空白のレクイエム
第一章 蝕む愛と癒えぬ傷
俺は死神だ。
愛という名の鎌を振るい、触れた家族の命を摘み取っていく。自覚のない、最も残酷な死神。
書斎の窓から差し込む月光が、床に落ちた俺の影を長く引き伸ばしていた。その影は、まるで俺自身の罪の形を模しているかのようだ。兄のヨルが死んだのは三年前。画家の父が逝ったのは、その翌年。そして、最愛の母が冷たくなったのは、三ヶ月前の凍てつくような冬の朝だった。
誰もが原因不明の緩やかな衰弱、と言った。だが俺だけは知っている。彼らは、俺が深く愛せば愛すほど、その生命の灯火を急速に失っていったのだ。俺が「愛している」と強く願うたびに、彼らの頬はこけ、瞳の光は翳っていった。
その証拠に、俺の身体には家族の死の度に『未練の傷』が刻まれてきた。
兄が死んだ時、俺の左脚にはまるで茨が巻き付いたような痣が浮かび上がった。風のように草原を駆けるのが好きだった兄の、「もっと走りたかった」という悲痛な声が、今も時折、傷の疼きと共に聞こえてくる。
父が死んだ時、利き腕である右腕に、絵の具が飛び散ったような形の火傷にも似た傷が刻まれた。キャンバスに向かう父の背中を思い出すたび、「まだ描きたいものがあった」という無念の囁きが、筆を握ることすらできなくなった俺の腕を締め付ける。
これらは、残された者が背負うという、この世界の理。死者の未練が、最も近しい者の身体に形となって現れるのだ。傷は、その未練が果たされるまで決して癒えることはない。だが、その代償として、傷を持つ者だけが死者の記憶の断片を垣間見、彼らの『声』を聞くことができる。俺にとって、それは慰めではなく、終わらない拷問に他ならなかった。
しかし、母が亡くなった時に俺の胸に刻まれたものは、それらとは全く異質だった。
心臓の真上、皮膚が滑らかに陥没し、何の形も、色も、温度すらも感じさせない、完全な『空白』。まるで、そこに在ったはずの何かが、根こそぎ抉り取られたかのような、虚無の傷跡。
兄の傷は疼き、父の傷は熱を持つ。だが、母の傷はただひたすらに、沈黙している。
母さん、あなたは俺に何の未練もなかったのですか? それとも俺の呪いが、あなたの最後の想いすらも喰らい尽くしてしまったのですか?
答えのない問いが、鉛のように心を沈ませる。
ふと、机の上に置かれた小さな木箱に目が留まる。母が幼い俺にくれた、『空っぽのオルゴール』だ。
「カイの一番大切な人の声が、いつかきっと聞こえるからね」。そう言って微笑んだ母の顔が蘇る。兄が死んでも、父が死んでも、そして母自身が死んでも、このオルゴールは一度も鳴ったことがない。ただのガラクタだ。俺はそれを握りしめ、音のしない冷たい沈黙に、再び絶望するしかなかった。
第二章 無音の旋律
母の遺品を整理する日々は、心を鈍らせるには十分な、静かで単調な時間だった。彼女が愛用していたショールの匂い、読みかけで栞が挟まれたままの本、一つ一つが鋭い刃となって記憶を切り刻む。その中で、俺はクローゼットの奥から、古びた革張りの日記を見つけ出した。
ページをめくる指が、微かに震える。そこに綴られていたのは、俺の知らない母の苦悩だった。
『ヨルが日に日に弱っていく。医者は首を傾げるばかり。あの子がカイの手を握ると、一瞬だけ安らかな顔をするのが、かえって私の胸を締め付ける』
『夫の筆が止まった。あれほど絵に情熱を燃やしていた人が、キャンバスを前にただ溜息をついている。カイが背中をさすると、「お前の手は、不思議と温かいな」と呟いていた。その温かさが、命を奪っているとも知らずに…』
心臓を鷲掴みにされたような衝撃。やはり、母は気づいていたのだ。俺の愛が、家族を蝕む呪いであることに。絶望に目の前が暗くなる。だが、読み進めるうちに、俺は奇妙な記述に気づいた。
『この村に古くから伝わる「魂の肩代わり」の伝承。愛の深さが、死の苦しみを引き受けるという…。まさか。でも、もしそれがカイの持つ力なのだとしたら、それは呪いなどではないのかもしれない』
『「愛の代償」。文献を漁るほどに、確信が深まっていく。あの子は死神などではない。だとしたら、私があの子にしてあげられることは、たった一つだけ』
日記の最後のページは、乱れた文字でこう締めくくられていた。
『あの子を、呪いの記憶から解放するために。あのオルゴールが、いつか真実の声を奏でてくれますように』
意味が分からなかった。「魂の肩代わり」とは何だ? 呪いではないとしたら、この胸を苛む罪悪感は、家族を失ったこの喪失は、一体何だというのだ。母は何かを知り、そして何かを実行しようとしていた。それが、この不気味な『空白の傷』と関係していることだけは、確かだった。俺は日記を強く握りしめ、母が最後に辿り着いたであろう真実を求めて、陽の光の下へと駆け出していた。
第三章 死の転送
母が調べていた伝承を追う旅は、困難を極めた。村の図書館の埃っぽい書庫を漁り、忘れられたような小さな祠を訪ね歩いた。誰もがそんなものは迷信だと笑う中、俺はついに、村で最も年老いたという、山の麓に住む記録番の老婆の元へと辿り着いた。
老婆は、俺の顔と、腕や脚に刻まれた『未練の傷』をひと目見るなり、深く皺の刻まれた瞳を悲しげに細めた。
「…お前さんは、『運び屋』の一族だね」
老婆が語った真実は、俺の世界を根底から覆すものだった。
俺の一族に伝わる力は、家族の寿命を削る呪いなどではなかった。それは、『愛する家族が死を迎えるその瞬間、その痛み、苦しみ、恐怖の全てを、自らの魂に転送し、肩代わりする』という、究極の慈愛の力。愛する者に、安らかで穏やかな最期を贈るための、あまりにも過酷な祝福。
「あんたの家族が穏やかな顔で逝ったのは、死の苦しみを全てあんたが引き受けたからさ。彼らは死の淵で、あんたの魂の温もりに包まれて、安らかに旅立っていったんだよ」
雷に打たれたようだった。
兄が死ぬ間際、俺の手を握り「お前がいると、なぜか安心する」と言った。
父が息を引き取る直前、朦朧としながらも「カイ…そこに、いるのか…」と呟いた。
あれは、死の瞬間に俺の魂が彼らの側に『転送』されていたから。俺は彼らの死の苦しみを、この身に引き受けていたのだ。
そして、その転送を受け止めるたびに、俺自身の命もまた、少しずつ削られていた。家族の短命は、俺が彼らの死を肩代わりした代償だった。
「俺は…」
声が、喉の奥で詰まる。
「俺は、殺していたんじゃないのか…? 守って、いたのか…? この、手で…?」
俺は書斎に駆け戻り、鏡の前に立った。そこに映る自分は、もはや死神ではなかった。愛する者たちの最期を、たった一人で看取り続けた、傷だらけの男がいただけだった。
兄の脚の傷も、父の腕の傷も、彼らが死の苦しみから解放されたがゆえに、純粋な『生への渇望』だけが未練として残ったものだったのだ。
涙が溢れて止まらなかった。長年背負ってきた罪悪感が溶けていく安堵と、真実を知らなかったことへの後悔、そして、それでも家族を失ったという紛れもない悲しみが、濁流のように胸の中で渦を巻く。
俺は崩れ落ち、嗚咽した。
だが、一つの巨大な謎が、依然として横たわっていた。
ならばなぜ、母の傷だけが『空白』なのだ? 母は、俺に死を転送しなかったというのか?
なぜだ、母さん。なぜ、俺にだけ、その最期の苦しみを分かち合ってくれなかったんだ…!
第四章 空白のレクイエム
真実の光は、時に影をより濃くする。俺は自室に戻り、まるで世界の全ての虚無を吸い込んだかのような、胸の『空白の傷』をただ見つめていた。それはもはや不気味な呪いの痕ではなく、母からの最後の問いかけのように思えた。
震える指で、意を決して、その滑らかな陥没にそっと触れた。
その瞬間だった。
声ではない。記憶でもない。熱い奔流のような、母の『決意』そのものが、俺の魂に直接流れ込んできた。
――ああ、やはりこの子は、私の想像以上に優しい力を持っていた。
――この力で、これ以上この子の命を削らせてはならない。
――この子が背負う力を、『死を肩代わりする呪い』ではなく、『悲しみを分かち合い、死を共有する絆』として受け入れられるように。
――そのために、私にできることは一つだけ。
母は、全てを知っていた。俺の力の正体も、その代償も。そして、自らの死の間際、俺が手を握りしめ、その力を発動させようとした瞬間、母は自身の強い意志で『死の転送』を拒絶したのだ。俺から与えられる安らかな死ではなく、ありのままの『死』を、たった一人で受け入れた。
未練すら残さないほどの、完全な受容と、息子への愛。
だから、この傷には何の形もないのだ。『空白』は、母が俺に残してくれた、最大の愛の証だった。
俺が母の最後の決意を理解した、まさにその時。
ちりん、と澄んだ音が響いた。
机の上の『空っぽのオルゴール』が、ひとりでに蓋を開き、柔らかな光を放ちながら、初めての旋律を奏で始めた。
それは、転送されなかったがゆえに、誰にも邪魔されず、自由に語られた母の本当の声だった。
『カイ、私の愛しい子。あなたは誰の命も奪ってなどいないわ。あなたはただ、誰よりも深く、人を愛せるだけ。その力は呪いじゃない。あなたが愛した人々の最期を、その腕で温かく包み込むための、神様からの贈り物なのよ。だから、もう自分を責めないで』
オルゴールの音色に乗って、母の声が部屋を満たす。
『あなたの胸の傷は、私があなたをどれほど愛していたかの証。何も残さなかったのではなく、私の全ての愛を、その空白に込めたの。あなたが、前を向いて生きていけるように。…あなたの愛した記憶と共に、生きて、カイ』
涙が、後から後から頬を伝い、床に落ちた。
胸の傷は、もう痛まない。いや、痛みはある。だがそれは、絶望の色をしていなかった。失われた家族の愛と、遺された自分の命を繋ぐ、聖痕のような確かな痛みだった。
夜が明け、新しい光が書斎に差し込み始める。俺は窓辺に立ち、胸の傷にそっと手を当てた。兄の声も、父の声も、まだ聞こえる。彼らは俺の中で生きている。そして母の愛は、この空白の傷の中で、永遠に俺を守り続けてくれるだろう。
オルゴールの最後の音が、朝の静寂に溶けていく。
俺は死神ではない。
愛する者たちの最期を看取る、ただ一人の運び屋だ。
そしてこれからは、彼らが残してくれた全ての記憶と共に、生きていく。