君を推すための解像度

君を推すための解像度

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第一章 バグった座標と推しの顔

スマホの画面が、指紋で少し滲んでいる。

フリック入力する親指は、残像が見えるほど速い。

『今のアリスちゃんのブレス、0.1秒遅らせたよね? あれ絶対、先週のラジオで言ってた“迷い”の表現じゃん。エモすぎて無理。尊死する』

送信ボタンを押す。

即座につく「いいね」の通知音。

私の承認欲求満たし装置が、心地よく振動する。

「……ふぅ」

リアルでの私の声は、驚くほど小さい。

大学の講義室、一番後ろの席。

誰とも目を合わせず、ノイズキャンセリングのイヤホンで外界を遮断する。

天野悠依、19歳。

ネットの海では「預言者」と崇められるオタクだが、現実では空気以下のモブだ。

推しのバーチャルアイドル『星詠アリス』。

彼女だけが、私の世界の色彩だった。

帰り道、ライブのアーカイブを見ながら歩いていた、その時だ。

キキッ――!

視界がヘッドライトの白に塗りつぶされる。

衝撃。

浮遊感。

そして、握りしめていたライブグッズ『アストラル・ライト』の硬質な感触だけを残して、意識がブラックアウトした。

「……きなさい。起きなさい!」

耳をつんざく怒声。

腐った泥のような臭い。

目を開けると、そこは石畳の広場だった。

「あ……ぅ……?」

喉がひきつって、まともな声が出ない。

なんだ、ここ。

中世ヨーロッパ風の街並み。

でも、空には見たこともない二つの月が浮かんでいる。

「おい、この“影”はもう使い物にならねえぞ!」

男の怒鳴り声に視線を向ける。

心臓が、早鐘を打った。

広場の中央。

粗末な木箱の上に、ボロ布を纏った少女が倒れている。

銀色の髪。

透き通るような碧眼。

その顔立ちは、私が何千時間も見つめ続けた、あの顔だった。

「ア……リス……?」

間違いない。

バーチャルなはずの推しが、そこに生身で存在している。

けれど、彼女はひどく衰弱していた。

肌は灰色に濁り、呼吸をするたびに、口元から黒い煤のようなものが漏れ出ている。

「歌え! 客は待ってるんだよ!」

太った男が、少女の肩を蹴り飛ばした。

ドスッ。

鈍い音がして、空間が歪む。

男の足が触れた場所から、ドロリとした黒い液体のような靄(もや)が噴き出し、アリスの身体に纏わりついた。

(なに、あれ……エフェクト?)

いや、違う。

あれは、もっと生理的な嫌悪感を催す、汚濁そのものだ。

「ぐっ……」

少女が小さく呻き、顔を上げた。

その左目の下。

泣きぼくろの位置に、小さな傷があるのを見て、私の息が止まった。

そこは、私が毎朝コンシーラーで隠している、コンプレックスのホクロがある場所と同じだったからだ。

私のポケットの中で、カチリと音がした。

転生する直前まで握っていた、ペンライト。

『アストラル・ライト』が、勝手に明滅を始めたのだ。

――ブゥン。

低い駆動音と共に、ペンライトが異常な熱を帯びる。

火傷しそうなほどの熱さが、掌から全身へ駆け巡った。

少女の胸の奥。

心臓のある場所に、今にも消えそうな、けれど強烈な『光の種』が見える。

そして、彼女を取り囲む群衆からは、男と同じドス黒いヘドロのようなオーラが立ち昇っていた。

『あーあ、もう終わりかよ』

『金返せ』

『イメージと違うわ、劣化しすぎ』

群衆の口元から吐き出された言葉が、文字の形をした刃となって、アリスの肌を切り裂いていく。

嘲笑、嫉妬、軽蔑。

無責任な「正論」の礫(つぶて)。

私の推しが、こんな汚い感情に食い物にされている?

許せない。

許せるわけがない。

私は立ち上がろうとした。

けれど、足がすくんで動かない。

(立てよ、私。いつもみたいに、ネットで反論しろよ)

できない。

キーボードがないと、私はただの臆病な天野悠依だ。

膝が笑う。歯の根が合わない。

男の凶暴な視線が怖い。

でも。

アリスが、消え入りそうな声で「う、た……」と呟いた瞬間。

脳内で、何かが焼き切れる音がした。

――推しが死ぬぞ。お前が動かなきゃ、誰が守るんだ。

「や、やめ……!」

声が裏返る。

蚊の鳴くような声。

それでも、太った男がギロリと私を睨んだ。

「あぁ? なんだお前」

男の圧に、心臓が握り潰されそうになる。

怖い。逃げたい。

けれど、掌のペンライトが、「熱」で私を叱咤する。

私は両手でペンライトを握りしめ、剣のように突き出した。

「その子に……触るな……ッ!」

第二章 ノイズキャンセリング

「触るなだと? こいつは俺たちの商品だ。感情の枯渇病で使い物にならなくなったガラクタだよ」

男が少女の髪を乱暴に掴み上げる。

少女の虚ろな瞳が、私を捉えた。

その瞬間、私の中で何かが繋がった。

ペンライトの光が、彼女の網膜とリンクする。

『助けて……』

声じゃない。

データの奔流のような、感情の塊。

彼女の魂の形が、私の脳内に直接流れ込んでくる。

(――構成パラメータ、異常。感情出力、低下。原因は……外部からの悪意あるアクセスの集中)

オタク特有の高速思考が回転する。

この世界では、感情が物理的な質量を持つらしい。

男たちや群衆の「消費してやる」「見下してやる」という『負の熱量』が、彼女の解像度を下げ、存在を蝕んでいるのだ。

「彼女は……ガラクタじゃない」

私は一歩踏み出す。

不思議と、ペンライトを握る手だけは熱かった。

その熱が、凍りついた私の血管を無理やりこじ開けていく。

「はっ、ならお前が買い取るか? この声を失った歌姫を」

「声なら、ある」

私は断言した。

男が目を丸くする。

「聞こえないのか? 彼女は今、叫んでる。あんたたちの汚い欲望がノイズになってるだけで、その奥で、ずっと綺麗な音が鳴ってるんだよ!」

私はペンライトのスイッチを切り替える。

カチ、カチ、カチ。

選んだのは、アリスのイメージカラーである『プラチナ・ホワイト』。

「おい、なんだその光る棒は……」

群衆がざわめく。

その視線が集まるにつれ、私の足の震えが止まっていく。

注目される恐怖よりも、推しを侮辱された怒りが勝った。

「黙ってろ、地蔵」

私は群衆を睨みつけた。

リアルでこんな言葉、口にしたこともない。

でも今は、ペンライトが私の恐怖心を燃料にして燃え盛っている。

私は少女の前に膝をつく。

彼女の手を取った。冷たい。

その冷たさは、私が孤独な夜に自分の手を握りしめた時の温度と同じだった。

「ねえ、アリス。聞こえる?」

少女の瞳が揺れる。

左目の下の傷が、私の視線に痛いほど焼き付く。

「君の歌の、Bメロからサビに繋ぐ時の、あの一瞬のブレス。あれが好きなの。世界中の誰よりも、君は『伝えたい』って思ってる」

「わ……たし……」

「言葉にできなくてもいい。私が代わりに言うから。君の解像度なら、私が一番高い自信があるんだ」

ペンライトを、彼女の胸に当てる。

私の指先から、熱が伝播する。

それは『推しへの愛』なんて生易しいものじゃない。

彼女の存在そのものを肯定する、純度100%の信仰心だ。

「共鳴(レゾナンス)……開始」

呟いた瞬間、ペンライトが閃光を放った。

視界を覆っていた黒いヘドロが、強烈なホワイトノイズと共に蒸発していく。

「う、うわあああ! なんだこの光は!」

男たちが顔を覆って後ずさる。

光の中で、私は見た。

少女の魂の奥底にある、本当の姿を。

それは、アリスじゃない。

いや、アリスの姿をしているけれど、もっと身近で、もっと切実な……。

(これ……私?)

光の中に浮かんでいたのは、アリスの衣装を着て、堂々とステージに立つ『私自身』の幻影だった。

そこには、ホクロを隠すコンシーラーも、自信なさげな猫背もない。

第三章 推しは、鏡の向こうに

理解した瞬間、鳥肌が立った。

この異世界のアリスは、ただのそっくりさんじゃない。

私が現実世界で押し殺してきた、「こうありたい」「表現したい」「輝きたい」という願望。

それが形を持って生まれた存在。

私の『理想の自分』が具現化したものだったんだ。

だから、彼女が弱っていた。

私が自分を否定し続けてきたから。

私が「推しの言葉」を借りてしか喋れなかったから。

オリジナルを持たない彼女は、他人の悪意に抵抗する術を持たなかった。

左目の下の傷は、私が私自身につけた傷跡だ。

「……ごめん」

涙が滲む。

推しを救うつもりで、私はずっと、自分自身の悲鳴を見て見ぬふりをしてきた。

「君を苦しめてたのは、あいつらだけじゃない。私だ」

少女の手を強く握り返す。

ペンライトの光が、白から七色に変化していく。

「でも、もう逃げない」

私は立ち上がり、群衆に向き直った。

もう、足は震えていない。

「聞けえええええッ!」

私の絶叫が広場に響き渡る。

マイクなんてない。でも、ペンライトが増幅器となって、私の声を魔力に変える。

「あんたたちが『影』だと思って見てたのは、あんたたち自身の心の貧しさだ! 消費するな! ただ浴びるな! 彼女は鏡だ。あんたたちが本気で何かを愛した時だけ、彼女は歌えるんだよ!」

私の言葉は、理屈じゃなかった。

ただの感情の爆発。

けれど、その熱量は物理的な衝撃波となって空気を振動させた。

群衆の中から、一人の子供が声を上げる。

「……きれい」

その純粋な呟きが、最初の火種になった。

ペンライトが子供の感情を吸い上げ、光の粒子としてアリスに注ぐ。

他の人々も、呆気にとられながら、次第にその光に魅入られていく。

嫉妬や悪意が、羨望へ、そして純粋な応援へと変わっていく。

「歌って、アリス! いや――私!」

私は少女の背中を押した。

少女が口を開く。

カスカスだった喉から、鈴を転がすような音が溢れた。

最初はハミング。

次第に、力強い旋律へ。

その歌声は、私が何度も脳内で再生したアリスの声であり、同時に、私がシャワーを浴びながらこっそり口ずさんでいた、私の声でもあった。

光が弾ける。

広場の石畳がステージに変わる。

ボロ布が光の粒子となって剥がれ落ち、純白のドレスが翻った。

左目の下の傷が消え、そこには誇らしげなホクロが一つ、輝いていた。

男たちは、あまりの光量に耐えきれず、影のように溶けて消え失せた。

「ありがとう、悠依」

歌い終わった彼女は、極上の笑顔で私を見た。

それは、私が鏡の前で練習しても一度もできなかった、最高の笑顔だった。

最終章 カーテンコールは私自身のために

光が収束していく。

広場には、清らかな静寂だけが残っていた。

人々は涙を流し、拍手さえ忘れて立ち尽くしている。

彼女が、私の前に立つ。

その体は、少しずつ透け始めていた。

「消え……ちゃうの?」

「ううん。戻るの。あるべき場所に」

彼女は私の胸を指差した。

「私は君の『憧れ』。君が自分を愛せない代わりに生まれた、仮初めの輝き。でも、君はもう、自分の言葉で世界を震わせたよ」

彼女の手が、私の頬に触れる。

温かい。いや、熱い。

「誰かの言葉を借りなくても、君の言葉には力がある。君の『好き』という感情は、世界を救う魔法なんだよ」

「でも、私……やっぱりコミュ障だし、自信ないし」

「知ってる。だからこそ、書くんでしょ? 語るんでしょ? その不器用な情熱が、誰かの光になる」

彼女は、私が持っていたペンライトに手を重ねた。

「これからは、君が推して。君自身を」

光が弾けた。

視界が再びホワイトアウトする。

彼女の笑顔が、光の中に溶けて――。

「――さん。天野さん!」

肩を揺さぶられ、ハッと顔を上げる。

そこは、大学の講義室だった。

教授が不機嫌そうに私を見下ろしている。

「寝ているなら出ていきなさい」

周囲からのクスクスという笑い声。

「おい見ろよ」「またあの根暗かよ」

囁き声が、鼓膜を刺す。

いつもの私なら、真っ赤になって俯き、逃げるように教室を出ただろう。

でも。

私は右手を握りしめる。

ペンライトはない。

けれど、掌の皮膚がヒリヒリと痛い。

火傷のような熱が、確かにそこに残っている。

夢じゃない。

あの熱狂は、私の肉体に刻まれている。

私は椅子から立ち上がった。

背筋を伸ばし、教授の目を真っ直ぐに見る。

「すみません」

教室がざわつく。

いつもの「空気」である天野悠依が、はっきりとした声で喋ったからだ。

「大切な友人に、教わったんです。言いたいことは、はっきり言えって。……講義の途中ですが、帰ります」

「は、はあ?」

「私、どうしても書きたい物語ができたので」

私は鞄を掴み、教室を出た。

足取りは軽い。

心臓が、あの時のライブ会場みたいに高鳴っている。

廊下を歩きながらスマホを取り出す。

SNSのアイコンをタップしようとして、指を止めた。

『推し活探偵Y』のアカウント。

フォロワー数万人の、私の隠れ蓑。

私は迷わず、「ログアウト」を選択した。

そして、新しい文書ファイルを開く。

真っ白な画面。

カーソルが点滅している。

それは、誰かの感想(レビュー)を書くための場所じゃない。

私自身の言葉を紡ぐための、最初のステージだ。

私は深く息を吸い込み、フリック入力を始めた。

かつてない速度で、けれど一文字ずつ、魂を込めて。

『君を推すための解像度』

指先が踊る。

掌の熱は、まだ冷めない。

AIによる物語の考察

主人公・天野悠依は、推し『星詠アリス』に深い「解像度」を持つオタクだが、現実では自己肯定感が低いモブ。異世界で衰弱した生身のアリスと出会うが、実は彼女は悠依自身の「理想の自分」の具現化だった。アリスの左目の下の傷は、悠依がコンプレックスを隠すホクロと同じ位置にあり、自己否定の傷跡を象徴する。悠依が自分を否定し、表現を避けてきたため、その分身であるアリスも力を失い、他者の負の感情に蝕まれていたのだ。

『アストラル・ライト』は、悠依の推しへの純粋な信仰心と「好き」という感情を物理的な力に変え、彼女を奮い立たせる媒介。悠依はアリスを救うことが自己受容に繋がると気づき、臆病な殻を破る勇気を得る。

この物語は、推し活が自己の内面と向き合い、理想の自分を模索する旅であることを問いかける。誰かの言葉を借りてきた「預言者」が、自身の言葉で世界を震わせ、自己肯定へと至る感動的な自己発見と成長の物語を描き出す。推しは自分を映す鏡であり、最高の応援とは、他者ではなく自分自身に向けられるべきだと示唆する。
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