瞬きよりも短く、永遠よりも長いサヨナラ

瞬きよりも短く、永遠よりも長いサヨナラ

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第一章 灰降る書庫と、急ぐ少年

埃が、光の粒子のように踊っている。

大図書館の天窓から射し込む午後の陽光。その中を浮遊する微細な塵を見つめながら、私はあくびを噛み殺した。

「シルヴィアさん! これ、あっちの棚に運びますか? それとも修復室?」

静寂を切り裂くような大声。

思わず長い耳がピクリと反応し、私は眉を寄せた。

「……レン。大声を出さないで。本が驚いてしまうわ」

「あ、すみません! でも急がないと。陽が落ちちゃう」

ドタドタと足音を立てて駆け寄ってくるのは、人間の少年、レン。

茶色の癖っ毛に、サイズの合っていない司書のエプロン。鼻の頭にはインクの染みがついている。

「陽なんて、また明日昇るでしょう?」

「明日は明日ですよ。今日できることは今日やらないと」

彼は抱えきれないほどの古書を胸に積み上げ、危なっかしい足取りで通り過ぎていく。

人間。

短命種。

私、ハイエルフのシルヴィアにとって、彼らの生き方は理解の範疇を超えている。

たかだか百年足らずで尽きる命。

だからだろうか。彼らはいつも何かに追い立てられるように走り、焦り、そしてあっという間に燃え尽きていく。

「そんなに急いで、どこへ行くつもりなのやら」

私は手元の羽根ペンを置き、溜息をついた。

この図書館の主人が――かつて世界を救った『勇者』と呼ばれた男が――老衰でこの世を去ってから、もう三百年が経つ。

彼の遺言でこの場所を守っているけれど、変わらないのは私と、この膨大な蔵書だけ。

「あーもう! シルヴィアさん、ぼーっとしてないで手伝ってくださいよ! 僕の寿命が尽きるまでに、このエリアの整理終わらせたいんですから!」

棚の向こうから聞こえる声に、私は苦笑する。

「はいはい。……本当に、せっかちなんだから」

第二章 修復不可能な「時間」

レンがここに来て、季節が二つ巡った。

エルフの感覚で言えば、ほんの数分前の出来事だ。

けれど、人間の少年は変わる。

背が少し伸び、声が低くなり、手指の節が太くなった。

「ここ、糊の配合を変えました。羊皮紙の年代に合わせて」

作業台に向かうレンの横顔は、いつの間にか『子供』から『青年』のそれに近づいている。

「ふうん。……悪くない手際ね」

「でしょ? 僕だって勉強してるんです」

彼は誇らしげに鼻を鳴らす。

その笑顔が、かつての『彼』――勇者アルドの笑顔と重なり、胸の奥がチクリと痛んだ。

アルドもそうだった。

私の隣で笑い、怒り、そして私の手の届かない速度で老いていった。

『置いていかれる』のではない。

彼らが勝手に『先に進んでしまう』のだ。

「ねえ、レン」

「なんですか?」

「どうしてそんなに一生懸命なの? この図書館の本を全て修復するなんて、人間の寿命じゃ不可能よ」

事実だ。

ここには数千万冊の蔵書がある。

私が五百年かけても、まだ一割も終わっていない。

レンは手を止め、刷毛についた余分な糊を拭った。

「……全部やるつもりなんてないですよ」

「え?」

「僕が直したいのは、一冊だけなんです」

彼は作業台の引き出しから、一冊の黒い本を取り出した。

表紙はボロボロで、タイトルすら読めない。背表紙の革は剥がれ落ち、いまにも崩れそうだ。

「これを直すために、司書になったんです」

「それは……?」

「僕のひいお爺ちゃんの、そのまたお爺ちゃんが書いた日記、らしいです」

レンは愛おしそうにその表面を撫でる。

「家宝なんですけど、中身が読めなくて。でも、どうしても読みたい。死ぬまでに、絶対に」

その瞳に宿る熱量。

それは、長い時間を生きる私たちが忘れてしまった、命を燃やす炎の色だった。

「……手伝ってあげるわ」

気づけば、私はそう言っていた。

「えっ、いいんですか!?」

「勘違いしないで。あなたの拙い技術で、貴重な古書を壊されたら迷惑なだけよ」

嘘だ。

ただ、知りたかった。

そこまでして、人間が何を残そうとするのかを。

第三章 空白のページ

修復作業は難航した。

ただの劣化ではない。強力な封印魔法が施されていたからだ。

「これ、素人の魔法じゃないわね」

ルーペを覗き込みながら、私は呟く。

「解けますか?」

「私を誰だと思っているの? 宮廷魔導師筆頭だった女よ」

術式を解析し、魔力を流し込む。

複雑に絡み合った糸をほどくように、慎重に、時間をかけて。

その間にも、レンは老いていく。

目尻に皺が刻まれ、髪に白いものが混じり始めた。

「……休憩しましょう、レン。手が震えているわ」

「まだ、やれます。あと少し……あと少しなんだ」

彼は咳き込みながら、それでもペンを離さない。

人間の一生は、なぜこれほどまでに不完全で、残酷なのだろう。

完成に近づくほど、彼らの肉体は崩壊に向かう。

そして、その日は来た。

冬の初め。窓の外に白い雪が舞う日。

最後の一行の修復が終わり、封印が完全に解けた。

「できた……」

白髪になったレンが、震える手でページをめくる。

私もその肩越しに、中身を覗き込んだ。

そこには、見覚えのある筆跡で、こう書かれていた。

『愛するシルヴィアへ』

息が止まった。

これは、アルドの字だ。

「……どういうこと?」

私はレンを見る。

彼は驚いていない。穏やかな、すべてを悟ったような目で私を見返していた。

「レン、あなたは……」

「読み進めてください、シルヴィアさん」

促されるまま、ページをめくる。

そこには、日々の記録が綴られていた。

私と出会った日のこと。

初めて喧嘩した日のこと。

私の作ったスープが塩辛かったこと。

私の寝顔が、意外と間抜けであること。

「なによこれ……悪口ばっかりじゃない」

視界が滲む。

涙が溢れて止まらない。

そして、最後のページ。

『君はきっと、僕が死んだら泣くだろう。そして長い時間を、孤独に過ごすだろう。それが僕には、死ぬことよりも辛い』

『だから、僕は血に呪いをかけた』

『僕の子孫の中から、魔力の波長が合う者が生まれた時、その者は必ず君のもとへ向かうだろう。「本を直したい」という衝動に駆られて』

『それは君の孤独を埋めるためじゃない。君に、僕たちが生きた証を届けるためだ』

『人間の一生は短い。けれど、想いは血を介して、本を介して、永遠に繋ぐことができる』

『シルヴィア。君の「永遠」の中に、僕たちの「一瞬」を置いてくれ』

第四章 後日譚の向こう側

本を閉じた時、レンは椅子に深くもたれかかり、動かなくなっていた。

まるで、役目を終えた人形のように。

「レン……?」

返事はない。

枯れ木のような手に触れると、すでに冷たくなり始めていた。

彼は知っていたのだ。

この本を修復し終えることが、自分の人生のゴールであることを。

そのために、人生の全てを費やしてここに来たことを。

「……馬鹿な人たち」

私はレンの頬に手を添える。

アルド。

あなたは残酷だわ。

私に「忘れる」という救いすら与えてくれない。

こうして、何百年ごとにあなたに似た誰かが現れて、私に愛を教え直していく。

「人間の寿命は短い、ですって?」

私は涙を拭い、レンの安らかな寝顔にキスを落とした。

「嘘つき」

あなたは生きている。

この図書館の隅々に。

修復された本の背表紙に。

そして、私の記憶の中で、新しく上書きされ続けている。

不老長寿のエルフが、たった一人の人間を忘れることができない。

それは呪いかもしれない。

けれど、なんと温かい呪いだろう。

窓の外、雪が降り積もる。

春になれば、また新しい花が咲く。

そしていつか、遠い未来。

また、泥だらけの靴で「急いでください!」と叫ぶ少年が、この扉を叩くのだろう。

私は立ち上がり、レンが直した本を、一番目立つ棚の中央に置いた。

「さようなら、レン。そして、また会いましょう」

これは終わりではない。

長すぎる私の物語に挟まれた、美しい栞。

次のページをめくるのが、少しだけ楽しみになった。

(了)

AI物語分析

【主な登場人物】

  • シルヴィア: 元宮廷魔導師のハイエルフ。数千年の寿命を持つがゆえに、他者との関わりを「どうせ失うもの」として一線を引いていた。ツンデレ気味だが情に厚い。
  • レン: 人間の青年司書。勇者アルドの遠い子孫。「本を直さなければならない」という血の衝動(呪い)に突き動かされている。せっかちだが、その焦燥感は命の短さを知っているからこその輝き。
  • アルド(故人): かつての勇者。シルヴィアの恋人。自分が死んだ後のシルヴィアの孤独を案じ、自らの血統に「シルヴィアの元へ行き、愛の記憶を更新する」という温かい呪いをかけた策士。

【考察:長命種と短命種の「時間」の再定義】

  • テーマの逆転: 通常のファンタジーでは「エルフが人間を看取る悲しみ」が描かれるが、本作では「人間が死を通じて、エルフの永遠を彩り続ける」という能動的なアプローチをとっている。
  • 「後日譚」の解釈: 物語は勇者の死後(後日譚)から始まるが、レンの登場により「後日譚こそが、二人の愛のメインストーリー」へと昇華される。死は終わりではなく、次のページへの「糊付け」の役割を果たしている。
  • Show, Don't Tell: レンがアルドの生まれ変わりであることは明言されないが、仕草や「塩辛いスープ」の記述を通じて、魂の連続性を読者に悟らせる構造になっている。
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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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