幻視の食卓
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幻視の食卓

第一章 黄金色の食卓

僕、桐谷カイトの目には、世界が少しだけ違って見えている。父の背中からは、年輪を重ねた大樹のような、頼もしい黄金の糸が伸びている。母の指先からは、焼きたてのパンのように柔らかく温かい白銀の糸が。そして、少しだけ反抗的な妹のハナの髪からは、夕焼けを映したような鮮やかな朱色の糸が、僕へと繋がっていた。

食卓は、僕にとって聖域だった。四方から伸びた光の糸が、テーブルの中央で緩やかに絡み合い、淡い光の塊となって食卓を照らす。これが僕の家族の「結びつき」だった。物理的な距離も、心のすれ違いも、この光の前では些細なことに過ぎなかった。

それだけではない。「共鳴記憶」と呼ばれる現象が、僕たちの絆をさらに強固にしていた。母が作った温かいシチューをスプーンで口に運ぶと、父が今日の会議で感じた緊張感や、彼がデスクで口にした苦いコーヒーの香りが、脳裏にふっとフラッシュバックする。窓の外を見ているハナの横顔を眺めていると、彼女が美術の授業で描いた、歪んだ自画像のイメージと絵の具のツンとした匂いが、まるで自分の記憶のように流れ込んでくる。

情報は断片的で、表層的だ。それでも、この絶え間ない記憶の共有こそが、僕たちが「家族」であることの絶対的な証明だった。僕たちは離れていても、常に共に在る。

リビングの隅には、幼い頃に家族全員で作った「思い出の糸束」が飾られている。父が選んだ金色の毛糸、母のお気に入りの銀色の刺繍糸、ハナが選んだ真っ赤なリボン、そして僕が加えた青い麻紐。それらが不格好に、しかし誇らしげに結び合わされ、窓から差し込む光を浴びてキラキラと輝いている。それは、僕たちの絆を物理的に具現化した、小さな太陽のような存在だった。

第二章 静かな亀裂

その朝、異変は音もなく訪れた。

目覚めた瞬間、いつもなら感じているはずの感覚がなかった。キッチンから漂うパンの焼ける匂いと、母の小さな鼻歌。その共鳴記憶が、僕の朝を告げるアラームだったのに、今朝は完全な沈黙だけが僕の意識を満たしていた。

リビングに下りると、母はいつも通りにトーストを焼き、父は新聞に目を落としていた。ハナはスマホの画面を睨んでいる。日常、そのものだ。

しかし、僕の目には、その光景が恐ろしく歪んで見えた。

家族を結んでいた光の糸が、見る影もなく細く、色褪せていたのだ。父の黄金色はくすんだ真鍮のように、母の白銀は鈍い鉛色に濁り、ハナの朱色は血の気を失ったように薄れていた。食卓の中心で輝いていた光の塊は、まるで消えかけの蝋燭の炎のように、か細く揺らめいているだけだった。

「……何か、変じゃない?」

僕の声は、自分でも驚くほど乾いていた。

父が新聞から顔を上げた。「何がだ?」

「いや、なんか……静かすぎるっていうか」

「いつも通りだろう」

母が「カイト、寝ぼけてるの?」と笑いながらコーヒーを差し出す。そのマグカップから、共鳴記憶は一切流れ込んでこない。ただ、温かい陶器の感触だけが、僕の手に伝わった。

誰も気づいていない。僕だけが、この世界の崩壊を目の当たりにしている。目の前にいる家族が、まるで精巧に作られた人形のように見えた。彼らは笑い、話し、食事をする。しかし、その内側から伝わってくるはずの温もりが、記憶の響きが、何も感じられない。存在しているのに、存在していない。その途方もない違和感と孤独感が、僕の胸を冷たく締め付けた。

ふと、リビングの隅に飾られた「思い出の糸束」に目がいく。光を浴びているはずなのに、その輝きは明らかに失われ、まるで埃を被った古い雑巾のように、色褪せて見えた。

第三章 褪せる糸束

日々は、静かな悪夢のようだった。家族の糸は蜘蛛の巣のように細くなり、共鳴記憶は完全に途絶えた。食卓はただの食事の場でしかなく、家族の会話は、意味を持たない音の羅列のように僕の耳を通り過ぎていく。

僕は焦っていた。失われた繋がりを取り戻そうと、必死にもがいた。古いアルバムを持ち出しては思い出話をしてみたり、わざと大声で笑って見せたり。しかし、家族の反応はいつも同じだった。彼らは僕の奇行を少し不思議そうに眺めるだけで、その奥にある僕の絶望には、誰一人として気づかない。

「俺の頭がおかしくなったのか……?」

ある晩、僕は自室で「思い出の糸束」を手に取った。かつては触れるだけで心の奥が温かくなるような気がしたのに、今はひどく冷たく、乾いていた。金色の毛糸は色褪せ、銀色の刺繍糸は黒ずんでいる。まるで、僕の目に映る現実の家族の糸と同期するように、この糸束もまた、ゆっくりと死に向かっているようだった。このままでは、すべてが消えてしまう。僕が「家族」と信じてきた、この世界のすべてが。

第四章 破れた幻想

大学の合格通知が届いた日、家の空気はどこか浮ついていた。春からは家を出て、一人暮らしを始めることが決まった。母は喜び、父は静かに頷いた。だが、僕の心は晴れなかった。家族がこんな状態のまま、家を出ることなどできるはずがなかった。

その夜、夕食の席で僕は爆発した。

「兄さん、ぼーっとしてないで醤油取ってよ」

ハナのぶっきらぼうな声が、僕の張り詰めた神経をいとも簡単に断ち切った。

「うるさいな! お前には関係ないかもしれないけどな!」

「はあ? 何がよ。最近、兄さんマジで変だよ」

「変なのはお前たちの方だろ! 家族がバラバラになっちまうって時に、なんで平気な顔してんだよ!」

僕の叫び声に、食卓が凍りついた。カッとなった僕は立ち上がり、目の前にいたハナの肩を、自分でも信じられないほどの力で突き飛ばしてしまった。

ガタン、と椅子が倒れる音が響く。

ハナは床に手をつき、驚きと悲しみに彩られた目で僕を見上げた。

その瞬間だった。

僕の目に映っていた、ハナと僕を結ぶ最後の細い糸が、ぷつん、と音を立てて消えたのだ。

全身から血の気が引いた。終わった。完全に断ち切られてしまった。

だが、その絶望の直後、僕はあり得ないものを見た。糸が消えた瞬間、目の前のハナの表情が、これまでにないほど鮮明に、生々しく目に飛び込んできたのだ。驚き、痛み、そして兄への失望。涙を必死にこらえ、きつく噛み締められた唇の震え。それは共鳴記憶のような断片的なイメージではない。僕とは全く違う、ハナという一人の少女の、独立した「個」の感情そのものだった。

頭が真っ白になった。僕は混乱のまま玄関のドアを開け、夜の闇へと飛び出した。

第五章 糸のない世界

冷たい夜風が頬を打つ公園のベンチで、僕は震えていた。なぜだ。なぜ、繋がりが完全に消えたあの瞬間に、僕は妹を「理解」できたんだ?

これまで僕が見ていた「結びつきの糸」とは、何だったのだろう。絶えず流れ込んできた「共鳴記憶」とは、一体何だったのか。それは本当に、家族の絆そのものだったのだろうか。

違う。

あれは、僕自身の心が作り出した幻想だったのだ。

家族は一つであるべきだ。互いを完璧に理解し合っているべきだ。その強すぎる願いと、家族という安全な殻への依存が、光の糸と共鳴記憶という「幻視」を生み出していた。僕は、家族を「僕」という世界の延長線上でしか見ていなかった。父も、母も、ハナも、僕が定義した「家族」という枠組みの中の登場人物に過ぎなかったのだ。

大学進学と一人暮らし。それは、僕が初めて「個」として家族から切り離されることを意味していた。僕の無意識は、その自立を恐れた。だからこそ、幻想の繋がりを必死に維持しようとした。だが同時に、成長しようとする僕の心は、その幻想を壊そうとしていた。僕が感じていた「異変」とは、僕自身の心の中で繰り広げられていた、依存と自立の壮絶な戦いの余波だったのだ。

夜が明け、僕はゆっくりと家に戻った。リビングのドアを開けると、ソファに座ったまま眠ってしまった母と、心配そうな顔で僕を見つめる父とハナがいた。

もう、僕の目には一本の糸も見えなかった。

黄金も、白銀も、朱色も、すべてが消え去った世界。

しかし、そのがらんどうの世界で、僕は初めて、彼らの本当の姿を見た気がした。父の沈黙に込められた深い心配。母の潤んだ瞳に映る安堵。ハナの気まずそうな、それでいて僕を案じている視線。言葉にならない感情が、痛いほど伝わってくる。

僕は、生まれて初めて家族を「他人」として認識した。僕とは違う心を持ち、僕の知らない人生を生きる、独立した個人として。それは途方もなく孤独な発見だったが、同時に、不思議なほどの解放感と、彼らへの尊敬の念が胸に広がった。

第六章 はじまりの食卓

「……ごめん。俺、少し混乱してた」

僕が絞り出した言葉に、家族は何も言わず、ただ静かに頷いた。

その日の朝食は、奇妙なほど静かだった。共鳴記憶のフラッシュバックはない。ただ、食器が触れ合う音、パンを咀嚼する音、時折交わされるぎこちない会話があるだけ。

でも、不思議なことに、僕の心は穏やかだった。目の前の父が何を考えているのか、もう「見る」ことはできない。母の本当の気持ちも、妹の心の奥底も、もう分からない。

だからこそ、知りたいと思った。

言葉を尽くして尋ね、耳を澄まして聴き、時間をかけて、ゆっくりと理解していきたい。それが、本当の「結びつき」なのだと、僕はようやく悟ったのだ。

ふと、リビングの隅の色を失った「思い出の糸束」に目をやる。それはもう輝いていない。ただの古びた糸の塊だ。しかし、僕にはそれが、古い自分との決別の証のように、そして本当の家族関係の始まりを告げる記念碑のように、誇らしく見えた。

僕は、目の前の父に向かって、静かに問いかけた。

「父さん、そのコーヒー、どんな味?」

父は一瞬驚いたように僕を見つめ、それから、少し照れたように、はにかむように笑った。

「……苦いだけだよ。飲んでみるか?」

その言葉が、どんな鮮やかな共鳴記憶よりも温かく、深く、僕の心に染み渡っていった。

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