染み渡る世界で、君の光を見た

染み渡る世界で、君の光を見た

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第一章 淀みの色

水野蓮には、秘密があった。他人の嘘が、物理的な「染み」として見えるのだ。それは生まれつきの呪いのようなもので、幼い頃から蓮の世界を醜く彩ってきた。自己保身のための嘘はアスファルトのように粘つく黒。見栄や虚飾は、薄汚れた灰色。悪意に満ちた欺瞞は、腐った泥のような茶色。人々は皆、大小さまざまな染みをその身にまとわりつかせながら生きていた。

蓮が働く区役所の福祉課相談窓口は、いわば染みの展覧会場だった。生活保護を申請に来る人々は、一様に黒や灰色の染みを滲ませている。「働きたくても、病気で働けないんです」と訴える男の腕には、パチンコで負けた悔しさを隠すための黒い染みがべったりと付着していた。「子供のために、どうか」と涙ぐむ女の頬には、本当は養育費を別の用途に使っていることを示す灰色の染みが浮かんでいた。

蓮は、それらの染みを見ないように、心を閉ざして対応する。淡々と書類を処理し、規定通りの説明を繰り返す。共感も同情もしない。染みの向こう側にある真実など、知ったところで消耗するだけだ。人間とは、嘘で塗り固められた脆い生き物なのだから。そうやって諦観と共に日々をやり過ごしていた。

その日、窓口に現れた老婆、高松フミが、蓮の灰色だった世界に、初めて異なる色を落とした。小柄で、背中の丸まったその老婆は、使い古されたが清潔な衣服を身につけていた。彼女が発する言葉は、他の相談者と大差ない。「年金だけでは、どうにも立ち行かなくて。ご迷惑をおかけします」

蓮はいつものように、彼女の体に浮かぶであろう染みを探した。だが、そこにあったのは、蓮が今まで一度も見たことのないものだった。彼女の痩せた胸のあたりに、まるで冬の陽だまりを掬い取って固めたような、温かい光を放つ金色の染みが、ぽつんと一つだけ存在していたのだ。それは淀んでもいなければ、粘つきもしない。ただ静かに、気高い光を湛えていた。

「ご家族は?」

蓮は機械的に尋ねた。

「ええ、息子が一人。今は遠い外国で仕事をしておりましてね。あの子は優秀だから、きっと大きなことを成し遂げますよ」

フミがそう言った瞬間、金色の染みがふわりと、より一層優しく輝いた気がした。蓮は、それが嘘であると直感した。嘘でなければ、染みとして見えるはずがない。しかし、なぜ金色なのだろう。なぜこんなにも、温かいのだろう。

その日から、蓮の心に、高松フミという名の、解けない謎が居座ることになった。

第二章 金色の虚構

蓮は、気付くと高松フミのことばかり考えていた。あの金色の染みは一体何なのか。好奇心と、それを上回る不可解な胸のざわめきが、彼を規定の業務から少しだけ逸脱させた。彼はフミの個人情報ファイルを、必要以上に丁寧に読み込んだ。住所は区内の古い木造アパート。近隣住民からの聞き取り記録には、「一日中、誰にともなく話しかけている」「ゴミを溜め込んでいるようだ」といった、孤立した老人によくあるネガティブな情報が並んでいた。

染みの色は、嘘の質を表す。蓮はそう結論づけていた。ならば、金色の嘘とは何だ? 誰かを陥れるでもなく、自分を飾り立てるでもない、そんな嘘が存在するのだろうか。

週末、蓮は衝動的にフミのアパートを訪ねた。古びたアパートの廊下は、ひんやりとした空気が漂っていた。扉を叩くと、しばらくして、ゆっくりとフミが顔を覗かせた。

「まあ、区役所の方。どうかなさいましたか?」

彼女の胸には、やはりあの金色の染みが灯っていた。

「いえ、近くまで来たものですから、少し様子が気になりまして」

それは、蓮にとって珍しい嘘だった。彼の体から、乾いた灰色の染みが滲み出るのを、彼は自分自身で感じた。

「まあ、ご親切に。どうぞ、こんなところでよろしければ」

招き入れられた部屋は、噂とは全く違っていた。ゴミ屋敷どころか、物は少ないが隅々まで掃き清められ、小さなテーブルの上には、一輪挿しに野の花が活けられている。壁にかけられた古いカレンダーだけが、時の流れから取り残されているようだった。

「お茶を淹れますね。息子がね、良いお茶を送ってくれたんですよ。あの子は本当に優しい子で」

フミがお茶の準備をしながら、また息子の話をする。そのたびに、金色の染みはほのかに光を増す。蓮は、その「虚構」が、この清潔で静謐な空間を支える柱であるかのように感じられた。

彼は、彼女が語る息子の武勇伝を黙って聞いた。海外で大きな契約をまとめた話。現地の子供たちに勉強を教えている話。どれもが、母親の誇りに満ちていた。しかし、蓮の目には、それが作り話であることがはっきりと分かった。だが、その嘘には、他の相談者たちが見せるような、醜い欲望や自己憐憫の匂いが一切しなかった。それはまるで、大切に守り、育てられてきた物語のようだった。蓮は混乱していた。この老婆は、なぜこんなにも美しい嘘をつくのだろう。

第三章 祈りの顕現

数週間後、蓮はフミの担当ケースワーカーから、彼女が体調を崩して入院したと知らされた。何かに突き動かされるように、蓮は仕事帰りに病院へ向かった。病室で眠るフミは、アパートで会った時よりもさらに小さく見えた。金色の染みは、彼女の弱々しい呼吸に合わせて、か細く点滅している。まるで、消えかけの蝋燭のようだ。

蓮がベッドの脇に静かに座っていると、フミがゆっくりと目を開けた。

「……ああ、あなたは」

「水野です。お加減はいかがですか」

「ええ、もう大丈夫。息子がね、すぐに飛んで帰ってきてくれるって。だから、心配いらないのよ」

その言葉と共に、金色の染みが最後の力を振り絞るように、強くまたたいた。その瞬間、蓮はもう我慢できなかった。

「高松さん。どうして……どうしてそんな嘘をつくんですか。あなたの息子さんは、もう……」

彼は言いかけて、はっと口をつぐんだ。ケースワーカーとの会話で、既に知っていたのだ。高松フミの息子、健一さんは、十五年も前に、海外で不慮の事故に遭い、亡くなっていることを。

フミは、驚いた顔をしなかった。ただ、とても穏やかな、全てを悟ったような目で蓮を見つめ返した。

「……あなたには、見えるんですね」

「え?」

「私が、あの子と一緒にいるのが。あの子のために、私が紡いでいる物語が」

フミの言葉は、雷のように蓮の頭を打ち抜いた。

「あれは、嘘なんかじゃないんですよ。あれはね、私の祈りなんです。あの子が生きていたら、きっとこうしてくれた。きっと、こんな優しい子に育ってくれた。そうやって、毎日あの子のことを思い描くことで、私はあの子を、もう一度この世界で生かしてあげているんです。あの子の人生を、私が代わりに生きているんです」

涙が、フミの深い皺を伝って流れた。しかし、その表情に悲壮感はなかった。それは、深い愛と覚悟に満ちた、聖母のような顔だった。

「私のこの体にある光は、健一なんです。あの子が、まだここにいるという証なんです」

蓮は、言葉を失った。自分が「嘘の染み」と呼び、忌み嫌ってきたものは、何だったのだろう。利己的な嘘、人を欺く嘘は、確かに黒く淀んだ染みになる。だが、フミのそれは違った。それは、失われた命を胸に抱き、その温もりだけで永い孤独を生き抜くための、尊い「祈り」の顕現だったのだ。

染みは、嘘そのものではなかった。人が、現実と向き合うために、あるいは現実から誰かを守るために紡ぎ出す、「物語」の可視化だったのだ。黒い染みは自己を欺く物語。灰色の染みは他者を欺く物語。そして、金色の染みは――愛する者を守り、その存在を永遠にするための、祈りの物語。

蓮の世界が、音を立てて崩れ、そして、全く新しい形で再構築されていくのを感じた。

第四章 生まれたての光

高松フミは、その数日後、眠るように息を引き取った。息子の名前を、最期に呼んだと看護師は言った。彼女の胸にあった金色の光は、彼女の命の灯火と共に、静かに天へと昇っていったのかもしれない。

蓮は、フミのささやかな葬儀に参列した。参列者は、彼とケースワーカーの二人だけだった。しかし、蓮には見えていた。がらんとした斎場が、フミの紡いだ無数の金色の物語で、温かく満たされているのが。海外で活躍する息子、優しい言葉をかける息子、母の肩を揉む息子。その全てが、確かにそこに存在していた。

職場に戻った蓮は、以前とは全く違う人間になっていた。窓口に来る人々の体に浮かぶ染みを、彼はもうただの色として見なかった。その染みの向こう側にある、その人が紡がざるを得なかった物語に、耳を傾けようと努めた。

もちろん、大半は醜く、利己的な物語だった。しかし、時折、フミのそれとは比べ物にならなくとも、小さな、健気な光を見つけることがあった。子供にだけは貧しいと思わせたくない、という親の願いが放つ、白に近い灰色の染み。病気の妻に心配をかけまいと、自分の痛みを隠す夫の背中に浮かぶ、淡く震える銀色の染み。世界は、決して黒一色ではなかった。

ある日のことだった。幼い子供を連れた母親が、ひどく憔悴した様子で窓口にやってきた。夫の失業で、明日からの生活もままならないという。手続きの説明をする蓮に、彼女は何度も「ごめんなさい」と繰り返した。その横で、不安そうに母親を見つめる子供が、ぽつりと呟いた。

「ママ、僕たち、もうダメなの?」

その言葉に、母親の体がこわばるのが分かった。彼女の胸に、絶望から生まれた真っ黒な染みが、じわりと広がりかけていた。

その瞬間、蓮は、自分でも意識しないうちに、子供の目を見て、微笑んでいた。

「大丈夫だよ。君のお母さんは、すごく強い人だから。僕たちがちゃんと支えるから、きっとまた、すぐに笑えるようになるよ」

それは、何の確証もない言葉だった。ある意味では、気休めの嘘だ。

しかし、その言葉を聞いた子供の顔が、ぱっと明るくなった。母親の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、絶望の涙ではなかった。

その日の業務を終え、蓮は洗面所の鏡で自分の顔を見た。そして、息を呑んだ。

彼の胸に、生まれて初めて、染みが灯っていた。

それは、まだとても小さく、頼りない光だった。だが、間違いなく、あの高松フミの胸で見たのと同じ、温かい金色をしていた。

世界は嘘と欺瞞に満ちている。それは変わらない事実だ。しかし、蓮は知ってしまった。その淀んだ世界の中で、誰かのために灯すことができる、小さな光があることを。その光を「祈り」と呼ぶことを。

蓮は鏡の中の自分に、静かに微笑みかけた。彼の呪いだったはずの能力は、今や、この冷たい世界を生き抜くための、たった一つの道しるべになっていた。

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