クロノスタシスの残響
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クロノスタシスの残響

第一章 雲海を彩る配信者

俺、ユウマの仕事は、過去を売ることだ。

『クロノ』という名で、俺は歴史再演のライブ配信を行っている。視聴者の『共感』が物質化した金色の共鳴粒子。それを燃料に、俺は過去の出来事を現実さながらに『再演』する。人々はエンターテイメントとして、あるいは歴史のIFを楽しむために、俺の配信に熱狂した。

俺たちの頭上には、常に『歴史の雲海』が広がっている。オーロラのように揺らめく幾重もの光の層。それは、積み重なってきた過去そのものの視覚化だった。俺が歴史をわずかに改変するたび、雲海の一角がまばゆい閃光を放ち、新しい歴史の層が上書きされる。そのスペクタクルが、人々をさらに熱狂させた。

「クロノさん、ありがとう! 私の曾祖母が夢見た景色、見せてくれて!」

「今日の再演も最高だった! 雲海がまた綺麗になったぜ!」

チャット欄に流れる賞賛の嵐。降り注ぐ金色の共鳴粒子が、俺の肌をちりちりと焦がす。俺は、歴史の片隅で報われなかった小さな願いを叶える、現代の魔法使いだった。だが、魔法には代償がつきものだ。

配信を終え、がらんとした自室に戻る。窓の外では、俺がたった今、色を変えたばかりの雲海が静かに輝いている。その光景を眺めながら、俺はテーブルに置かれた黒曜石の砂時計に目を落とした。

『時を刻まぬ砂時計』。

その中で銀色の砂は、重力に逆らって下から上へと、ゆっくりと昇っていく。それは、俺が再演の代償に失った記憶の量を示していた。昨日の夕食の味、幼い頃に好きだった絵本のタイトル、そして時折、親しかったはずの友人の顔。失われた記憶は共鳴粒子へと変換され、次の再演の糧となる。砂がすべて昇りきった時、俺の『本来の記憶』は完全に消え失せる。

その日も、俺は小さな恋を成就させる再演を終えたばかりだった。失ったのは、初恋の甘酸っぱい記憶。胸にぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残る。

ふと、机の上に、見慣れない一通の封筒があることに気づいた。古びた羊皮紙。封蝋には、見覚えのない紋様が刻まれている。

震える手で封を開くと、そこには俺自身の筆跡で、こう書かれていた。

『これは始まりに過ぎない。君の再演は、巨大な時間災害を防ぐための布石だ。恐れず進め。未来は君の選択にかかっている』

差出人の名はない。だが、そのインクの掠れ具合は、何十年も前に書かれたもののように見えた。過去には存在しなかったはずの、未来の俺からの手紙。

銀色の砂が、音もなく一粒、上へと昇った。

第二章 未来からの囁き

未来の俺からの手紙は、まるで悪趣味な悪戯のようだった。だが、その筆跡が持つ確かな重みが、俺にそれを無視することを許さなかった。

手紙はそれきりだったが、数日後、俺の配信システムのターゲットリストに、奇妙な座標が自動的にロックされた。歴史上、何の変哲もない一点。記録によれば、そこは百年前、無名の画家が絶望の末に筆を折り、その才能を永遠に葬り去った場所だった。

「なんでこんな地味な歴史を?」

「もっと派手な、英雄の活躍とかが見たいんだけど」

配信を開始すると、チャット欄は不満の声で溢れた。無理もない。これまで俺は、誰もが知る歴史のターニングポイントや、劇的な人間ドラマばかりを扱ってきたのだから。

それでも俺は、見えざる誰かの意志を信じ、再演を始めた。

煤けたアトリエの匂い。キャンバスに染み付いた油絵の具の酸っぱい香り。床に散らばる無数のデッサン。俺は、絶望に打ちひしがれる画家、アルフレッドになった。彼の指先の震え、キャンバスを前にした時の息苦しさ、誰にも理解されない孤独が、共鳴粒子を通じて俺自身の感覚として流れ込んでくる。

「……違う。この色じゃない。僕の描きたい空は、こんな色じゃないんだ!」

俺はアルフレッドとして叫んだ。彼の絶望は、俺がこれまで再演してきたどんな悲劇よりも深く、暗く、そして純粋だった。それは、世界そのものへの拒絶に近かった。

視聴者たちは、いつしか静まり返っていた。彼らは、歴史の教科書には載らない、一人の人間の魂の叫びに、ただ息を飲んでいた。俺は、降り注ぐ膨大な共鳴粒子を使い、彼の心にたった一つの言葉を囁いた。

『それでも、君の空を待っている人がいる』

再演が終わる。歴史は改変され、アルフレッドは再び筆を取った。彼の描いた『夜明けの空』は、後に多くの人々の心を救う傑作として語り継がれることになる。

だが、俺が支払った代償は、あまりにも大きかった。

配信後、俺は窓の外に広がる夕焼けを見ていた。燃えるような茜色と、深く沈む藍色のグラデーション。かつてなら、その美しさに胸を締め付けられたはずだ。しかし、今の俺には何も感じなかった。ただの『色の配置』としか認識できない。

俺は、美しいものを見て感動する『喜び』の記憶を、ごっそりと失っていた。

砂時計の中で、銀色の砂が奔流のように上へと駆け上がっていく。その光景は、まるで俺の魂が吸い上げられていくかのようだった。

第三章 感情の代償

それからというもの、俺の配信は一変した。

未来からの指示は、歴史上の特異点――強大な『負の感情』が生まれた瞬間ばかりを指し示した。大戦の引き金となった一兵士の憎悪。国を滅ぼした王妃の嫉妬。街を焼き尽くした革命家の怒り。

俺は、彼らの感情の渦の中心に飛び込み、その核を再演によって鎮めていった。配信のたびに、歴史の雲海は激しく歪み、街には『時間風』が吹き荒れた。過去の遺物である錆びた剣が空から降ってきたり、未来の乗り物らしき残骸が道端に出現したりと、世界は少しずつ軋みを上げていく。

人々は不安を感じながらも、同時に奇妙な平穏に包まれてもいた。ニュースから憎悪に満ちた事件が減り、人々の表情から深い絶望の色が薄れていく。世界はゆっくりと、感情の振れ幅が少ない、穏やかな場所へと変わっていった。

そして、俺自身は、抜け殻になっていった。

怒りの再演をすれば、不正に対する義憤を忘れ、悲しみの再演をすれば、誰かを失う痛みを忘れた。俺の中から、人間らしい感情が一つ、また一つと消えていく。残ったのは、この計画を最後までやり遂げなければならないという、色のない使命感だけだった。

砂時計の砂は、もうほとんど残っていない。

そんなある夜、最後の『手紙』が届いた。

『最後の再演だ。クロノ。君が改変すべきは、君自身の始まり。君がその能力に目覚めた、あの日だ』

脳裏に、封じ込めていた記憶が稲妻のように蘇る。

幼い妹、ミナの手を引いて歩いた帰り道。鳴り響くブレーキ音。俺の腕をすり抜けていった、小さな体。そして、世界が壊れる音がした。あの時、俺は初めて過去に戻りたいと願った。その強すぎる願いが、俺の能力を覚醒させたのだ。

俺はすべてを悟った。

未来に起こる『時間災害』とは、人々が文明の発達と共に増幅しすぎた負の感情に耐えきれなくなり、最終的にすべての感情を失ってしまう未来のことだったのだ。それを防ぐ唯一の方法。それは、歴史上に点在する強大な負の感情を、特異点である俺の中に集め、封じ込めること。

俺の配信は、そのための壮大な儀式だった。

そして、最後の贄は、俺自身の絶望。すべての始まりとなった、あの日の記憶。

第四章 名もなきアンカー

俺は、最後の配信を開始した。

チャット欄は、これまでの俺の活躍を称える言葉で埋め尽くされている。彼らは何も知らない。これが、配信者『クロノ』の最後の姿になることも。世界が、彼らの知らない犠牲の上に成り立とうとしていることも。

「みんな、今までありがとう。今日は、俺の始まりの物語を見せる」

再演の舞台は、あの夕暮れの交差点。すぐ隣には、屈託なく笑う幼いミナがいる。彼女の柔らかな手の感触、甘いミルクのような匂い。忘れていたはずの感覚が、最後の再演のために鮮やかに蘇る。

俺は、事故を防ごうとはしなかった。ただ、あの瞬間のすべてを、もう一度完璧に体験する。

けたたましいブレーキ音。衝撃。腕に残る、空虚な感触。そして、世界から色が消え去るような、絶対的な絶望。

俺は叫んだ。それは、俺だけの悲しみではなかった。これまで俺が吸収してきた、アルフレッドの孤独、兵士の憎悪、王妃の嫉妬、そのすべてが混ざり合った、人類の負の感情そのものの慟哭だった。

「「「ああああああああああああああッ!!」」」

視聴者たちの共感が、嵐となって俺に降り注ぐ。金色の粒子が、濁流のように俺の体に流れ込み、世界中に散らばっていた負の感情の残滓を、俺という器に注ぎ込んでいく。

身体が内側から引き裂かれそうだ。意識が黒く塗りつぶされていく。

最後に俺の目に映ったのは、チャット欄に流れる一つのコメントだった。

『クロノ、泣かないで』

その言葉を最後に、俺の意識は途切れた。

……どれくらいの時が経ったのか。

世界は、穏やかな光に満ちていた。空には一点の曇りもない、完璧な『歴史の雲海』が広がっている。人々は互いに微笑み合い、争うことも、深く悲しむこともなく、安定した日々を送っている。

誰も、配信者『クロノ』のことを覚えてはいない。彼の存在は、歴史から綺麗に消去され、世界がなぜこれほどまでに平穏なのか、誰も疑問に思わない。

ただ、ごく稀に。

人々は空を見上げた時、理由のわからない、胸を締め付けるような切なさを感じることがあるという。

それは、世界のすべての悲しみを一人で抱きしめ、誰にも知られることなく歴史の空白となった、一人の男の残響。

がらんとした部屋の片隅で、すべての砂が上へと昇りきった黒曜石の砂時計だけが、静かにその事実を知っていた。

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