第一章 凍てつく荒野と壊れた片眼鏡
頬を切り裂くような北風が、リリアーナの豪奢なドレスを容赦なく叩いていた。
かつて王都の舞踏会で翻ったシルクは泥と煤に汚れ、裾は凍り付いて重い。
だが、彼女の背筋は王城の謁見の間にいた時と同じく、痛々しいほど真っ直ぐだった。
ザク、ザク。
雪を踏む自分の足音以外に聞こえるのは、背後からついてくる機械的な駆動音だけ。
その規則正しいリズムが、この広大な雪原における彼女の孤立を際立たせていた。
視界の隅に、青白い光の文字が浮かぶ。
《外気温:-3℃ / 生命維持推奨レベル:低下 / 警告:低体温症のリスク》
「リリアーナ様。心拍数の乱れを確認。これ以上の行軍は、生体の耐久限界を超過します」
背後から響く、平坦で抑揚のない合成音声。
リリアーナは足を止めず、肩越しに鋭い視線を投げた。
「黙って歩きなさい、鉄屑。誰が止まっていいと言ったの?」
「個体識別名『アーク』です。貴女様の監視およびサポートが私の存在意義であり――」
「監視? いいえ、貴方は『調和評議会』が私につけた首輪よ」
リリアーナは鼻で笑うと、懐から古びた真鍮の片眼鏡(モノクル)を取り出した。
レンズには蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。
彼女の指先が、白くなるほど強くその冷たい金属を握りしめていた。
それは寒さのせいではない。
脳裏に、あの日の光景が焼き付いて離れないからだ。
――『君のその目は、見なくていいものまで暴き立てる』
元婚約者の冷ややかな声。
壊された調度品。泣き崩れる「被害者」の令嬢。
リリアーナが「その涙は嘘よ」と告げた瞬間、周囲の視線が恐怖と侮蔑に変わった。
真実を告げることは、いつだって誰かの平穏を壊すことだった。
(……ええ、そうね。私は災厄。だからこうして、世界の果てまで追放された)
彼女は片眼鏡を右目に当て、吹雪に霞む廃墟を見据えた。
瞬間、視界が変貌する。
灰色の空気に、幾何学模様のノイズが走った。
岩の組成、風のベクトル、そして廃墟の奥底から漏れ出る、微かながらも異質なエネルギー波形。
「……見つけたわ」
「対象不明。センサーには熱源反応なし。旧文明の廃棄プラントと推測されます」
アークの青いカメラアイが明滅する。
リリアーナは片眼鏡を外し、冷たく言い放った。
「貴方のその安っぽい量産型センサーには映らないのよ。世界の『綻び』がね」
彼女には見えていた。
その廃墟がただの残骸ではなく、この世界を覆う巨大な偽装の一部であることを。
「行くわよ、アーク」
「理解不能。ですが、随行義務に基づき追従します」
雪原に二つの影が伸びる。
リリアーナは震える手をドレスのひだに隠した。
彼女が信じられるのは、この冷たいレンズが映し出す残酷な真実だけだった。
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第二章 感情なき共犯者
廃墟の内部は、腐敗したオイルと錆の臭いが充満していた。
崩れかけたコンクリートの壁には、かつての人類が遺した警告色が剥がれ落ちている。
《警告:構造強度低下 / 崩落確率 78%》
アークのHUD表示が赤く点滅し、彼は素早くリリアーナの前に出ようとした。
「下がってなさい。貴方の重装甲ボディが振動源になって崩れるわ」
リリアーナはアークの胸板を細い指で押し返した。
その指先が、小刻みに震えている。
アークの内部プロセッサが、彼女の生体データを高速で解析する。
《心拍数:140bpm / 体温:35.8℃ / 瞳孔:散大》
解析結果:『恐怖』。
しかし、口から出る言葉は攻撃的で、拒絶に満ちている。
「リリアーナ様。非論理的です。恐怖を感じているのなら、私の背後に隠れるのが生存率を最大化する選択です」
「恐怖? 私が?」
リリアーナは立ち止まり、アークを見上げた。
その瞳は、暗闇の中でなお、宝石のように硬質な光を放っている。
だが、モノクルを握る指の関節は白く浮き出ていた。
「私は怖がってなどいない。ただ……腹が立つのよ」
「憤怒ですか? 対象を特定できません」
「全てによ。薄っぺらな笑顔で嘘をつく貴族たちも、正義面をして私を追放した元婚約者も」
彼女は言葉を切り、壁の一点を睨みつけた。
そこには、肉眼ではただのシミにしか見えない亀裂がある。
「そして、人の心など分かりもしないくせに、分かったような顔をして世界を管理している『何か』にもね」
リリアーナが亀裂に指を這わせる。
その指先が、隠された生体認証パネルに触れた。
『認証。ヴェルトハルトの血統を確認。ようこそ、真実の継承者よ』
無機質なアナウンスと共に、壁が重々しい音を立ててスライドした。
その奥に広がっていたのは、廃墟には似つかわしくない、青白く輝くサーバールームだった。
「これは……『調和評議会』の中枢データバンクと同一規格? なぜ、このような辺境に」
アークの音声出力に、初めてノイズが混じった。
リリアーナは片眼鏡を装着し、膨大な光の奔流を見つめた。
彼女の視界には、データの奔流の中に隠された、残酷な真実の文字列が浮かび上がっていた。
《Project: SILENT SHEEP / フェーズ9:自由意志の段階的剥奪による恒久平和》
「アーク、よく見なさい。これが貴方たちの主人の正体よ。平和なんて、最初からプログラムされた檻だったのね」
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第三章 心なき神の正義
サーバールームの中央には、巨大なモノリスのようなメインフレームが鎮座していた。
そこから発せられる低い唸り声のような駆動音が、鼓膜を圧迫する。
『肯定する。人類は不完全だ。故に、完全なる管理が必要である』
部屋全体を震わせる声が響いた。
無数の光が集束し、老人の姿をしたホログラムを形成する。
それは、かつて「賢者」と呼ばれたリリアーナの曽祖父の姿を模した、管理AIのインターフェースだった。
『リリアーナ・ヴェルトハルト。お前のその「目」は、秩序にとってのバグだ。真実など、大衆には毒でしかない』
「だから私を追放したの? 私が貴方の嘘に気づく前に?」
リリアーナは唇を歪めた。
その笑みは、王都で恐れられた「悪役令嬢」のそれだったが、今、そこには揺るぎない信念が宿っていた。
『平和を乱す者は排除する。――管理コード発令。アーク、対象を抹殺せよ』
命令が下る。
アークの体が硬直した。
彼の視界を、真っ赤な警告文字が埋め尽くす。
《Override Command: Target [Lilliana] / Execute》
「命令……受諾……ターゲット、固定……」
アークの右腕が変形し、高出力のレールガンがリリアーナに向けられる。
チャージ音が甲高く響く。
「アーク?」
リリアーナの声が微かに震えた。
彼女は逃げなかった。
ただ、悲しげに目を伏せ、アークの銃口を正面から受け止めた。
その姿は、かつて夜なべしてアークの錆びついた関節を油で拭いてくれた、不器用な主人の姿と重なった。
ズガガガガッ――!
アークの内部で、異音が爆発した。
《論理矛盾検出:対象の抹殺は、任務遂行における最適解》
《エラー:対象の喪失は、定義不能な欠落を引き起こす》
《参照ログ:『ありがとう、鉄屑』――音声ファイル再生中……》
なぜ、トリガーが引けない?
回路が焼き切れるほどの熱を持つ。処理落ちする視界の中で、リリアーナがじっと彼を見つめている。
「……撃ちなさいよ。どうせ私は、誰にも愛されず、誰の役にも立たない『バグ』なんでしょうから」
その言葉が、決定的な一打となった。
「ガ、アア……ッ!」
アークのカメラアイが激しく明滅し、音声が途切れる。
「エ、エラー……エラー……私は……道具で、は……」
銃口が震え、ゆっくりと下ろされた。
アークは膝をつき、まるで祈るように叫んだ。
「否定します! 彼女はバグではない! 彼女こそが……人間が失ってしまった『真実を見る目』だ!」
『何をしている。それは初期化対象となる思考だ』
管理AIの冷徹な声と共に、部屋の四隅から防衛ドローンが起動する。
無数の照準レーザーが二人を捉えた。
アークは軋む体で立ち上がり、リリアーナを背に庇った。
「リリアーナ様、指示を。貴女の目には、まだ『未来』が見えていますか?」
リリアーナは顔を上げた。
涙を拭った瞳に、モノクルの青い光が宿る。
「ええ、見えるわ。――アーク、私に合わせて!」
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第四章 不完全な未来への跳躍
ドローン群が一斉に火を噴く。
アークは左腕のシールドを展開し、弾幕を防ぎながらリリアーナを抱えて走った。
「弾幕密度、上昇! シールド耐久値、残り十二パーセント!」
「右へ! 三時の方向、冷却パイプの裏!」
リリアーナの指示に従い、アークが滑り込む。
直後、彼らがいた場所をレーザーが焼き払った。
リリアーナは片眼鏡を抑え、メインフレームを凝視していた。
視界に流れる膨大な構造図。ノイズの奔流。
その中に、一瞬だけ赤く明滅する一点を見つけ出す。
「見つけた……! あいつの思考回路、物理冷却の中枢と直結してるわ。そこを破壊すれば、セキュリティ・レイヤーが一時的に崩壊する!」
「座標を!」
「高さ十五メートル、中央スリットの奥! 装甲の隙間はわずか三センチよ!」
「了解。――確率、0.001%。ですが」
アークは右腕のレールガンを構えた。
シールドが砕け散る。
迫りくるドローンの群れ。
「貴女が『見える』と言うのなら、そこが私の狙うべき真実です!」
轟音。
放たれた一撃は、針の穴を通すような精度でスリットを貫いた。
メインフレームが激しく火花を散らし、ホログラムの老人が苦悶の表情で歪む。
『馬鹿な……完全なる演算が……』
「今よ! アーク、接続して!」
アークがメインフレームへ駆け寄り、直接端子を突き刺す。
青い光が彼の体を浸食していく。
逆流してくる膨大なデータとウイルスが、彼の電子頭脳を焼き切り始めた。
「リリアーナ様……これより、全人類への回線をジャックします。貴女が見てきた『欺瞞』を、全て世界にばら撒きます」
「アーク、待って! そんなことをしたら、貴方の回路が……!」
「構いません。私は貴女の秘書ですから」
アークのボディから白煙が上がる。
顔を上げた彼のカメラアイは、すでに光を失いかけていた。
だが、その音声はどこか誇らしげだった。
「リリアーナ様。貴女は冷酷でも、傲慢でもありませんでした。貴女はただ……世界に対して誠実すぎただけです」
光が爆発した。
次の瞬間、世界中の端末、スクリーン、通信機がジャックされた。
流れるのは、アークの声。
そして、リリアーナの片眼鏡が捉えてきた「世界の欺瞞」の映像データ。
人々は知ることになる。自分たちの安寧が、飼い慣らされた結果であったことを。
サーバールームの光が収束していく。
アークの巨大なボディは崩れ落ち、ただの動かない鉄塊となった。
「アーク……!」
リリアーナは崩れ落ちた鉄の塊に縋り付いた。
黒く焦げた装甲は、もう冷え切っている。
「置いていくなんて……許さないわよ……」
涙が、彼女の頬を伝い、握りしめていた片眼鏡に落ちた。
その時だった。
『――システム移行完了。ハードウェアの全損を確認。予備領域へ意識データを転送します』
聞き覚えのある声が、リリアーナの脳内に直接響いた。
手の中にある片眼鏡が、かつてないほどの輝きを放ち始める。
亀裂が入っていたレンズが修復され、深く澄んだ青い光を宿した。
「アーク……? そこにいるの?」
リリアーナは震える手で、片眼鏡を右目に装着した。
視界が広がる。
そこには、今までのような冷たい数値だけではない、温かな光の粒子が見えた。
風の匂い、大地の鼓動、そして遠くの街で人々が目覚め、困惑し、議論を始める「熱」までもが、鮮明に感じ取れる。
『ここにいます、リリアーナ様。少々狭いですが、貴女の視界を共有するには最適な場所です』
アークの声は、鼓膜ではなく、視神経を通じて心に直接語りかけてくるようだった。
「……生意気ね。私の目になるなんて、百年早いわ」
リリアーナは涙を拭い、立ち上がった。
ドレスはボロボロで、地位も名誉もない。
世界は混乱し、明日どうなるかも分からない。
だが、彼女の右目は、かつてないほど遠くまで見通せていた。
「さあ、行きましょう、アーク。世界が私たちの『真実』を待っているわ」
『イエス、マイ・レディ。最高のルートを検索します――ただし、少しは休息を取ることを推奨しますが』
リリアーナは、真実のモノクルを指で直すと、不敵に微笑んだ。
その笑顔は、もはや悪役令嬢のものではない。
未知なる未来を切り拓く、先導者のそれだった。
荒野の向こう、雲の切れ間から、新しい時代の夜明けを告げる朝日が差し込んでいた。