第一章 荊棘の仮面と電子の聖域
シャンデリアの煌めきが、網膜を刺す無数の棘となって降り注ぐ。
王宮の舞踏会場は、コルデリア・フォン・ローゼンハイムにとって華やかな社交場ではない。ここは、感覚という名の神経毒が満ちた処刑台だった。
脂粉の粉っぽさと、腐る寸前の果実を煮詰めたような香水の甘みが、鼻腔の奥にへばりつく。呼吸をするたび、肺が鉛を流し込まれたように重くなる。だが、何よりも彼女を苛むのは、肌の表面を這い回る無数の「視線」だ。
右後方からは粘着質な嫉妬が、左斜め前からは氷のような侮蔑が、不可視の触手となって彼女の二の腕を、首筋を撫で回す。そのたびに粟立つ肌が、ドレスの絹擦れさえも紙やすりのように感じさせた。
こめかみに食い込む冷たい金属の感触――ローゼンハイム家に伝わる『闇色の髪飾り』。
本来は精神を安定させるはずのアーティファクトが、今宵は受信機のように機能していた。周囲の悪意を増幅し、ノイズ交じりの耳鳴りとして脳髄に直接叩き込んでくる。胃の腑が痙攣し、吐き気が喉元までせり上がる。
震えそうになる指先を、扇の柄に食い込むほど強く押し付けることで強引に止めた。
「……目障りですわ。貴女のドレス、安物のカーテンに見えてよ」
唇から零れ落ちたのは、氷の刃。
本心ではない。だが、物理的に距離を取らせなければ、彼女たちの内側で渦巻くドロドロとした欲望の奔流に、コルデリアの自我が圧し潰されてしまう。
令嬢たちが青ざめ、蜘蛛の子を散らすように去っていく。その背中を見送りながら、コルデリアは表情筋を能面のように固定したままバルコニーへと逃げ出した。
夜風が熱を持った頬を冷やす。手すりにしがみつき、過呼吸気味に酸素を求めていると、背後の気配が変わった。
音もなく現れた長身の影。第二王子セドリックだ。
身構えるコルデリアだったが、不思議と髪飾りのノイズが止んだ。彼からは、あの吐き気を催すような感情の波が一切感じられない。そこにあるのは、深海のような静寂だけ。
「顔色が悪い。……無理をして笑うより、氷の彫像を演じる方が楽か」
低く、温度のない声。コルデリアは目を見開いたが、セドリックはただ月を見上げている。
彼もまた、何かを耐えているのだろうか。その横顔の静けさが、今の彼女には唯一のシェルターに思えた。
「殿下には関係のないことですわ」
短く返し、彼女は逃げるようにその場を後にした。
屋敷に戻り、重たいドレスを脱ぎ捨てた瞬間、コルデリアは初めて深く息を吸えた。
豪奢な調度品に囲まれた部屋の隅、無機質な光を放つ最新鋭のVRダイブポッドだけが、彼女の本当の居場所だ。
ヘッドギアを装着し、意識を沈める。
肉体の重力が消失し、視界がデジタルの光へと書き換わる。
eスポーツタイトル『Aethelgard Online(エーテルガルド・オンライン)』。
ここでは、彼女は『ノワール』と呼ばれる。
現実世界で彼女を苦しめる過敏な共感能力(エンパス)は、この電子の戦場において最強の索敵器官へと変貌する。
展開されるのは、5対5のチーム戦。
コルデリアの視界には、通常のUIに加え、不可視の情報流が見えていた。敵プレイヤーの焦りが生むマウスカーソルの微細な揺れ、攻撃直前の殺気が放つ赤熱した予兆。
(右翼、敵アサシンの視線誘導……囮ね)
彼女はマイクを使わない。キーボードを叩く指先だけで、盤面を支配する。
打鍵音と共に放たれたピング(指示シグナル)が、味方のタンクを強制的に移動させる。その直後、何もない空間から敵が飛び出し、空振りに終わる。
すべては計算通り。
不器用な悪役令嬢は、ここでは誰もが恐れる『影の司令官』となる。
第二章 裏切りのチェックメイト
破滅の足音は、静寂と共に訪れた。
執務室の扉が開くと同時に、父の旧友であり、コルデリアが信頼を寄せていたギルバート伯爵が入室してくる。
彼は挨拶もせず、一枚の羊皮紙を無造作にデスクへ放り投げた。
滑り込んできた紙面には、ローゼンハイム家のアカウントに対する『不正ツール使用疑惑』による凍結通知、そして爵位剥奪の警告が記されていた。
「おじ様、これは……誤解です! 私は一度だって不正など!」
コルデリアの声が震える。だが、ギルバートは答えない。
ただ、冷ややかな瞳で彼女を見下ろし、口元をわずかに歪めただけだった。その表情には、長年見せてきた温厚な相談役の面影はなく、獲物を追い詰めた捕食者の冷徹さだけが張り付いている。
彼は懐からもう一枚、黒い封筒を取り出し、コルデリアの指先に押し付けるように握らせた。
――グランド・トーナメント決勝戦への招待状。
そして、無言のまま踵を返し、部屋を出て行った。
(勝て、ということ? そこで証明しろと?)
説明はない。だが、拒否権がないことだけは、肌を刺すような威圧感で理解させられた。
大会当日。
決勝の舞台、クリスタル・コロシアムは数百万の観客アバターで埋め尽くされていた。
対戦相手は謎のクラン『ウロボロス』。
試合開始のホイッスルと同時に、コルデリアは違和感に総毛立った。
(……気持ち悪い)
敵の動きに「人間」がいない。感情のノイズが一切なく、まるで機械学習されたAIのように、こちらの戦術に対して最適解を0.1秒の遅れもなく叩き込んでくる。
思考を読もうにも、読むべき心がない。
開始五分で、味方の前線は崩壊寸前だった。本陣を守るタワーが次々と砕かれ、敗北の二文字が喉元まで迫る。
焦りが指先を狂わせようとした、その時だ。
味方の前衛剣士『ランスロット』が、指示もしていないのに一歩、後退した。
それは逃走ではない。敵の主要スキル、その効果範囲ギリギリを見切った回避。
――呼吸が、合った。
言葉など交わしていない。だが、画面越しのランスロットの挙動が、「見えているのだろう?」とコルデリアに問いかけていた。彼もまた、この理不尽な機械的挙動の中に、わずかな「揺らぎ」を感じ取っているのだ。
コルデリアは深く息を吐き、閉じていた感覚を全開にする。
髪飾りの呪いすらも利用する。ノイズの海へ自ら潜る。
すると、見えた。
完璧に見える敵の連携、その裏側にあるオペレーターの「慢心」。
機械的な操作の合間に、ほんの一瞬、コンマ数秒だけ生じる「勝利を確信した緩み」。
(そこ!)
コルデリアの指が、キーボードの上で残像を生む。
彼女が入力したのは攻撃指示ではない。わざと味方のヒーラーを無防備な位置へ晒す、死のフェイント。
敵のAI的思考が「確実なキル」を優先し、釣られる。陣形が歪んだ。
その刹那の隙間を、ランスロットの剣閃が奔る。
コルデリアの思考とランスロットの剣が、完全に同期した。
彼女が「右」と念じれば、彼は既に右へ跳んでいる。彼が「斬る」と踏み込めば、彼女は既にその退路を確保している。
髪飾りが熱を帯び、紅蓮に輝く。それはもはや呪いではなく、二人の意思を繋ぐ回路(パス)だった。
逆転の一撃が敵本陣のクリスタルを粉砕する。
『WINNER』の文字が視界を埋め尽くす中、コルデリアは震える手で自身の胸元を押さえた。
かつてない昂揚感。一人ではないという、確かな熱がそこにあった。
第三章 具現化する悪夢と女王の覚醒
ログアウトの余韻に浸る間もなかった。
現実世界の屋敷が、轟音と共に揺らぐ。
窓ガラスが内側へと弾け飛び、土足で踏み込んできた黒衣の私兵たちが、コルデリアを取り囲む。
砕け散ったガラス片を踏みしめ、悠然と現れたのはギルバート伯爵だった。
彼は拍手をしていた。乾いた音が、静まり返った廊下に響く。
その背後には、ゲーム内で見た『ウロボロス』の紋章が、あろうことか現実の空中にホログラムのように浮かび上がり、不気味な紫色の光を放っている。
不正ツールなどではない。彼は、ゲーム内の概念を現実に侵食させる禁忌の技術を用いていたのだ。
ギルバートは何も語らない。ただ、コルデリアが勝ち取った優勝賞品――管理者権限へのアクセスキーでもある『髪飾り』を見つめ、指先を軽く振った。
それだけで、コルデリアの身体は不可視の力に弾き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
肺から空気が強制排出される。激痛。
ギルバートが再び手を掲げる。彼の手元に、火球のようなプラズマが収束していく。ゲーム内の魔法が、物理法則を無視して顕現しようとしていた。
死ぬ。
その恐怖の中で、コルデリアの視界がノイズに覆われる。
だが、それはかつての不快なノイズではなかった。
壁のひび割れ、舞い上がる塵、そしてギルバートが練り上げる魔力の奔流――すべてが、数値とグリッド線に変換されていく。
(……見える)
髪飾りが、現実世界をゲームのコードとして解釈し始めている。
ギルバートの魔法には『詠唱時間(キャストタイム)』がある。発動まであと2.4秒。効果範囲は半径3メートル。
ならば、躱せる。いや、書き換えられる。
コルデリアはよろりと立ち上がった。
彼女の瞳には、現実の風景に重なるようにして、青白いシステムUIがオーバーレイされていた。
詠唱などは不要。彼女はずっと、指先だけで世界を統べてきたのだから。
彼女は虚空を掴み、スマートフォンの画面をスワイプするように右手を水平に薙いだ。
その瞬間、廊下の空間が歪曲する。
ギルバートが放った火球は、コルデリアの眼前数センチで見えない壁に衝突し、物理演算がバグったように霧散した。
「……ッ!?」
初めてギルバートの表情が崩れる。
焦燥、驚愕、恐怖。彼から溢れ出す感情の色が、鮮明なヒートマップとなってコルデリアの網膜に焼き付く。
そこにあるのは、冷徹な黒幕の姿ではない。予期せぬエラーに狼狽する、ただの哀れなプレイヤーだ。
(貴方の動きは、単調すぎるのよ)
コルデリアは一歩踏み出す。ヒールの音が、現実の床と電子の床を同時に叩く。
彼女が指を弾くと、装飾用の騎士甲冑がひとりでに動き出し、その巨大な槍をギルバートへと向けた。
物理干渉。オブジェクト操作。
髪飾りを通じて増幅された彼女の意思は、この屋敷という盤面において絶対的な管理者権限(アドミニストレータ)となっていた。
ギルバートが杖を振り上げる予備動作。遅い。
コルデリアは無造作に掌をかざす。
重力係数を書き換えるイメージ。
ギルバートの身体が、見えない巨人の手で押し潰されたように床へ縫い付けられる。
彼女はゆっくりと彼を見下ろし、冷え切った瞳で微笑んだ。
「ゲームオーバーよ、おじ様」
最終章 黄金の夜明け
騒動は、一夜にして収束した。
王家直属の騎士団が介入し、ギルバート一派は拘束された。ローゼンハイム家の潔白は証明され、すべては「過激派によるテロ未遂」として処理された。
数日後、王宮のテラス。
夜風が心地よい。コルデリアの隣には、セドリックが立っていた。
二人の間には、もはや堅苦しい礼儀も、探り合うような沈黙もない。
あるのは、戦場を背中合わせで駆け抜けた戦友(バディ)だけが共有する、静謐な信頼だ。
「……まさか、あの無口なランスロットが殿下だったなんて」
「私も驚いたよ。あの冷徹な司令官ノワールが、君だったとは」
セドリックが苦笑する。その表情は、舞踏会で見せた氷のような無表情ではなく、年相応の少年の柔らかさを帯びていた。彼もまた、王族という仮面に窒息し、電子の海に息継ぎの場所を求めていた一人だったのだ。
コルデリアは夜空を見上げた。
髪飾りの呪いは消えていない。だが、その感覚は変質していた。
遠くから聞こえる人々のざわめき、衛兵の緊張、セドリックの穏やかな安らぎ。それら全ての感情が、今は色鮮やかな光の粒子として感じられる。
痛みを伴うノイズではなく、世界を彩る情報(データ)として。
「世界は、案外美しいものでしたのね」
コルデリアの呟きに、セドリックは彼女の手を取った。
その掌の温もりは、どんな高度なハプティクスデバイスよりも鮮明に、彼女の鼓動と共鳴する。
「ああ。これからは二人で、この歪んだ盤面(せかい)を攻略していこう」
セドリックが彼女の指先に口づけを落とす。
コルデリアは扇を開き、口元を隠して悪戯っぽく目を細めた。
その瞳の奥で、新たな時代のシステムログが静かに起動する。
悪役令嬢と第二王子。
最強のデュオが紡ぐ本当の物語は、ここから始まるのだ。