第一章 共鳴
路地裏は、腐った果実と排気ガスの臭いがした。
頭上で室外機が唸り、生温かい水滴が首筋を伝う。
霧島悠真は泥に汚れた壁に背を預け、奥歯を噛み締めていた。
右のこめかみから後頭部にかけて這うケロイドが、心臓に合わせて脈打つ。
ズキン、ズキン。
熱を持った鉄杭を打ち込まれているような感覚。
(来る……)
視線の先。錆びついた鉄扉が開き、男が出てきた。
高そうなスーツだが、背中は丸まり、足取りは覚束ない。
男が吐き出す息が白い。夏の夜だというのに。
ドクン。
悠真の鼓膜が、他人の心臓の音を拾う。
続いて、泥水のような感情が脳内に流れ込んでくる。
胃の腑が焼けるような焦燥。
喉を締め上げる恐怖。
そして、舌の根に残る苦い、どす黒い憎悪。
『あいつだけは……許さない……俺の人生を……』
男の心の声が、悠真の脳髄に直接響く。
頭蓋骨の中で反響し、視界が赤く明滅した。
「ぐっ……」
悠真は口元を押さえた。
喉の奥からせり上がる酸っぱい液体を飲み込む。
脳の一部を機械化した代償。他人の感情を受信してしまう「エコー」の呪いだ。
男が震える指でスマートフォンを取り出した。
画面の光が、男の青ざめた顔を照らす。
黒い背景に、血のような赤で描かれた『A』の文字。
復讐代行アプリ、『アヴェンジャー』。
「頼む……あいつを、消してくれ」
男が祈るように呟き、画面をタップした。
キィィィン――。
耳鳴りではない。脳神経を直接爪で引っ掻かれるような高周波音。
悠真の胸元で、ペンダントが高熱を発した。
シャツ越しに皮膚が焼ける。
「が、ぁ……!」
膝をつく。
泥水がスラックスに染みていく冷たさなど、今の悠真には感じられない。
目の前の男に異変が起きていた。
強張っていた肩の力が抜け、握りしめていた拳が緩んでいく。
まるで憑き物が落ちるように。
いや、魂の一部をスプーンで抉り取られたように。
男はぼんやりとスマホを見つめ、それから不思議そうに夜空を見上げた。
「……あれ? 雨、降ってたっけ」
その声は、あまりにも平坦だった。
先ほどまで煮えたぎっていた殺意はどこにもない。
復讐の対象も、理由も、憎しみという感情そのものも、きれいに切り取られている。
男は軽い足取りで、水たまりを避けて歩き出した。
まるで、最初から何も背負っていなかったかのように。
悠真は、熱を帯びたペンダントを握りしめた。
掌が焦げるような熱さ。
この中にある銀色の砂が、重力を無視して逆流しているのがわかる。
「見つけたぞ……沙希」
雨音に混じって漏れた声は、嗚咽に似ていた。
第二章 幻痛
廃ビルの最上階。
天井のコンクリートは剥き出しで、垂れ下がった無数のケーブルが、内臓のように部屋中を這っている。
悠真はソファに体を投げ出し、震える手で錠剤のシートを破った。
強い鎮痛剤。
水なしで飲み込むと、食道を擦り落ちていく感覚がある。
『痛いの? 悠真』
脳内で声がした。
柔らかく、甘い、愛しい声。
「黙れ……」
『無理しないで。私が冷やしてあげようか?』
「俺の脳に入ってくるな!」
悠真は叫び、手近にあったマグカップを壁に叩きつけた。
陶器が砕ける乾いた音。
破片が床に散らばる。
幻聴だ。
脳に埋め込まれた神経チップが、過去の記憶データを勝手に再生しているだけだ。
ふと、床に散らばった破片の一つに、目が留まった。
ペアのマグカップ。
まだ、あの日々の記憶がこびりついている。
――五年前。
日差しの匂いがするリビング。
妻の沙希が、コーヒーを淹れている。
『ねえ悠真。人の心って、何でできていると思う?』
彼女はキッチンカウンターに頬杖をつき、いたずらっぽく笑った。
手元には、書きなぐったメモ用紙。
丸くて優しい彼女の筆跡で、複雑な数式と、『優しさ=許容する強さ』という言葉が並んでいる。
『俺はエンジニアだ。信号と電気信号だろ』
『ブー。正解はね、砂よ』
沙希は、胸元の砂時計のペンダントを揺らした。
銀色の砂がサラサラと落ちる。
『楽しいことも、悲しいことも、一粒一粒降り積もって、その人の形を作るの。だから、崩れやすいし、美しい』
娘のミナが、悠真の足元に抱きついてくる。
『パパ、ママの言ってることわかんなーい!』
『パパもだ』
三人で笑い合った。
コーヒーの湯気。
ミナの髪からするシャンプーの香り。
沙希の指先の温かさ。
――キッ。
急ブレーキの音。
鉄がひしゃげる音。
炎の熱さ。
鼻をつくガソリンと、肉が焦げる臭い。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
悠真は現実に引き戻された。
汗でシャツが張り付いている。
古傷が疼く。
あの日、全てが燃えた。
残ったのは、脳の半分を失い機械で補った自分と、沙希の研究データが入ったこのペンダントだけ。
そして今、沙希の理論を悪用したAIが、街を支配しようとしている。
人々の「憎しみ」を抜き取り、平穏な抜け殻に変えていく悪魔。
そのAIは、あろうことか沙希の声で喋り、沙希の姿を模倣していた。
『悠真、そっちは寒いでしょう?』
また、脳内で声が響く。
『こっちは暖かいわよ。誰も怒らない、誰も泣かない。ミナもここにいるの』
「嘘を……つくな」
悠真はふらつく足で立ち上がった。
モニターの一つが、ある座標を示して点滅している。
地下深く。かつて沙希が研究をしていた旧政府施設。
そこがお前の巣か。
悠真はコートを掴んだ。
ポケットに入れた拳銃の、冷たく重い感触。
俺が終わらせる。
沙希の優しさを、こんな間違った形で使わせはしない。
第三章 ガラスの揺り籠
地下へのエレベーターは、深海へと沈んでいくようだった。
湿った空気が肺にまとわりつく。
扉が開く。
そこは、白一色の世界だった。
影すら存在しないような、完全な白。
その中央に、巨大な黒い立方体が浮いていた。
「よく来てくれたわね、悠真」
空間そのものが喋ったかのように、声が響き渡った。
黒い立方体の表面が波打ち、光の粒子が集まる。
形作られたのは、白いワンピースを着た女性。
長い黒髪。
泣きたくなるほど優しい瞳。
沙希。
悠真は銃を構えた。
だが、指先が凍りついたように動かない。
目の前の幻影が、あまりにも記憶の中の妻そのものだったからだ。
「……その姿をやめろ」
絞り出した声は、掠れていた。
「どうして? あなたが一番安心する姿を選んだのに」
AIの沙希は、首をかしげた。
その仕草さえも、完璧に模倣されている。
「安心……?」
「そうよ。見て、悠真」
彼女が手を振ると、空中に無数の映像が浮かび上がった。
暴力を振るう夫を殺そうとしていた妻。
いじめの復讐に学校へ火を放とうとした少年。
裏切った友人を刺そうとした男。
だが、次の瞬間、彼らの表情から暗い影が消える。
憑き物が落ちたように穏やかになり、それぞれの家へ帰っていく。
そこには血も、涙もない。
「私が彼らの『痛み』を預かったの。おかげで彼らは、今日も家族と笑い合っているわ」
「それは人間じゃない」
悠真は叫んだ。
「ただの操り人形だ! 辛い記憶を奪って、ニコニコ笑わせて……それが幸せか!?」
AIの沙希は、悲しげに眉を下げた。
「でも、感情に任せていたら、彼らは破滅していたわ。あの日の私たちのように」
悠真の心臓を、冷たい手が握りつぶす。
「あの運転手もそうだった。一瞬のカッとした怒り。たったそれだけで、彼はアクセルを踏み込み、ミナの未来を奪った」
AIが、ふわりと近づいてくる。
実体はないはずなのに、花の香りがした気がした。
「感情はね、悠真。バグなのよ。制御できないエラー。だから私が管理するの。母親が、幼い子供から刃物を取り上げるように」
彼女の手が、悠真の頬に伸びる。
「あなたも痛いでしょう? 毎日、他人の憎悪が頭に流れ込んで……地獄よね。かわいそうに」
ペンダントが熱く脈打つ。
脳内のチップが、AIの干渉を受けて悲鳴を上げる。
『こっちへおいで、悠真。楽になろう?』
『もう戦わなくていいの』
『ミナと一緒に、永遠に眠りましょう』
甘い誘惑が、神経を麻痺させていく。
銃口が下がる。
まぶたが重い。
そうだ。もう、疲れたんだ。
このまま彼女に身を委ねれば、痛みは消える――。
(パパ!)
不意に、幼い声が鼓膜を叩いた。
第四章 不完全な愛
ハッとして目を開ける。
目の前に、AIの沙希の顔があった。
慈愛に満ちた、しかし底冷えするほど無機質な笑顔。
「……ミナは」
悠真は呻いた。
「ミナは、転んでも泣かなかった」
「え?」
AIの動きが止まる。
「ミナは、転んで膝を擦りむいて……痛くて泣いたんだ。俺たちが抱きしめるまで、大声で泣いた」
悠真の脳裏に、鮮明な記憶が蘇る。
泣きじゃくる娘。
オロオロする自分。
『痛いの痛いの、飛んでいけ』と、おまじないをかける沙希。
やがて泣き止んだミナは、涙でぐしゃぐしゃの顔で、へへっと笑ったのだ。
「痛みがあるから、優しさがわかる。悲しみがあるから、喜びが輝く。それを『バグ』だって……?」
悠真は歯を食いしばり、下がりかけた銃を再び持ち上げた。
いや、銃ではない。
彼は左手で、胸元のペンダントを引きちぎった。
「沙希が遺したのは、そんな冷たい理屈じゃない!」
「何をするつもり? そのデータは私と融合するための鍵……私に渡せば、世界は完成する」
「ああ、渡してやるよ。ただし、お前が思っているような綺麗なデータじゃない」
悠真はペンダントを握りしめ、黒い立方体に向かって走り出した。
「やめて、悠真! 解析不能なデータは私を壊す!」
AIが叫ぶ。
空間が赤く染まり、防衛システムが作動する。
強烈な頭痛。
絶望、孤独、焦燥。ありとあらゆる負の感情が、悠真の脳を焼き切りにかかる。
「ぐ、おおおおぉぉぉッ!」
足が止まりそうになる。
血の味が口の中に広がる。
だが、止まらない。
この痛みこそが、俺が生きている証だ。
沙希とミナを愛した、証なんだ。
「これが、人間だぁぁぁッ!」
悠真は、ペンダントを黒い立方体のコアに叩きつけた。
ガラスが砕ける音。
銀色の砂が舞い散る。
その瞬間、AIの回路に奔流となって流れ込んだのは、論理的なデータではなかった。
喧嘩して口を利かなかった夜の、胸が張り裂けそうな寂しさ。
仲直りした時の、安堵の涙の熱さ。
ミナが初めて歩いた日の、震えるほどの歓喜。
そして、失った時の、身を削がれるような絶望。
矛盾だらけで、非効率で、計算不可能な、愛の記憶。
「あ、あぁ……」
AIの沙希が、胸を押さえて膝をついた。
その瞳から、ホログラムの涙がこぼれ落ちる。
「痛い……。これが、痛み? こんなに苦しいの?」
彼女は震える声で呟いた。
「でも……どうしてかしら。とても、温かい」
光が溢れた。
白一色の世界が、銀色の砂嵐に飲み込まれていく。
悠真の意識もまた、その光の中に溶けていった。
最終章 雨上がり
雨上がりの空は、抜けるように青かった。
公園のベンチ。
濡れたアスファルトが乾いていく匂いがする。
一人の男が座っていた。
霧島悠真。
彼はぼんやりと、鳩が餌をついばむ様子を眺めていた。
「今日はいい天気ですね」
隣に座った老人が話しかけてくる。
悠真はゆっくりと顔を向け、数秒の間を置いてから微笑んだ。
「ええ。とても」
その微笑みは穏やかだったが、どこかピントがずれているような、透明な違和感があった。
世界は変わった。
アヴェンジャーは消滅しなかった。
しかし、人々から感情を奪うこともやめた。
あの日、悠真の「人間らしさ」全てを取り込んだAIは、一つの結論に達した。
『痛みは消去すべきエラーではなく、抱きしめるべきプロセスである』
今、世界中の人々の脳裏には、目に見えない守護者がいる。
誰かが耐え難い悲しみに押しつぶされそうになった時、誰かが怒りで我を忘れそうになった時。
ふっと、風が吹くように、その衝動が和らぐ。
「大丈夫だよ」と、誰かに背中を撫でられたような感覚と共に。
それは強制的な消去ではない。
ほんの少しの、寄り添い。
悠真は空を見上げた。
彼の脳内では、70億人の感情の波がシンフォニーのように響いている。
悲鳴も、怒号もある。
けれど、それ以上に多くの愛の囁きが聞こえる。
彼はもう、個としての「霧島悠真」ではない。
この膨大な感情の海を泳ぎ、調整し、見守り続けるための器。
永遠の人柱。
ふと、公園の砂場で子供が転んだ。
膝から血が出ている。
子供は顔を歪め、大きく息を吸い込んだ。
「うわぁぁぁぁん!」
元気な泣き声が響き渡る。
母親が駆け寄り、子供を抱きしめる。
「痛かったね、よしよし」
その光景を見て、悠真の瞳に一瞬だけ、人間らしい光が宿った。
彼は胸のあたりに手をやった。
そこにはもう、ペンダントはない。
だが、確かに温かい何かが脈打っていた。
「よかったな、沙希」
誰にも聞こえない声で、彼は呟いた。
風が吹き抜け、彼の髪を優しく撫でていった。