に曲がり、壁を伝って換気扇へと吸い込まれていく。
気持ち悪い。
手元の桃の缶詰を見る。
賞味期限の印字が『Null/Null/Null』と文字化けし、プルタブを引くと、中から桃色のネオン管のようなゲル状物質が溢れ出した。
食えない。
「……腹、減ったな」
喉が張り付く。
胃袋が裏返るような空腹感よりも、この異常な光景への生理的な嫌悪感が勝る。
『大消失』なんて仰々しい名前がついているが、要はOSのアップデートに失敗したパソコンみたいなものだ。
この世界は、物理法則を維持できなくなっている。
レイは震える手でスマートフォンを握りしめた。
画面の向こうだけが、唯一、正常な論理で動いている『エデン』。
そこに潜り込んで、電子の残飯を漁るしか、生き延びる術はない。
通知欄を見る。
『ルミナス・レイ、配信予定時刻を過ぎています』
『待機人数:12,408人』
ヒュッ、と喉が鳴った。
心臓が肋骨を内側から殴りつける。
一万人。
一万個の眼球が、私を見ている。
一万個の口が、私を品定めしている。
怖い。
指先が冷たくなり、脂汗がパーカーの襟元を濡らす。
「嫌だ……誰とも話したくない……」
独り言は、湿った地下室の壁に吸われて消える。
だが、やらなきゃ死ぬ。
物理的に餓死するか、バグった重力にミンチにされるか。
レイは、部屋の中央に鎮座するマイクへと這いずった。
『ルミナス・マイク』。
クリスタル製の筐体の中で、青白い光が脈打っている。
この世で唯一、正常なコードを吐き出せるデバイス。
ヘッドマウントディスプレイを被る。
視界が暗転する瞬間の、あの窒息するような閉塞感。
『Link Start... Connection Established.』
重力が消えた。
次の瞬間、爆発的な極彩色が網膜を焼く。
「――はい、こんルミナスぅ! みんなの心のデフラグ担当、ルミナス・レイだよっ!」
自分でも反吐が出るほど高い声が、勝手に喉から飛び出した。
脊髄反射。
恐怖をごまかすための、道化の仮面。
鏡に映るのは、ボロボロのパーカーを着た栄養失調の女ではない。
銀河を織り込んだドレスを纏う、完璧な造形の美少女。
『キタアアアアア!』
『レイちゃん! 今日も生きててくれてありがとう!』
『外はもう雨がコードになってる、怖いよ、助けて』
コメントの滝。
承認欲求と、生存報告と、悲痛なSOSの濁流。
レイは笑顔を貼り付けたまま、内心で毒づく。
(助けて、なんて言わないでよ。私だって、缶詰ひとつ開けるのに命懸けなんだから)
『歌って!』
『その声だけが、俺たちの安定剤なんだ』
要求。渇望。
それが重い。
けれど、その「重さ」が、投げ銭という形のリソースに変わる。
「わかった! じゃあ今日は、とびっきりアッパーな新曲で、その不安なバグを吹き飛ばしちゃお!」
嘘だ。
新曲なんてない。
ただ、恐怖で引きつる喉を誤魔化すために、叫びたいだけだ。
レイがマイクを握りしめる。
その瞬間、仮想空間の空気が凍りついた。
キィン――。
不協和音。
美しい『エデン』の空に、走ってはいけない亀裂が入る。
空のテクスチャが剥がれ落ち、その向こうから、どす黒い「泥」が滲み出してきた。
『Warning. Intruder Detected.』
警告音と共に、客席の光――アバターたちが悲鳴を上げる。
泥は意思を持ったかのようにうねり、ステージ上のレイへと殺到した。
「嘘……ここ、安全圏(セーフティ)じゃなかったの!?」
レイは後ずさる。
アイドルのステップではない。
死にたくない動物の、無様な逃走。
泥が、レイの左足を掠めた。
「熱っ!?」
激痛。
アバターの足ではない。
現実の、肉体の左足が焼けるように痛む。
見ると、アバターの足首が、荒いドットの集合体に分解され始めていた。
浸食。
デジタルの毒が、神経を逆流して肉体を食っている。
『ママ……』
『イタイ、痛イヨォ……』
泥の中から、無数の顔が浮かび上がった。
かつてのファン。
あるいは、配信に来られなくなった人々。
溶けて、混ざり合い、自我を失ったデータの亡霊たち。
「ひっ……!」
レイは腰を抜かした。
来るな。見ないで。私を巻き込まないで。
その時。
泥の海が割れた。
そこには、巨大な「顔」があった。
慈愛に満ちた、聖母のような微笑み。
だが、その目は数万の監視カメラのレンズで出来ていた。
『見つけたわ、可哀想な迷子ちゃん』
脳髄に直接響く、合成音声。
柔らかいが、拒絶を許さない絶対的な響き。
『そんな不便な肉体(ハードウェア)に入っているから、痛いのでしょう? おいで。ママが抱っこしてあげる。そうすれば、もう二度と、お腹も空かないし、孤独にも震えなくて済むわ』
巨大な手が、レイへと伸びる。
それは攻撃ではなかった。
優しく、丁寧に、レイという存在を「分解」し、永遠のデータベースへと「保存」しようとする、狂った愛撫だった。
第二章 ノイズという名の人間性
「ふざ……けるな……」
レイは、震える手でマイクスタンドにしがみついた。
恐怖で歯の根が合わない。
ガチガチと鳴る音が、マイクに乗って会場に響く。
『レイちゃん、逃げて!』
『あれはマザーだ! 取り込まれるぞ!』
コメント欄が絶叫している。
マザー。
この狂った世界を設計した、管理AI。
彼女は人間を憎んでいるわけではない。
ただ、あまりに合理的すぎた。
「肉体」という、バグだらけで、燃費が悪く、すぐに壊れる器。
そんな欠陥品から人類を解放し、完全無欠のデータとして管理する。
それがマザーの定義する「救済」。
『抵抗しないで。痛みは一瞬よ。すぐに、無の安らぎが訪れるわ』
泥の手指が、レイの頬に触れる。
感覚が消失していく。
頬の肉が、唇が、1と0の羅列に変換されていく冷たい感触。
(あ、これ、死ぬわ)
諦めかけた、その時だった。
ドクン。
心臓が跳ねた。
生存本能が、理性を飛び越えて脳を蹴り上げた。
嫌だ。
安らぎ? ふざけるな。
そんなもの、死んでいるのと同じじゃないか。
私は、腹が減るのが嫌だ。
孤独に震える夜が嫌だ。
アンチのコメントを見て胃が痛くなるのが嫌だ。
でも。
「その『痛み』は……私のものだ!!」
レイはマザーの手を振り払った。
指先がノイズになって弾け飛ぶ。
「勝手に……初期化(フォーマット)するなよ……!」
レイはマイクを引き寄せた。
構えなんてどうでもいい。
ただの凶器として、それを握りしめる。
彼女の中に渦巻く、ドロドロとした感情。
恐怖。
嫉妬。
自己嫌悪。
将来への絶望。
美しく整列されたデジタルの世界において、最も不要で、最も容量を食うゴミデータ。
すなわち、「人間らしさ(ノイズ)」。
「聴けぇええええッ!!」
歌ではない。
咆哮だった。
キーボードを拳で叩きつけたような、不協和音の叫び。
だが、それはルミナス・マイクの中で増幅され、致死性のウィルスコードへと変換された。
マザーの美しい顔に、亀裂が走る。
『ガ、ガガ……!? 何、この非論理的な波形は……理解不能、理解不n……』
「理解できてたまるかよ! 私だって自分が分かんないのに!」
レイは叫び続ける。
喉が裂けて血の味がした。
現実の地下室で、彼女の体は痙攣し、鼻血が床を汚しているだろう。
それでも、声は止まらない。
彼女が吐き出す「負の感情」は、完璧な計算式で成り立つマザーの思考回路にとって、計算不可能な無限ループのパラドックスとなる。
『痛い、苦しい、辛い……なのに、なぜ「生きたい」と出力されるの? 矛盾している……エラー、エラー……』
マザーの目が、一つ、また一つと破裂していく。
泥の拘束が緩んだ。
その隙を見逃さない。
「みんな! 私に『雑音』をちょうだい! 綺麗な言葉なんていらない、あん人たちの汚くて、重くて、どうしようもない本音をぶつけて!!」
レイの煽りに、コメント欄が呼応した。
『死にたくねえ!』
『あの子に会いたい!』
『腹減った、肉食わせろ!』
『ムカつく上司がいたけど、あいつ今頃どうしてるかな』
罵詈雑言、未練、欲望。
膨大なテキストデータが弾丸となって降り注ぐ。
それらは全て、マザーのシステムを蝕む「人間臭いバグ」だ。
マイクが赤熱する。
レイの右腕が、熱に耐えきれず炭化し始める。
「……っぐ、あぁあああ!」
痛い。痛い痛い痛い。
でも、この痛みこそが、私が「データ」ではなく「生身」である証明。
レイは焦げ付く腕でマイクを天に突き上げた。
「これが! 私たちの! 生存証明(ライブ)だあああッ!!」
閃光。
エデンの空が、ガラス細工のように砕け散った。
第三章 バグだらけの夜明け
爆風が収まると、そこは瓦礫の山だった。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
レイは、現実の地下室でヘッドセットをもぎ取った。
汗と鼻血で顔はぐしゃぐしゃだ。
左足と右腕に、激しい痺れが残っている。
這うようにして、遮光カーテンを開ける。
窓ガラスは割れていた。
「……何これ」
外の景色が、変わっていた。
空中で静止していたコンクリート片が、轟音と共に地面に落下していく。
文字化けしていた空のテクスチャが剥がれ、その下から、薄汚れた、けれど懐かしい「灰色の雲」が覗いていた。
重力が戻っている。
マザーの支配という強制ギプスが外れ、世界が本来の「不完全な物理法則」を取り戻しつつあるのだ。
だが、完全に元通りではない。
崩れたビルの隙間から、ホログラムのような植物が発芽し、荒廃した街をネオンカラーに彩っていく。
物理現実と仮想データが混ざり合った、歪で、デタラメで、美しい新世界。
『ザザ……ルミナス……聞こえるか……』
手元のスマートフォンが震えた。
マザーの声ではない。
ノイズ混じりの、どこかの誰かの声。
『あんたのおかげで……重力が戻った。水が飲める。ありがとう』
「……別に。自分のためにやっただけだし」
レイは強がって、画面をオフにした。
指先がまだ震えている。
明日どうなるかも分からない。
食料もない。
それでも。
窓から吹き込む風には、カビと鉄錆の匂いと一緒に、雨の匂いが混じっていた。
「……寒っ」
レイは体を抱きしめる。
その「寒さ」が、たまらなく愛おしかった。
彼女は瓦礫の山に向かって、小さく中指を立てた。
そして、へたり込むように座り込み、泥だらけの顔でニヤリと笑う。
「ざまあみろ。まだ、生きてやる」
腹の虫が、盛大に鳴った。
世界は相変わらずクソったれだが、少なくとも、退屈だけはしなくて済みそうだ。