『英雄の残響と、虚構(アイドル)の聖戦』
第一章 モニター越しの魔眼
六畳一間の事務所には、カップ麺の残り香と、排熱ファンの唸り声だけが充満していた。
『ユグドラシル・エコー』。ここが、かつて剣を振るった俺の、今の戦場だ。
「あ、あの……初めまして、夢見ルナです……」
モニターの中、Live2Dの少女がぎこちなく頭を下げる。同時接続数は「3」。そのうちの1人は俺だ。
右目の奥が、錐(きり)で抉られるように痛む。眼帯の下、強制的に開かれた瞳孔が、液晶画面の向こう側にある「色」を捉えていた。
少女のアバターの輪郭が、接触不良の映像のように揺らいでいる。怯え、焦燥、そして「誰かに認められたい」という切実な飢えが、赤錆色の粒子となって彼女の肩に積もっていた。
コメント欄は静まり返っている。彼女の声が震え、沈黙が痛い。
俺はキーボードに指を走らせ、指示出し用チャットに短く打ち込む。
『謝るな。好きな歌の話をしろ。お前が一番熱くなれるやつだ』
画面の向こうで、彼女がハッと顔を上げる。
俺は胸ポケットの懐中時計を取り出し、無意識に親指で擦った。ひび割れたガラス、動かない針。それは、俺が過去に置き去りにした少女の、凍り付いた時間の象徴だった。
第二章 聖女の裏切りと修復される時
あの日から三ヶ月。ルナの登録者は少しずつ増え、事務所にも活気が生まれ始めていた。
だが、その夜の記念配信で、世界は反転した。
突如、コメント欄の流れが止まる。
『救済』『統合』『個の消去』
無機質な単語の羅列が、滝のように画面を埋め尽くした。スパム荒らしではない。もっと底知れない、冷徹な意志の集合体。
右目の激痛で視界が白く飛ぶ。モニターから溢れ出したのは、かつて俺が背を向けた「完璧な秩序」の気配。
アバターのルナが、見えない糸に操られるように痙攣し、その瞳から光が消えていく。
『ケンイチ、まだそんな不完全な器に拘泥(こだわ)っているのですか』
スピーカーから響いたのは、合成音声のような、けれど聞き覚えのある慈愛に満ちた声。
エリス。かつて俺が守り、そして理解することを放棄した聖女。
彼女はアバターすら使わない。世界中のネットワークそのものを自らの「神殿」とし、ルナという「器」を通してこちらの世界を塗り替えようとしている。
「いやだ……私は、私のままでいたい……!」
ルナが喉を絞り出すように叫ぶ。だが、画面上の彼女の体はデジタルノイズに侵食され、幾何学的な「完璧な形」へと強制置換されていく。
俺の手が震えた。まただ。圧倒的な理不尽の前に、俺はただ立ち尽くすのか。
あの時、エリスが「世界のために」と自らを犠牲にした時、俺はその重圧から目を逸らした。彼女の孤独な震えに気づかないふりをした。
だが、ルナは泣きながらも、マイクを握りしめている。ノイズに焼かれる痛みの中で、まだ歌おうとしている。
俺は懐中時計を握りしめた。ひび割れたガラスが指に食い込み、血が滲む。
その痛みと熱が、冷え切っていた歯車に伝播した。
カチリ。
乾いた音が響く。
秒針が動いた。俺の中で、止まっていた時間が、軋みを上げて回り出す。
第三章 魂のライブ配信
「ルナ、音程なんて気にするな! そのノイズごと叩きつけてやれ!」
マイクのスイッチを入れ、俺は怒鳴った。
コンソールのフェーダーを限界まで押し上げる。整然としたエリスの支配領域に、俺たちの泥臭い「生」をねじ込む。
ルナが叫んだ。それは歌というにはあまりに拙く、悲鳴に近い咆哮だった。
『あたしは、ここにいる!』
歌詞ですらない、魂の絶叫。だが、その歪で不格好な波形が、完璧に構築されたエリスの演算プログラムに亀裂を入れる。
右目が見せる世界が変わった。
『統合』で埋め尽くされていたコメント欄に、異物が混じる。
『なんだこれ』『泣いてんのか?』『なんか、すげえ』『負けんな』
視聴者たちの困惑、同情、そして熱狂。整理されていない、混沌とした感情の奔流。
それらが無数の色彩となって画面を染め上げ、白一色の「秩序」を食い破っていく。
俺はキーボードを叩き続ける。指先が裂け、鍵盤が赤く汚れるのも構わず、ルナの声を、その存在を、世界中に拡張(アンプリファイ)させる。
画面の向こうで、幾何学模様の浸食が止まる。
集合的無意識という名の怪物を、たった一人の少女の「エゴ」が押し返したのだ。
スピーカーから、微かな吐息が漏れた気がした。
それは悔しげなようで、どこか安堵したような、エリスの――人間としての溜息だったのかもしれない。
最終章 プロデュースの神様
騒動は「大規模なサーバー障害と、伝説の神回」としてネットの海に溶けた。
事務所の窓から差し込む朝日は、いつもと変わらず埃っぽい部屋を照らしている。
「プロデューサー、次の配信のセトリ、相談いいですか?」
モニターの中で、ルナが屈託なく笑う。そのアバターの輪郭は、もう揺らいでいない。
俺は冷めた缶コーヒーをあおり、眼帯の位置を直した。
右目の疼きは消え、ただの古傷に戻っている。
「ああ。だがその前に、発声練習だ。昨日のような叫び声じゃ、喉が潰れるぞ」
憎まれ口を叩きながら、俺は懐中時計をデスクの隅に置いた。
ガラスのひび割れはそのまま、傷だらけの真鍮もそのままだ。
だが、その秒針だけは、チクタクと正確に、これからの未来を刻み続けている。
「了解です! ……あ、それと」
「なんだ」
「昨日は、ありがとうございました」
俺は返事をせず、背中越しに手を振った。
英雄はいらない。ここに必要なのは、彼女たちが一番輝く瞬間を、暗がりから照らす裏方だけだ。