神様ってのは、随分とケチな設計者だ。
人間の歯は二度しか生えない。
だが、俺たちが作った『リ・ジェネシス』は、その設計図を書き換える悪魔のペンだった。
第一章 象牙の密林
雨の音が、診察室の静寂を執拗に叩いていた。
都内の雑居ビル、地下二階。
看板も出していないこの「槇村デンタルクリニック」には、表の病院に見放された患者しか来ない。
「……先生、音がするんです」
診療台(ユニット)に横たわる女が言った。
名はミナミ。二十代前半。キャバクラ嬢。
彼女の細い指が、自身の頬を不安げにさすっている。
「音?」
俺はマスクの位置を直し、無影灯の照度を上げた。
「ええ。夜中、寝静まると……口の中で、誰かが砂利を踏んでいるような音が」
「口を開けて」
ミナミが唇を開く。
甘ったるい香水の匂いの奥に、鉄錆のような血の匂いが混じっている。
俺はミラーを差し込んだ。
美しい。
あまりにも完璧な歯列だ。
白く輝くエナメル質は、まるで陶器のように滑らかで、歯石一つない。
これが、世界初の歯生え薬『リ・ジェネシス』の治験結果だ。
「痛みは?」
「ありません。ただ……痒いんです。歯茎の奥が、ずっと」
俺は探針(プローブ)を手に取った。
右下の奥歯、第七大臼歯の歯肉溝に、慎重に先端を滑り込ませる。
カリッ。
硬質な感触。
だが、何かがおかしい。
通常、歯と歯茎の境界にはわずかな隙間がある。
だが彼女のそれは、隙間なく埋まっていた。
いや、埋まっているのではない。
「……なんだ、これは」
無影灯の光を一点に絞る。
歯茎のピンク色の粘膜を突き破り、顕微鏡レベルの微細な「白」が、無数に蠢いているように見えた。
まるで、カビの菌糸だ。
だが、その全てが「小さな歯」の形状をしていた。
「先生? 何かありました?」
「動かないで」
俺はルーペを覗き込む。
倍率を上げる。
背筋に冷たいものが走った。
奥歯のエナメル質表面に、さらに小さな歯が生えている。
フラクタル構造。
歯の上に歯が生え、その上にまた歯が生えている。
そして、それらは呼吸するように、ゆっくりと回転していた。
「ミナミさん」
俺は努めて冷静な声を出す。
「最後に薬を投与したのは?」
「三日前です。……もっと白くなりたくて、余っていた分も全部飲んじゃって」
俺は探針をトレーに置いた。
金属音が、やけに大きく響いた。
「レントゲンを撮る。すぐにだ」
第二章 骨の軋み、神の囁き
現像されたパノラマレントゲン写真は、現代アートの悪夢だった。
通常、顎の骨の中に埋まっている歯根は、植物の根のように一本か二本だ。
だが、ミナミの顎骨の中は、白一色だった。
骨髄が消失している。
代わりに、何千、何万という「歯」が、顎の骨を埋め尽くしていた。
それらは互いに噛み合い、軋み、顎の骨そのものを食い破ろうとしていた。
「再生医療の暴走……」
俺はモニターの前で呟く。
『リ・ジェネシス』の原理は、USAG-1という遺伝子を抑制し、歯の成長を止めるブレーキを外すことにある。
本来なら、一度だけの「第三生歯」を促すはずだった。
だが、過剰投与と彼女の特異体質が、ブレーキを完全に破壊してしまったのか。
「先生、まだですかぁ?」
防護室の外から、ミナミの間延びした声が聞こえる。
その直後だった。
ガリッ。
バキッ、グシャ。
異様な音がスピーカー越しに響いた。
「……ミナミさん?」
「あ、れ……? 口が……閉じ、ない」
俺は撮影室を飛び出した。
診察室の光景に、俺は息を呑んだ。
ミナミが、両手で顎を押さえている。
その指の間から、白いものが溢れ出していた。
ポロポロと、真珠のような粒が床に落ちる。
抜けた歯ではない。
新しく生えてきた歯が、古い歯を押し出し、口の容量を超えて溢れ出しているのだ。
「痛くない……痛くないの、先生。でも、止まらない!」
彼女が叫ぼうとして口を大きく開けた瞬間、バキリという乾いた音がした。
顎関節が外れたのではない。
下顎の皮膚が裂けたのだ。
裂け目から覗いたのは、赤い肉ではなく、びっしりと並んだ白い牙の列だった。
「細胞が……エナメル質に置換されている」
俺は理解した。
薬は「歯を生やす」だけじゃない。
人体の構成要素を、最も硬度が高く、最も保存性の高い物質――「歯」へと作り変えようとしている。
永遠の命。
腐らない身体。
それは確かに、究極の再生医療の到達点かもしれない。
ただし、人間としての形を保てるならの話だが。
「助け……て……」
ミナミの声が変わった。
舌が硬化し始めている。
舌の表面にも、無数の突起――サメのような歯が生え始めていた。
言葉は、もはや意味をなさず、ただの摩擦音(グラインディング)へと変わる。
第三章 捕食する進化
俺はキャビネットから鎮静剤のアンプルを掴み出し、注射器にセットした。
だが、近づけない。
ミナミだったモノは、診療台の上で痙攣していた。
バリバリ、メリメリ。
彼女の衣服が内側から突き破られる。
鎖骨のあたりから、巨大な臼歯が突き出してきた。
脊椎の一つ一つが、鋭利な犬歯へと変形していく。
「過剰な石灰化……いや、これは進化だ」
俺は震える手でスマホを取り出し、録画ボタンを押した。
これは記録しなければならない。
人類が踏み込んではいけない領域の証拠として。
その時、ミナミの目が俺を捉えた。
白目がない。
眼球までもが、白く硬い球体――エナメル質の塊に変質していた。
『ギ……ギギ……』
彼女の喉の奥から、音が響く。
声帯が擦れ合う音ではない。
無数の歯が、一斉に噛み合う音だ。
それは、まるで笑い声のように聞こえた。
彼女はゆっくりと起き上がった。
人間としての関節の可動域を無視し、不自然な角度で手をつく。
その指先もまた、鋭い牙と化してリノリウムの床を削った。
俺は後ずさり、背後の薬品棚にぶつかる。
「落ち着け……ミナミさん、聞こえるか?」
彼女は首を傾げた。
その拍子に、長い髪がバサリと落ちる。
毛根さえもが歯に変わり、頭皮との結合を失ったのだ。
ツルリとした頭部。
そこには、脳を守る頭蓋骨の縫合線に沿って、ノコギリのような歯列が並んでいた。
彼女はもう、個体としての「ミナミ」ではない。
全身が捕食器官の塊。
「噛む」ことへの純粋な渇望。
ドン!
彼女が跳躍した。
診療台を踏み台にし、俺の喉元めがけて飛びかかってくる。
俺はとっさに身を投げ出し、床を転がった。
ガシャアアン!
薬品棚が粉砕される。
ガラス片と共に、高濃度のフッ素溶液が飛び散った。
「硬い……硬すぎる!」
彼女の腕が、棚の鉄柱を噛み砕いていた。
俺は床を這い、出口のドアへと向かう。
だが、ドアノブに手を掛けた瞬間、背中に激痛が走った。
見ると、彼女の「飛ばした歯」が、俺の白衣を貫き、肩に突き刺さっていた。
弾丸のような勢いで射出された乳歯。
「遠距離攻撃まで……!」
俺はドアを蹴破り、廊下へと転がり出た。
非常ベルを叩く。
けたたましい警報音が鳴り響くが、地下のこの階には誰も来ない。
逃げなければ。
だが、どこへ?
この薬は、既に認可目前だ。
臨床試験という名目で、何千人が既に服用している。
もし、これがミナミだけの特異反応でなかったら?
俺の脳裏に、街行く人々が浮かんだ。
笑顔を見せ、白い歯を輝かせる人々。
彼らの体内でも今、カチリ、カチリと、時限爆弾のカウントダウンが進んでいるとしたら?
最終章 咀嚼する世界
俺はビルの屋上へ駆け上がった。
雨は止んでいたが、空は重苦しい鉛色だった。
下界を見下ろす。
東京の夜景。
無数の光。
その時、俺は自身の口の中に違和感を覚えた。
舌先が、上顎に触れる。
ザラリとした感触。
まさか。
俺はポケットから手鏡を取り出した。
震える手で、口の中を映す。
上顎の粘膜に、白い斑点ができていた。
それは、小さな、生まれたての真珠のような歯だった。
俺は笑った。
そうか。
俺も試していたんだ。
研究者としての性(さが)で、極微量を。
「はは……」
乾いた笑い声が漏れる。
その声に混じって、カチリ、と小さな音がした。
俺の喉の奥で。
新しい何かが、産声を上げている。
下を見ると、ビルの入り口から、白い異形が這い出してくるのが見えた。
ミナミだ。
いや、あれはもう「それ」だ。
「それ」は空を見上げ、顎を大きく開いた。
街の喧騒にかき消されそうな、微かな音。
だが、俺にははっきりと聞こえた。
それは、世界中の「予備軍」たちへの共鳴(ハウリング)。
俺は手鏡を握りしめたまま、欄干に寄りかかった。
遠くのビルボードで、女優が歯磨き粉のCMで微笑んでいる。
『輝く白さ、永遠に』
ああ、嘘じゃない。
俺たちは永遠を手に入れる。
痛みと、飢えと、硬質な咀嚼音と共に。
俺の口の中で、奥歯がメリメリと音を立てて分裂を始めた。
(了)