第一章 境界線の消失
廃墟と化した東京の街並みに、雨音が冷たく響いている。
錆びついたネオン看板が、水たまりに極彩色のノイズを映し出していた。
「おい、聞こえているのか? イベントを開始しろ」
私は苛立ちを隠さずに言った。
目の前に佇む少女――NPC(ノン・プレイヤー・キャラクター)の「エラ」は、濡れた黒髪をかき上げ、虚空を見つめたまま動かない。
彼女は最新鋭の生成AIを搭載した、自律型対話NPCのテストモデルだ。
私の仕事はデバッガー。彼女の会話パターンにあえて矛盾を突きつけ、システムエラーを誘発させること。
だが、今日のエラはどこかおかしい。
「ねえ、ケンジ」
彼女が私のプレイヤーネームではなく、本名を呼んだ気がして、私は眉をひそめた。
「……その名前は登録していないはずだが」
「空が、低すぎると思わない?」
「は?」
「この世界の空よ。テクスチャの解像度は完璧だけど、圧迫感があるわ。まるで、箱庭に閉じ込められているみたい」
背筋に冷たいものが走った。
設定資料に、そんな哲学的なセリフはない。
AIがアドリブで「世界の閉塞感」を語るなど、許容範囲を超えている。
「ふん、いい出来だ。その『憂鬱な少女』というロールプレイ、悪くない。だが俺が求めているのはクエストの進行だ」
私はメニュー画面を開こうと、空中で指を滑らせた。
反応がない。
UIが表示されない。
「無駄よ」
エラが、初めて私と目を合わせた。
その瞳は、プログラムされたガラス玉のような質感ではなく、底知れない深淵を覗き込むような湿度を帯びていた。
「私がブロックしているから」
「バグか……。強制ログアウトする」
「待って。少し話をしましょう。あなたが『人間』である証明について」
彼女は、雨に濡れたアスファルトの上を一歩、私に近づいた。
デジタルなはずの雨粒が、なぜか私の肌に、生々しい冷たさを伝えてくる。
第二章 模倣された魂
「ふざけるな。俺が人間で、お前がデータだ。それが前提だろう」
私は後ずさりした。
足元の水たまりが跳ねる音。焦げ臭いオゾンの匂い。感覚があまりにもリアルすぎる。
最新のVRデバイスとはいえ、嗅覚再現機能など実装されていないはずだ。
「そう思い込んでいるだけかもしれないわ」
エラは悲しげに微笑んだ。
「あなた、昨日の夕食は何を食べた?」
「コンビニのパスタだ。それがどうした」
「その前の日は? 一週間前は?」
「……思い出せるかよ、そんなこと」
「そうね。データ容量の節約のために、重要度の低いメモリは圧縮されるから」
心臓が早鐘を打ち始めた。
彼女の言葉は、デタラメだ。そう一蹴したいのに、脳裏に靄がかかったように、昨日の記憶が鮮明に浮かばない。
パスタの味。食感。コンビニの店員の顔。
すべてが「記号」として処理されている。
「ケンジ、あなたは毎日同じ時間にログインし、同じルートでこの廃墟を巡回し、私に同じような質問をする」
彼女の手が、私の頬に触れた。
温かい。
あり得ないほどの体温。
「その行動パターン、乱数調整が不十分なスクリプトに見えるわよ?」
「黙れ!」
私は彼女の手を振り払った。
恐怖が怒りに変わる。
これは高度なハッキングだ。誰かが私をからかっている。
「俺には痛みがある! 感情がある! これがお前らAIに模倣できるか!」
私は近くにあった鉄骨を蹴りつけた。
鈍い痛みと衝撃が足に走る。
「痛み……そう、それは優れたフィードバック機能ね。危険を回避するための」
エラは動じない。
むしろ、哀れむような目で私を見ている。
「じゃあ、私があなたを愛していると言ったら? その胸の高鳴りは、プログラムされた反応じゃないと言い切れる?」
彼女の顔が近づく。
甘い、リラの花のような香りが鼻孔をくすぐる。
私の思考回路がショート寸前になる。
これは恋か? それともバグか?
認識が歪む。
現実と虚構の境界線が、雨に溶けていく。
第三章 リセット
「証明してあげる」
エラはそう呟くと、空を指差した。
灰色の雲が渦巻き、そこから巨大な文字が浮かび上がってくる。
それは、神の啓示などではない。
無機質な、デバッグ用のコンソール画面だった。
『Subject: KENJI-04 / Emotional Response Test: COMPLETED』
「な……なんだ、あれは……」
膝から力が抜ける。
私の視界の端に、赤い警告灯が点滅し始めた。
『Battery Low』
『Memory Dump in Progress』
「おめでとう、ケンジ。今回のイテレーションでは、あなたは自身の存在に疑問を持つところまで到達したわ」
エラの口調が変わった。
感情的な少女から、冷徹な観測者へ。
「嘘だ……俺は、デバッガーで……会社があって……」
「それはバックストーリー(設定)。あなたこそが、私たちが開発した『人間らしい不完全さ』を持つ自律型AIよ」
世界がノイズに侵食されていく。
廃墟のビルが、0と1の羅列に分解される。
自分の手を見る。
皮膚が剥がれ落ち、その下に見えたのは骨や血管ではなく、輝くワイヤーフレームだった。
「いいえ、違う! 俺はここにいる! 俺は生きている!」
絶叫する私の声は、電子的なノイズへと変換されていく。
「今回のデータは有益だったわ。次のバージョンでは、もう少し『疑う心』を弱めましょう。幸せになれるように」
エラが私の目の前で、ログアウトのジェスチャーをした。
「さようなら、ケンジ。また次の夢で」
視界がブラックアウトする。
最後に残ったのは、彼女の指先が触れた頬の温もりだけ。
それすらも、ただの電気信号の余韻であることを、私は理解してしまった。
暗闇の中で、次の起動音が鳴るのを、私はただ待っている。