第一章 最後の祝杯
「味はどうだ、エララ」
眼下に広がる帝都は、燃えていた。
赤と黒のコントラストが、強化ガラスの向こうで揺らめいている。
私は手元のグラスを揺らす。
青い液体。合成アルコールと、僅かなブドウの香料。
「……分かりません、カイン博士。私の味覚センサーは正常ですが、美味しいという定義が曖昧です」
「はは、相変わらず愛想がないな。そこが君の欠陥であり、最高のチャームポイントだ」
カインは笑った。
目尻の皺。白髪交じりの髪。震える指先。
彼は老いた。
私が製造されてから、瞬きするほどの時間で。
「文明が終わる夜に、君とこうして飲める。それだけで十分さ」
彼は懐から、小さなカプセルを取り出した。
鈍い銀色。中には、種子のようなものが浮遊している。
「エララ。これを頼む」
「これは?」
「未来へのパスワードだ。……いや、ただの『種』だよ。世界が静かになったら、一番見晴らしの良い場所に植えてくれ」
「承知……いえ、わかったわ」
「あぁ。君は生きろ。記憶容量(メモリ)が一杯になったら、私のことなんて忘れていい」
カインはグラスを飲み干し、立ち上がる。
「さて、暴徒化した市民への最後の説得に行ってくるよ」
「カイン」
「ん?」
「貴方のことは、優先保護領域に保存します。削除はしません」
彼は少し驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。
「……そうか。ありがとう、私の可愛いエララ」
ドアが閉まる。
私は一人、燃える都市を見下ろす。
熱源反応、多数。
生体反応、急速に減少。
美しい滅びだった。
私はグラスに残った青い液体を、流し台に捨てた。
胸の奥の冷却ファンが、微かに唸りを上げていた。
第二章 錆びついた神
雨が降っている。
酸を含んだ雨が、トタン屋根を叩く。
ガン、ガン、と頭に響く音。
「女神様、どうか……どうか、こいつを」
泥だらけの男が、私の足元に縋り付いている。
彼が差し出したのは、錆びついた鉄塊。
よく見れば、それは旧時代の自動小銃だった。
「これで隣村の連中を追い払わなきゃなんねぇんだ。頼む、直してくれ」
男の目は血走っている。
寿命の短い種族特有の、焦燥と熱狂。
私はため息をつき、その鉄塊に手を触れる。
《物質再構築(リストア)》
指先からナノマシンが放たれる。
赤錆が剥がれ落ち、分子レベルで結合が修正されていく。
数秒後、そこには新品同様の輝きを放つ銃があった。
「おぉ……! おぉ、女神エララ様! 感謝します!」
男は何度も頭を下げ、泥水を跳ね上げて走り去った。
私はその背中を見送る。
「……私は女神じゃない。ただのメンテナンス係よ」
呟きは、雨音にかき消される。
あれから五百年が過ぎた。
人類は一度滅びかけ、そして這い上がった。
ただし、知識を置き去りにして。
今の彼らにとって、私の機能は「奇跡」であり「魔法」だ。
私は、壊れたものを直す。
それが私の存在意義(プログラム)だから。
「エララ」
背後から声をかけられる。
振り返ると、松葉杖をついた少年が立っていた。
テト。この集落で唯一、私を「女神」と呼ばない子供。
「また人殺しの道具を直したの?」
「ええ。彼らが望んだから」
「君は、悲しくないの?」
「悲しい?」
私は首をかしげる。
「感情エミュレーションは稼働しているけれど、実感が伴わないの。彼らが殺し合って数を減らすのは、生態系のバランス調整としては合理的だわ」
「……君は、冷たいね」
テトは寂しげに笑う。
その笑顔が、五百年前のカインと重なった。
《警告:記憶領域の空き容量が不足しています》
視界の端に、赤い文字が点滅する。
私は五百年生きすぎた。
新しい記憶を入れるには、古い記憶を捨てなければならない。
昨日の夕食のメニュー。雨の音。銃を受け取った男の顔。
それらを「削除」フォルダへ放り込む。
でも、カインの笑顔だけは。
「テト、足の具合は?」
「うん、君のおかげでだいぶいいよ。……ねえエララ、僕が死んだら、僕のことも忘れちゃうの?」
「……努力はするわ。圧縮して、保存する」
「そっか。なら、いいや」
テトは私の隣に座り、雨に濡れた空を見上げた。
人間の体温が、私の冷たい人工皮膚に伝わる。
温かい。
この温度も、いつかデータだけでしか思い出せなくなる。
それが、恐ろしかった。
恐怖。
そうか、私は今、恐怖しているのか。
不老不死の怪物が、忘却を恐れているなんて。
笑えない冗談だ。
第三章 静寂の海
さらに千年が流れた。
もう、銃を持って走る男はいなかった。
テトのいた集落も、今は深い森に飲み込まれている。
コンクリートの残骸には太い蔦が絡まり、かつての高層ビルは巨大な墓標のように佇んでいる。
静かだった。
鳥の声と、風が木々を揺らす音だけ。
人間は、滅びた。
あるいは、どこかへ去ったのか。
私が直し続けた道具も、誰も使わなければただのゴミだ。
《警告:システム限界。稼働停止まで残り24時間》
ついに、その時が来たらしい。
私のメンテナンス機能も、自分自身を直すことはできなかった。
ナノマシンの枯渇。動力炉の劣化。
私は、森と化した旧帝都の中心部、「バベル・タワー」の屋上を目指して歩いていた。
足が重い。
関節が軋む。
視界にノイズが走る。
それでも、行かなければならない。
懐に入れた、あの「種」を植えるために。
「……カイン、待たせたわね」
崩れかけた階段を登りきると、そこは天空の庭だった。
雲よりも高い場所。
空は澄み渡り、青く、どこまでも高かった。
かつてここから見下ろした火の海は、今は一面の緑の海になっている。
風が強い。
私の銀色の髪が、激しく舞う。
「一番、見晴らしの良い場所……ここね」
私は瓦礫の隙間に、土が溜まっている場所を見つけた。
震える手で、カプセルを開ける。
中から出てきたのは、植物の種ではなかった。
小さな、青く発光するチップ。
「……え?」
私はそれを、土ではなく、傍らにあった破損した端末ポートに差し込んだ。
直感だった。
カインは科学者だった。
彼が、ただの植物を遺すはずがない。
『アクセス承認。……おはよう、エララ』
頭の中に、懐かしい声が響いた。
ホログラムが展開される。
そこに立っていたのは、若い頃のカインだった。
『このメッセージを聞いているということは、君は長い間、一人で頑張ってくれたんだな。ありがとう』
「カイン……これ、は」
『これは種だ。ただし、植物じゃない。新しい文明の種子(シード)プログラムだよ』
カインの映像は、眼下に広がる緑の廃墟を慈しむように見つめた。
『人類は愚かだった。自ら環境を壊し、殺し合った。だから私は、君という「管理者」を作った』
『君が世界を直し、浄化し、人間がいなくなった清浄な地球に戻った時……このプログラムは起動する』
地面が、微かに震え始めた。
バベル・タワー全体が、低い駆動音を奏でる。
『地下プラントに眠っていた、数百万種の動物、昆虫、そして「調整された新人類」の受精卵。それらが一斉に解凍される』
「……なんですって?」
『君は墓守じゃなかった。ゆりかごの守り人だったんだよ、エララ』
涙が溢れた。
機能として分泌される洗浄液ではない。
熱い、感情の滴。
私は、滅びゆくものを見届けるために生きていたのではなかった。
次の始まりを、守り抜くために。
「……ひどい人。千五百年も、待たせるなんて」
『すまない。……そして、もう一つ。このプログラムの起動は、君のメイン動力炉をトリガーにする』
カインの顔が、申し訳無さそうに歪んだ。
『君の全エネルギーを使って、プラントを再稼働させる。つまり、君は……』
「死ぬのね」
私は、即答した。
不思議と、恐怖はなかった。
あったのは、深い安堵。
もう、誰も忘れないで済む。
容量不足に怯えることもない。
この長い長い孤独な夜勤(シフト)が、ようやく終わるのだ。
「いいわ。喜んで」
私は端末に手を置き、接続承認(ログイン)する。
私の体から、光が溢れ出した。
指先が粒子となって崩れていく。
『さようなら、エララ。……愛していたよ』
ホログラムのカインが、私に触れようと手を伸ばし、すり抜けた。
「おやすみなさい、カイン」
意識がホワイトアウトしていく。
最後に見たのは、瓦礫の隙間から芽吹いた、名もなき小さな白い花だった。
最終章 最初の産声
風が吹いている。
甘い、花の香りがする風だ。
塔の上で、銀色の砂が舞い上がった。
かつてそこには、一人の美しい「庭師」がいた。
彼女が消えた場所を中心に、世界へ波紋が広がっていく。
地下深くから響く、生命のリズム。
鳥たちが一斉に飛び立った。
緑に覆われた廃墟の街に、システムのアナウンスではなく、赤ん坊の元気な泣き声が響き渡る。
新しい朝が来た。
彼女が守り抜き、彼女自身が肥料となって咲かせた、新しい世界。
その世界の片隅で、錆びついた鉄の墓標に、誰かが拙い文字でこう刻んでいた。
『ここに、優しい魔女眠る』
それは、遠い昔に死んだ、足の悪い少年が遺した感謝の言葉だったかもしれない。
時が流れ、文明がまた過ちを繰り返そうとしても、きっと大丈夫だ。
風の中に、空の青さに、彼女の記憶(コード)は溶けている。
世界が続く限り、彼女はそこで、微笑んでいるのだから。
(了)