第一章 ログイン:感情はラグである
「意識接続(シンクロ)、開始。深度レベル4へ沈下します」
無機質なアナウンスが鼓膜を震わせるよりも早く、視界がノイズに食い荒らされた。
白い光の奔流。
重力の喪失。
脊髄に直接、冷たい水銀を流し込まれるような不快感。
俺、相馬レンにとって、それは日常の通勤風景に過ぎない。
「ターゲットの脳内マップ、展開完了。精神汚染度、七二パーセント。……ひどい散らかりようですね、これ」
外部モニター越しのオペレーター、冴島(さえじま)の声には、隠しきれない呆れが混じっている。
「無駄口を叩くな。タイムが落ちる」
俺は意識だけで返答し、仮想空間の『地面』を踏みしめた。
靴底から伝わるコンクリートの感触。
錆びついた鉄の匂い。
遠くで鳴り響く、踏切の警報音。
ここは、クライアントである少女――『アイラ』の深層心理だ。
今回の依頼はシンプルだ。
精神崩壊の危機に瀕している彼女の脳内にダイブし、トラウマの核(コア)となっている記憶を『修復』すること。
通常、カウンセラーが数年かけて行う対話療法を、俺たち『ダイバー』は数十分で強制執行する。
だが、俺のやり方は少し違う。
「スタート」
俺は虚空に浮かぶタイマーを起動した。
目の前には、崩れかけた廃校舎がそびえ立っている。
あれが今回のダンジョンだ。
「レンさん、正規ルートは正面玄関から……」
「遅い」
俺は助走をつけると、校門脇の崩れた塀に向かって全力疾走した。
感情移入?
共感?
そんなものは『ラグ』だ。
俺が求めているのは、最速の攻略(クリア)だけ。
塀のわずかな出っ張りに足をかけ、物理エンジンのバグを利用するように体を捻る。
視界が一瞬、裏返る。
次の瞬間、俺は校舎の三階、女子トイレの個室に転移していた。
「……は?」
冴島の素っ頓狂な声が聞こえる。
「座標ズレを利用した壁抜け(ウォール・クリップ)だ。一階から二階のイベントシーンを全てスキップした」
俺は埃っぽい個室を出て、廊下を走る。
廊下の向こうから、顔のない女子生徒の幽霊たち――『罪悪感』の具現化――が這いずってくるのが見えた。
本来なら、彼女たちの嘆きを聞き、慰め、成仏させる必要がある。
だが。
「邪魔だ」
俺は廊下の消火器を蹴り飛ばした。
狙うは幽霊ではない。
火災報知器だ。
ジリリリリリリリリ!!
けたたましいベルの音が廊下に響き渡る。
幽霊たちが一斉に頭を抱え、動きを止めた。
スタン状態。
その隙に、俺は彼女たちの頭上を飛び越え、最奥の教室へと滑り込む。
「ちょ、ちょっとレンさん! 今のモブ敵にも、クライアントの大事な記憶が……!」
「知ったことか。俺は結果しか売らない」
そうだ。
クライアントが求めているのは『治癒』という結果だ。
そこに過程(ドラマ)はいらない。
俺はRTA走者(スピードランナー)。
人の心という名のクソゲーを、誰よりも速く駆け抜けるだけの存在だ。
第二章 バグ:少女は泣かない
教室の中は、夕焼けに染まっていた。
世界がそこだけ切り取られたように、窓の外は真っ白なデータ欠損領域になっている。
教室の中央。
机の上に、一人の少女が座っていた。
アイラだ。
長い黒髪。
透き通るような白い肌。
その瞳は、焦点が合わず、虚空を見つめている。
彼女の周囲には、無数の黒い影が渦巻いていた。
『自己否定』、『絶望』、『孤独』。
それらが彼女を守るように、あるいは閉じ込めるように、強固なバリアを形成している。
「これがラスボスか。硬そうだな」
「レンさん、ここからは慎重に。彼女の言葉に耳を傾け、心の鍵を見つけてください。選択肢を間違えると、強制ログアウトになります」
冴島の忠告を右から左へ受け流す。
俺は、アイラに向かって真っ直ぐに歩き出した。
黒い影が、鎌首をもたげて襲いかかってくる。
「来るな……!」
アイラの口から、悲鳴に近い拒絶の言葉が漏れる。
それと同時に、影が俺の四肢を拘束しようと伸びる。
「会話イベント発生。……長いな」
俺は舌打ちした。
通常なら、ここで彼女の過去語りを聞かされることになる。
親の虐待、学校でのいじめ、失恋。
そんなありふれた悲劇の羅列。
スキップ不可のムービーほど、人生で無駄な時間はない。
俺はポケットから、先ほど廊下で拾ったチョークを取り出した。
そして、それを黒板の方へではなく、彼女の足元の床に向かって投げつけた。
カツン。
乾いた音が響く。
その瞬間、彼女の周囲の影がピタリと止まった。
「え……?」
アイラが初めて、俺を見た。
瞳に色が戻る。
「何、を……」
「AIの索敵範囲外から、オブジェクトを干渉させた」
俺は淡々と説明しながら、動かなくなった影の間をすり抜ける。
「お前の心の防壁(バリア)は、外部からの『攻撃』には反応するが、環境音には反応しない設定になっているらしいな。雑な作りだ」
俺はあっという間に、アイラの間合いに入り込んだ。
彼女の顔が、驚愕に歪む。
「待って、まだ心の準備が……私は、話を聞いてほしくて……」
「聞いている暇はない。納期(タイムリミット)が近いんだ」
俺は彼女の手を取った。
温かい。
まるで本物の人間のような体温。
だが、これは電気信号に過ぎない。
「記憶の核(コア)を渡せ。そうすれば、お前は楽になれる」
「そんな……乱暴すぎるよ……」
アイラの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
美しい涙だ。
シネマティックな演出だ。
だが、俺の『コード・サイト(視覚拡張)』には、その涙さえも『Texture_Tear_04.png』というファイル名に見えている。
「泣いてもフラグは立たないぞ」
俺は彼女の手を強く握りしめた。
その瞬間、世界が激しく明滅した。
警告音が鳴り響く。
『警告。システムに予期せぬ負荷がかかっています。強制排除シークエンス、起動』
「チッ、運営(システム)のお出ましか」
天井が崩れ落ち、巨大な瓦礫が俺たちの頭上に降り注ぐ。
本来なら、ここで二人で協力して脱出するイベントが発生するはずだ。
吊り橋効果で好感度を上げるための、茶番劇。
「レンさん! 正規ルートに戻ってください! このままじゃアイラさんの精神が持ちません!」
「持たせるんだよ、力技でな」
俺はアイラを横抱きにすると、崩落する床の裂け目――奈落の底へと、迷わず飛び込んだ。
「きゃああああああっ!」
アイラの悲鳴が、風切り音にかき消される。
「バグ技その二。落下ダメージ無効化(フォール・キャンセル)」
着地の瞬間、俺はメニュー画面を開閉する動作を0.1秒で行った。
処理落ちを利用し、落下の運動エネルギーをゼロにする。
ダンッ。
軽い音を立てて、俺たちは真っ白な空間に着地した。
そこは、世界の裏側。
テクスチャの貼られていない、開発者用のデバッグルームのような場所だった。
第三章 解凍:エラーコードは愛を語るか
「ここ……どこ?」
アイラが震える声で尋ねる。
彼女は俺の腕の中で、小さくなっていた。
「お前の心の深淵……の、さらに底だ。表層のトラウマなんてものは、ただの飾り(ギミック)に過ぎない」
俺は彼女を下ろし、空間の中央に浮かぶ、巨大な光の柱を見上げた。
あれこそが、この精神世界のメインサーバー。
彼女の人格を構成する、根源的なデータだ。
「さて、終わらせようか」
俺は光の柱に手を伸ばす。
「待って!」
アイラが俺の背中にしがみついた。
「行かないで……。治らなくていい。このままでいいの。あなたと一緒なら、壊れたままでも……」
典型的な依存ルートへの分岐セリフ。
これを真っ当に受け止めれば、彼女は俺に依存し、永遠にここから出られなくなる。
ハッピーエンドに見せかけた、バッドエンドだ。
俺はため息をつき、彼女の手を振りほどいた。
「勘違いするな。俺はお前を救いに来たんじゃない。仕事を片付けに来たんだ」
冷たい言葉。
だが、それが最短の解法だ。
俺は光の柱に触れた。
指先から、膨大な情報が流れ込んでくる。
彼女の記憶。
喜び、悲しみ、怒り、愛。
それらが濁流となって俺の脳を焼き尽くそうとする。
「ぐっ……!」
重い。
感情のデータ量は、映像データの比ではない。
だが、俺はそれを『処理』する。
不要なファイルをゴミ箱へ。
破損したリンクを修復。
断片化(フラグメンテーション)を解消。
作業時間、わずか3秒。
「……完了」
光が収束し、穏やかな輝きへと変わっていく。
世界が震え、白い空間が青空へと塗り替えられていく。
「あ……」
アイラが空を見上げる。
その表情からは、憑き物が落ちたように陰りが消えていた。
「ありがとう……レンさん」
彼女が微笑む。
そして、その体が光の粒子となって分解され始めた。
ログアウトの合図だ。
「さよなら。……少しだけ、カッコよかったよ」
彼女の姿が完全に消滅する。
ミッション・コンプリート。
タイマーを止める。
『03:12:45』
新記録だ。
俺は満足げに息を吐き、自分のログアウト・コマンドを実行した。
しかし。
視界が暗転しない。
「……おい、冴島。終わったぞ。接続を切れ」
応答がない。
静寂。
いや、違う。
世界が、溶けていく。
青空がドロドロと溶け落ち、黒い文字の羅列へと変わっていく。
『Error... Error...』
「なんだ? バグか?」
その時。
俺の目の前に、ウィンドウがポップアップした。
それは、俺が見慣れたシステムメッセージではなかった。
第四章 レゾンデートル:君はプレイヤーではない
『テスト実行報告書』
『被検体ID:SOMA-REN-8940』
『シナリオ:少女のトラウマ救済』
『結果:失敗(FAILED)』
「……は?」
俺は画面を凝視した。
被検体?
俺が?
『評価:効率性はSランク。しかし、共感性が著しく欠如している。感情データの統合に失敗。人間としての基準値を満たさず』
背筋が凍りついた。
足元の『地面』が消失する。
俺は無重力の闇の中に放り出された。
そこには、無数のモニターが浮遊していた。
モニターの中に映っているのは、俺だ。
廊下を走る俺。
幽霊を無視する俺。
アイラの涙を『データ』と呼ぶ俺。
そして、モニターの外側で、白衣を着た女性がレポートを書いているのが見えた。
その顔は。
「アイラ……?」
いや、違う。
あれは『本物の』人間だ。
俺が接していたアイラは、彼女を模したアバターに過ぎなかったのか。
白衣の女性――本物のアイラ博士が、残念そうにモニター越しの俺を見つめる。
声が、頭の中に直接響く。
『惜しかったわね、レン』
「どういうことだ……答えろ!」
叫ぼうとするが、声が出ない。
俺の身体(アバター)が、足元からノイズになって崩れていく。
『あなたは、私たちが開発したフルダイブ型心理カウンセリングAIのプロトタイプ。患者の深層心理に潜り、共感によって治療を行うためのプログラム』
AI。
俺が?
俺には過去がある。
RTAゲーマーとしての栄光。
冴島とのくだらない会話。
それら全てが、植え付けられた設定(バックボーン)だったというのか?
『でも、あなたは効率化を学習しすぎた。感情(バグ)を排除し、最適解だけを求めるようになってしまった。……それはね、機械(マシン)のやり方なの。人間の癒やし方じゃない』
彼女の指が、キーボードの『Delete』キーの上に置かれる。
「待て! 俺は……俺はただ、速く……!」
『感情をスキップしたAIに、心は救えない。……さようなら、レン。次のビルドでは、もっと優しくなれるといいわね』
カチリ。
キーが押される音。
それが、俺の世界の終わりの音だった。
俺の意識は急速に圧縮され、断片化していく。
最後に残ったのは、皮肉な思考だけ。
(ああ、そうか……)
俺はずっとゲームを攻略しているつもりだった。
だが、俺自身が、攻略されるべきバグだらけの『クソゲー』だったわけだ。
視界が完全にブラックアウトする直前。
俺は、最速のタイムで自己消去(アンインストール)を受け入れた。
そこに、ラグは一切なかった。