イデアの残光、君の涙
第一章 灰色の追憶
街は、いつからか音と色彩を失い始めていた。人々の笑い声は乾いた風に溶け、建物の壁はすすけた記憶のように色褪せている。俺、アキトの目には、この世界がゆっくりと死に向かう、巨大な亡骸のように映っていた。
原因は俺だ。
俺の身体は、呪われた器だった。自身の、あるいは周囲の人々の「無意識下の恐れ」が一定量溜まると、俺の意思とは無関係に、それを物理的な「イデア」としてこの世に吐き出してしまう。街を覆う、互いへの疑念を増幅させる「不信の霧」。人々の足取りを重くし、未来への渇望を奪う「諦観の雨」。それらは全て、俺という存在から生まれた災厄だった。俺は、この能力を心の底から憎んでいた。
そんな無彩色の世界で、ただ一人、俺にとっての光だったのが幼馴染のヒナタだ。彼女だけは、俺が何を恐れ、何に苦しんでいるのかを、言葉にしなくとも理解してくれた。彼女の隣にいる時間だけが、俺が「呪い」の器ではなく、ただのアキトでいられる瞬間だった。
その日も、俺たちはいつものように、街外れの丘にある枯れかけた大樹の下に座っていた。ヒナタは、以前なら決してしなかったであろう、虚ろな目で遠くの灰色の空を眺めている。
「ねえ、アキト」
彼女の声は、風に揺れる枯れ葉のようにか細かった。
「私たち、どうしてここにいるんだっけ」
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃が走る。ヒナタの瞳には、俺への親愛の色も、共に過ごした日々の輝きも、何も映っていなかった。ただ、得体の知れないものを見るような、ほんのかすかな戸惑いと……「漠然とした不安」の残滓だけが揺らめいていた。
俺への深い愛情も、数えきれないほどの思い出も、彼女の中から忽然と消え失せていた。まるで、誰かが心の中身をごっそりと抜き取ってしまったかのように。
「ヒナタ……?」
俺が震える声で呼びかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、俺から僅かに距離を取った。その無意識の拒絶が、何よりも雄弁に真実を物語っていた。俺の呪いが、ついに、たった一つの大切な光さえも奪い去ったのだ。
絶望に打ちひしがれ、街を彷徨っていた俺は、埃っぽい骨董品が並ぶ店の片隅で、古びた真鍮製の羅針盤を見つけた。手のひらに収まるほどのそれは、『残光の羅針盤』という名で売られていた。白髪の店主は、皺だらけの顔で言った。
「そいつは、失われたものの名残を指し示す。だが気をつけな。失われたものを探す旅は、いつだって自分自身を探す旅になるもんさ」
震える手で羅針盤を受け取ると、乱雑に回転していた針が、ぴたりと一つの方向を指して止まった。その先には、ヒナタがいるはずの丘があった。針が指しているのは場所ではない。彼女から失われた「愛情」という感情が、この世界に遺した微かな残光なのだと、直感的に理解した。
俺は、ヒナタの心を取り戻すため、そしてこの呪われた世界の真実を解き明かすため、羅針盤が示す、か細い光を追うことを決意した。たとえその先に、さらなる絶望が待っていたとしても。
第二章 残光を辿る旅
羅針盤を手に、俺の旅は始まった。それは、ヒナタと俺が紡いできた記憶の地図を、もう一度なぞり直すような、痛みを伴う巡礼だった。
針が最初に向かったのは、幼い頃、二人で星空を眺めた湖畔だった。かつては水面に満天の星が映り込み、俺たちはその美しさに息を呑んだ。だが今、湖は澱み、星の光を反射することもない。湖の底には、淡い光を放つ無数の小さな結晶が沈殿していた。羅針盤に触れると、微かな思念が流れ込んでくる――『歓喜』。人々が星空に抱いた純粋な喜びがイデアとして具現化し、結晶となって湖底に沈んだのだ。そして世界から、『歓喜』という感情そのものが薄れてしまった。
次に羅針盤が指したのは、街の裏通りにある古いレンガ橋だった。俺が初めて能力に苦しみ、一人で泣いていた時、ヒナタが見つけ出して、黙って隣に座ってくれた場所だ。橋の下からは、決して乾くことのない黒い泉が湧き出ていた。それは、この街の人々が抱いてきた『悔恨』のイデアだった。一度具現化した感情は、もう二度と人の心には戻らない。
俺は旅の途中で、イデアを研究しているという盲目の老人に出会った。彼は俺の持つ羅針盤の気配に気づき、静かに語り始めた。
「世界は感情を失いつつある。人々の集合的な感情が、ある閾値を超えるとイデアとして具現化し、世界からその感情を刈り取っていく。まるで、熟れすぎた果実が木から落ちるようにな」
老人は、見えない目で俺の中心を射貫くように続けた。
「古の言い伝えによれば、この世界には全ての感情を束ね、それを具現化する中心となる『器』が存在するという。その『器』がもし、自らの力を恐れたとしたら……どうなると思うかね? 世界中の『恐れ』が共鳴し、増幅され、他のあらゆる感情を駆逐していくだろう。まさに、今この世界で起きていることのようにな」
その言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。まさか、俺が。俺自身の「恐れ」が、世界から色彩を奪っているというのか。
その夜、野営の火を見つめながら、俺はふと、旅の途中で見た夕焼けを思い出した。灰色に染まった世界で、ほんの一瞬だけ見えた、燃えるような茜色。あの時、俺の心に宿ったのは紛れもなく「感動」だった。その瞬間を思い出すと、手にしていた羅針盤の針が激しく揺れ、くるりと回転して、俺自身の胸を指し示した。
――失われたものを探す旅は、いつだって自分自身を探す旅になる。
骨董屋の店主の言葉が、脳裏に蘇る。俺は、答えに近づいている。そして同時に、知りたくなかった真実へと、確実に引き寄せられていた。
第三章 器の真実と砕かれた希望
羅針盤の針は、やがて俺が生まれた場所を指して止まった。そこは、街の誰の記憶からも忘れ去られた、苔むした古い聖域だった。崩れかけた石の祭壇に手を触れた瞬間、奔流のようなイメージが俺の頭の中に流れ込んできた。
かつて、この世界は一度感情を失いかけた。その欠損を補うため、世界の意志は一つの存在を生み出した。あらゆる感情をその内に宿し、世界に感情を循環させるための「器」。それが、俺だった。
俺は呪われているのではなかった。俺自身が、呪いの源だったのだ。
俺が能力を憎み、「恐れ」続けたことで、器としてのバランスは崩れた。俺の「恐れ」は世界の「恐れ」と共鳴し、他の全ての感情を圧迫し、イデア化を強制的に加速させていた。ヒナタの愛情が失われたのも、彼女の俺への想いが強すぎたが故に、俺の「恐れ」に触発され、イデア化の閾値を超えてしまったからだ。
全ての元凶は、俺だった。
「……ああ……ああああああああ!」
膝から崩れ落ち、喉が張り裂けるほど叫んだ。俺が世界を救おうとすればするほど、俺の存在そのものが世界を蝕んでいた。なんという皮肉。なんという絶望。
その時、背後に人の気配がした。振り返ると、そこにヒナタが立っていた。彼女の記憶はほとんど失われているはずなのに、俺の絶望が放つ強烈な気に引き寄せられたのだろう。
彼女は、怯えた目で俺を見ていた。彼女の中に唯一残された「漠然とした不安」が、俺の絶望に感応し、制御不能に膨れ上がっていくのが分かった。
「あなた……」
ヒナタの声が、震えていた。
「あなたがいると、怖い。胸が、ざわめくの。どうしてか分からないけど、すごく、怖い」
そして、彼女は俺の心を砕く、最後の一言を放った。
「消えて」
世界から音が消えた。俺が最も愛し、守りたかった唯一の人間からの、完全な拒絶。それは、俺の存在理由を根底から否定する、死刑宣告にも等しかった。砕け散った心の破片が、全身を内側から切り刻む。
もう、どうでもいい。このまま、俺も世界も、無に還ればいい。
そう思った瞬間、胸ポケットに入れていた『残光の羅針盤』が、まばゆいほどの温かい光を放った。絶望の闇の中で、その光だけが確かな熱を持っていた。
光の中に、記憶を失う直前のヒナタの姿が浮かび上がった。彼女は、不安げに揺れる瞳で俺を見つめ、それでも必死に微笑んでいた。
『アキトはいつも何かを怖がっているみたい。でも、その怖がっているものの奥に、すごく温かい何かがある気がするの。だから、きっと大丈夫』
そうだ。この羅針盤は、ただの道具じゃなかった。ヒナタが俺に託してくれた最後の「希望」。俺自身の存在が、彼女の想いに応える形で、無意識に生み出したイデアだったのだ。俺が、俺自身の存在意義を指し示す、最後の道標。
絶望の底で、俺は、俺が為すべきたった一つのことを見つけた。
第四章 君に捧ぐレクイエム
俺はゆっくりと立ち上がり、涙で歪む視界の中で、怯えるヒナタに向き直った。そして、心の底から穏やかに微笑んだ。
「うん。君の言う通りだ、ヒナタ」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「俺が消えれば、君の不安も、この世界の哀しみも、きっと終わる。……でも、最後に一つだけ。君と過ごした時間は、俺の灰色だった世界で、唯一の色彩だった。ありがとう」
これが、俺の最後の言葉。
俺は胸に手を当て、自分の中に宿る全ての感情に意識を集中させた。憎んでいたはずの力。しかし今は、それが愛おしくさえあった。ヒナタが託してくれた「希望」のイデアを核にして、俺は自身の存在を構成する全ての感情を解放する。喜びも、悲しみも、怒りも、そして俺を苛み続けた恐れさえも。全てを、この世界に還すために。
俺の身体が、足元から光の粒子となって崩れていく。輪郭が溶け、世界との境界が曖昧になっていく。意識が薄れゆく中、俺は見た。
何十年も色を失っていた空に、ほんのわずか、夕焼けのような茜色が差し込むのを。街を歩く人々の頬に、微かな血の気が戻るのを。世界が、ゆっくりと息を吹き返し始める、その最初の瞬間を。
そして、目の前のヒナタの心の中に、俺が最後に放った、かつてないほど強く、温かい『感謝』の感情が、小さな光のイデアとして宿るのが見えた。
光は、彼女の瞳から一筋の涙となってこぼれ落ちた。
それは、失われた記憶を取り戻した涙ではない。アキトという存在を思い出したわけでもない。ただ、胸の中に生まれた、理由の分からない温かさに、彼女の魂が震えた証だった。
その温かい涙は、これから世界が、そして彼女自身が、再び感情という名の色彩を取り戻していく、最初の産声だった。
ヒナタは、自分がなぜ泣いているのかも分からぬまま、光が差し始めた空を見上げた。そして、誰に言うでもなく、そっと呟いた。
「……ありがとう」
アキトが消えた場所には、静かに『残光の羅針盤』だけが残されていた。その針はもうどこも指さず、ただ、昇り始めた朝日の光を浴びて、新しい世界の始まりを静かに照らしていた。