幸福の残滓
第一章 満たされない器
俺の胸には、ずっと前から穴が空いていた。どんな喜びも、どんな達成感も、その穴に吸い込まれては泡のように消えていく。代わりに流れ込んでくるのは、見知らぬ誰かの微かな痛みや、理由のわからない焦燥感だった。まるで、他人の人生の切れ端を拾い集めて生きているような、奇妙な寄生感覚。
ポケットの中には、いつから持っているのかも忘れた、小さな真鍮の歯車が一つ。一部が欠けたその冷たい金属の感触だけが、この空虚な世界で唯一、俺自身のものだと感じられた。これを握っている時だけ、胸の疼きが僅かに和らぐ気がした。
「おい、リク!見ろよ、最新式の自動清掃ドローンだぜ。スイッチ一つで街中ピカピカだ。本当に便利な世の中になったよな!」
友人のハルキが興奮気味に指差す先で、銀色の機体が音もなく道路を滑っていく。人々がその恩恵を笑顔で享受する光景。その瞬間、俺の胸を鋭い痛みが貫いた。それはまるで、長年使い込まれた道具が捨てられる時の、声なき悲鳴のような感覚だった。視線を彷徨わせると、清掃ドローンが通り過ぎた後、古い街灯の根元に、陽光とは質の違う、墨を垂らしたような奇妙な「影」が揺らめいたのが見えた。
人々は誰も気づかない。彼らにとってそれは、単なる風景の一部だ。だが俺にはわかる。あれは「消滅」の痕跡。この世界が支払った、便利さという名の「代償」の残骸だ。俺だけが、この満ち足りた世界の裏側で、静かに何かが失われていく音を聞いていた。
第二章 影たちの囁き
俺はいつしか、街に潜む「影」を探して歩くようになっていた。それは、かつて公園にあったはずの噴水、人々が待ち合わせに使っていた時計塔、子供たちの笑い声が染み付いていたはずの遊具――それらが存在した場所に、まるで世界の皮膚に刻まれた痣のように、黒々と蟠っていた。
ある雨の日、俺は取り壊された映画館の跡地にできた更地に佇んでいた。そこには、巨大なスクリーンがあった場所を示すように、不自然な長方形の「影」が横たわっている。人々は気にも留めずその上を通り過ぎていく。
衝動的に、俺はその影に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、奔流のような記憶が脳内に溢れ出した。ポップコーンの甘い香り。初めて手を繋いだ恋人たちの高鳴る鼓動。ヒーローの勝利に沸く子供たちの歓声。そして、閉館の日にたった一人、誰もいない客席で涙を流した老支配人の、深い喪失感。それら全てが、消え去った映画館という無機物に宿っていた「想い」の断片だった。そしてその記憶の奔流の底に、いつも同じ感覚が澱のように沈殿していることに気づく。それは、誰かの幸福のために、自らの存在意義を静かに手放していく、無機物の諦観にも似た悲しみだった。
「どうして……どうして俺にだけ、こんなものが見えるんだ……」
俺が肩代わりしているこの痛みは、この空虚感は、一体誰が、何を享受するために支払われているというのか。この世界の完璧な幸福は、本当に無数の「死」の上に成り立っているのか。それとも、すべては俺が見ているだけの悪夢なのか。ポケットの歯車を強く握りしめると、その欠けた部分が、まるで失われた何かを求めるように、鋭く指に食い込んだ。
第三章 歯車の真実
街中の「影」が、まるで羅針盤のように、一つの場所を指し示していることに気づくのに、そう時間はかからなかった。導かれるままにたどり着いたのは、都市開発から取り残された、巨大な地下施設の跡地だった。空気は冷たく、湿った土の匂いがする。その中央に、まるで祭壇のように鎮座する巨大な台座があった。
一歩、足を踏み入れる。その瞬間、ポケットの歯車が灼熱を帯び、俺を導くように光を放ち始めた。台座には、歯車の欠けた部分と寸分違わぬ形の窪みが穿たれている。震える手で歯車をそこに嵌め込んだ途端、世界が白く染まった。
――視える。
争いと欠乏に満ちた旧い世界。嘆き、苦しむ人々。その中で、一人の男が天を仰いでいた。俺と同じ顔をした、遠い祖先。
『誰も犠牲にならず、誰もが幸福になれる世界を』
彼の悲痛な願いが、この巨大な「システム」を起動させたのだ。人々の無意識の欲望を吸収し、それを「幸福」や「利便性」という形に変換する奇跡の装置。だが、無からの創造は不可能だった。システムは代償を求めた。人の心ではなく、世界の骨格――無機物を。建物も、道も、道具も、全てがエネルギーとして消費され、その存在と記憶を代償に、人々は幸福を享受した。
だが、システムは不完全だった。消費された無機物に宿っていた人々の「記憶の残滓」――その痛みと悲しみの行き場がなかったのだ。祖先は、自らの魂をシステムの中枢に繋ぎ、その濁流を一身に受け止めようとした。しかし、彼は耐えきれなかった。彼の魂は砕け、その最後の欠片が、この「歯車」となった。
そして、彼が受け止めきれなかった「代償」の奔流は、血の呪いとなって、彼の子孫である俺へと流れ込み続けていたのだ。
「ああ……ああああああッ!!」
これが俺の空虚の正体か!これが俺を苛み続けた痛みの根源か!あんたの独善的な願いのせいで!あんたが始めた物語のせいで、俺は、俺の人生はずっと、他人の代償を支払うためだけの、空っぽの器だったというのか!
怒りが全身を焼き尽くす。だが同時に、流れ込んでくる祖先の最後の想いが俺の心を締め付けた。
『すまない……。それでも私は、誰かの笑顔が見たかったのだ』
その純粋で、あまりにも悲痛な願いに、俺は膝から崩れ落ち、嗚咽した。
第四章 世界の影として
選択肢は二つあった。
この歯車を、システムの中枢を破壊する。そうすれば、人々は偽りの幸福から解放されるだろう。だが、代償の上に築かれたこの世界の秩序は崩壊し、計り知れない混乱が訪れる。そして俺は、この呪いから解放される。
もう一つは。
俺が、祖先の跡を継ぐこと。この身をシステムと完全に一体化させ、彼の魂が砕けたことで不完全になった中枢を、俺の存在で補う。そうすればシステムは安定し、世界は幸福であり続けるだろう。だが、俺という存在は世界から完全に消え去る。誰の記憶にも残らず、ただ「代償」を引き受け続ける、名前のない概念と化す。
ハルキの屈託のない笑顔が脳裏をよぎる。街角で笑い合う恋人たちが、公園で遊ぶ親子が浮かぶ。彼らの幸福は、偽物かもしれない。だが、彼らが浮かべる笑顔は、紛れもなく本物だった。
俺は、静かに笑った。ああ、そうか。最初から、俺の胸に空いていた穴は、このためのものだったのかもしれない。
俺は台座に深く身を預け、システムに意識を溶かしていく。肉体が霧散し、感覚が薄れていく。リクという個人の記憶が、まるで古いフィルムのように色褪せていく。最後に俺が視たのは、見慣れた街の風景だった。
人々は相変わらず、幸福そうに歩いている。
「……あれ?」
カフェのテラス席で、ハルキがふと眉を寄せた。
「どうしたの?」と向かいの友人が尋ねる。
「いや……なんだか、今、すごく大事な何かを忘れたような……胸にぽっかり穴が空いたみたいな、変な感じがして」
彼は首を傾げたが、すぐに笑って会話に戻った。その視線の先、ガラス窓に映る街の建物の壁に、以前よりも少しだけ濃くなったような「影」が静かに落ちていた。
誰も気づかない。誰も知ることはない。
この世界の満ち足りた幸福のすぐ隣には、一人の少年が成り代わった、永遠の「虚無」が、静かに寄り添っていることを。